大判例

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東京地方裁判所 昭和48年(刑わ)668号 判決

本籍《省略》

住居《省略》

村松和行

昭和二四年一月二日生

〈ほか三名〉

右四名に対する爆発物取締罰則違反、右村松和行、同井上清志に対する窃盗各被告事件につき、当裁判所は、検察官遠藤寛及び杉本一重並びに右村松和行、同井上清志、同前原和夫の弁護人仙谷由人、同森本宏一郎、同錦織淳、同羽柴駿、同草野多隆、同笠井治及び右平野博之の弁護人須藤正彦各出席の上審理し、次のとおり判決する。

主文

被告人村松和行を懲役一〇月に、被告人井上清志を懲役六月に、それぞれ処する。

右被告人両名に対し、各未決勾留日数中右各刑期に満つるまでの日数を、それぞれその刑に算入する。

右被告人両名に対し、この裁判が確定した日からそれぞれ二年間、その刑の執行を猶予する。

被告人村松和行は、同被告人に対する昭和四八年二月一二日付、同年三月六日付及び同年四月一八日付各起訴状記載の各公訴事実(同年四月一八日付の分は第八七回公判期日における訴因変更後のもの)につき無罪。

被告人井上清志は、同被告人に対する昭和四八年三月一〇日付及び同年四月四日付各起訴状記載の各公訴事実(同年四月四日付の分は第八七回公判期日における訴因変更後のもの)につき無罪。

被告人平野博之及び被告人前原和夫は、いずれも無罪。

理由

第一部被告人村松和行及び被告人井上清志に対する各窃盗被告事件

(罪となる事実)

第一  被告人両名は、増渕利行外数名と共謀の上、昭和四四年六月下旬ころ、東京都千代田区富士見二丁目一七番一号所在学校法人法政大学図書館において、同大学所有(当時の同大学総長中村哲管理)の図書レーニン全集等四三冊(価格合計三万九五八〇円相当)を窃取し、

第二  被告人村松和行は、

一 梅津宜民外三名と共謀の上、同年一二月九日ころ、同都世田谷区桜上水一丁目一番日本住宅公団東経堂団地内B駐車場において、平田昇所有の普通乗用自動車(ブルーバードスリーS、一六〇〇CC)用ラジアルタイヤ四本(時価約四万円相当)を窃取し、

二 梅津宜民外二名と共謀の上、同月二二日ころ、同区船橋五丁目一七番日本住宅公団西経堂団地内B駐車場において、小林賢三所有の普通乗用自動車(ブルーバードスリーS、一六〇〇CC)用ラジアルタイヤ四本(時価約三万五〇〇〇円相当)を窃取し

たものである。

(証拠の標目)《省略》

(法令の適用)

一  被告人村松について

同被告人の判示各所為は、いずれも刑法六〇条、二三五条に該当するところ、以上は同法四五条前段の併合罪であるから、同法四七条本文、一〇条により、犯情の最も重い判示第二の一の罪の刑に法定の加重をした刑期の範囲内で同被告人を懲役一〇月に処し、同法二一条により、未決勾留日数中右刑期に満つるまでの日数を右刑に算入し、同法二五条一項を適用して、この裁判の確定した日から二年間、右刑の執行を猶予することとする。

二  被告人井上について

同被告人の判示第一の所為は、刑法六〇条、二三五条に該当するので、その所定刑期の範囲内で同被告人を懲役六月に処し、同法二一条により、未決勾留日数中右刑期に満つるまでの日数を右刑に算入し、同法二五条一項を適用して、この裁判の確定した日から二年間、右刑の執行を猶予することとする。

第二部無罪部分の理由

一  まえがき

右第一部において判示した事実に対応するものを除く本件公訴事実は、次の四個の事実に関するものである。すなわち、

1  昭和四四年一〇月中旬ころ、新宿区内の被告人らのアジトにおける手製爆弾十数個の製造(被告人四名外十数名共謀)

2  同月二四日、同区内の警視庁第八機動隊、同第九機動隊隊舎正門前における点火手製爆弾一個の投てき使用(被告人村松、同井上、同前原外数名共謀)

3  同月末ころ、前記アジトにおける後記4で使用された爆弾の製造(被告人前原外数名共謀)

4  同年一一月一日、千代田区内のアメリカ文化センターにおける時限装置付手製爆弾の設置使用(被告人村松外数名共謀。なお、起訴状の記載は「装置使用」であるが、以下においては、便宜、「設置使用」という。)

である。

右各手製爆弾は、いずれも、缶入りたばこ「ピース」の空き缶に爆薬、パチンコ玉等を充填し、起爆装置を付加した基本的構造を有するものとされている。

(以下において、「ピース缶爆弾」というときは、このような基本的構造を有する爆弾を指称する。なお、右各事実を総称して、単に、「本件」「本件犯行」「本件公訴事実」あるいは「公訴事実」等ということがある。)

関係証拠によれば、何者かによって右2及び4の各犯行が敢行されたことは明らかであり、ひいて右各犯行で使用された各手製爆弾を製造した者のあることも明らかとしなければならない。

検察官は、右1の製造にかかる爆弾の一つが右2の犯行に用いられ、他の一つが3の犯行により改造されて4の犯行に用いられたとし、その犯人はそれぞれ右に示す各被告人ら及びその余の共犯者らであり、かつ、各製造の日時場所は右のとおりと認定すべきである旨主張するのであるが、被告人らは右主張を極力争い、無実を主張してやまないのであって、本件の争点は、つまるところ、右各犯行の犯人が被告人らであることの証明の有無に帰する。

ところで、右2の犯行(投てき)に使用された手製爆弾は、後述するような理由で爆発することなくその場で押収され、右4の犯行(設置)に使用された時限装置付手製爆弾も、後述するとおり間もなく発見されて結線を切断された結果、爆発することのないまま、これを収納したダンボール箱及びその包み紙もろともに押収されたのであるが、これらの物自体からは、被告人らと本件各犯行とを結びつけるに足りる指紋その他の証跡は見いだされていない。

また、右2の事件においては、犯人は逃走に成功して現行犯逮捕はできなかったし、投てき状況あるいは逃走状況を目撃した者はあるけれども、いずれもやや離れたところからの目撃あるいは一瞬のすれ違いの際の目撃に過ぎず、これによって被告人らを犯人と特定できる程度のものではない。

さらに、右4の事件においては、手製爆弾が現場に設置される状況あるいはその前後の状況を目撃した者は現れておらず、犯行現場ないしその付近から、犯人特定の手がかりとなるような遺留品その他の物も発見されていない。

いうまでもなく、1及び3の各犯行(各製造)が、いつ、どこで行われたかは、押収された爆弾等から知るに由なく、第三者による製造現場の目撃、あるいは製造場所とされる所からの製造に関連すると認められる遺留品の出現などの事実も存しない。

そして、被告人ら並びに各犯行の共犯者とされる者らが検挙された後に、その身辺から、被告人らやこれらの者と右各犯行とを結びつける物証が発見されたというような事実も認められない。

その他、検察官主張にかかる各事実を、直接的に支持する客観的証拠は存しないのである。

しかるに、後述するとおり(第四章三)、事件発生後三年有余を経た昭和四七年一二月中旬ころ、右4の犯行に関与した旨の自白をした者(佐古幸隆)があったことから、翌昭和四八年一月以降、被告人らを含む多数の者が本件犯行の犯人として逐次検挙されるに至り、被告人平野及び同井上は終始犯行を否認したものの、被告人村松及び同前原を含む少なからぬ者らは、捜査官に対し、程度の差こそあれ、犯行を自白し、その中には、公判廷においても、被告人として、また、証人として、その自白を維持した者さえ存する。

更に、当時の取調べに対しては本件への関与を否認していた菊井良治が、本件審理中の昭和五四年七月ころ、検察官の補充捜査に応じて、被告人らと共に1の犯行に加わったことを自白し、証人尋問においてもその自白を維持したほか、被告人らが真実本件犯行の犯人であることを示すかのような多くの事項についても証言した。

そして、これらの自白及び証言のみが、本件犯行と被告人らを結びつけるものなのである。

本件訴訟において、検察官は、菊井以外の者らの右各自白をも証拠として取調べるよう請求し、被告人らはその任意性を強く争ったが、当裁判所は、審理の結果、その任意性に疑いをさしはさむに足りないものと判断し、証拠能力を認めて、これらの自白を記載した調書多数を採用し、取調べた。

そこで、本件の帰趨は、菊井証言及び各自白の信用性をいかに評価するか、換言すれば、右各供述は真実を伝えるものと認めることができるか否かにかかるとしなければならない。

当裁判所は、このような見地から、各供述につき、これがなされた経緯と、その内容、特に変遷の過程及び関係証拠によって認められる客観的諸事実(なかでも、本件各爆弾の形状や構造、本件発生のころ、各所で発見され、あるいは爆発した同様なピース缶爆弾との関係、被告人ら及び共犯者とされている者らの当時の行動状況等)との整合性を吟味し、更には当公判廷(手続更新前を含む。)における被告人らの弁解ないし共犯者とされる者らの公判段階における供述との対比等を通じ、慎重な検討を加えた。

その結果、右各供述は、前記公訴事実に沿う限りにおいて、いずれもその信用性が甚だ低いものであり、これらに基づいて被告人らを本件犯行の犯人とするに足りないとの結論に達し、従って各公訴事実につき犯罪の証明がないものとして、主文第四項ないし第六項記載のとおり、被告人らに対し、それぞれ無罪を言渡すこととしたのである。

以下、順を追って分説する。

なお、本件審理の過程において、右1の爆弾製造事件の犯人は被告人らでなく、自己を含む数名の者が真犯人であると供述する牧田吉明及び右2の爆弾投てき事件は自己の単独犯行であって被告人らはこれに関係がないと述べる若宮正則の各出現を見たのであるが、この点については第九章において触れることとする。

二  略称、略語等について

本判決第二部においては、便宜上、被告人ら及び共犯者とされる者らは姓のみをもって表示し、その他の固有名詞あるいは事件名等についても略称を用いたほか、証拠を引用するには略語を使用し、年月日等も簡略な表記方法をとるなどした。

また、本文の記述において年月日を示す場合、「昭和四四年」については、特に必要のない限り、その記載を省略した。取調官の官職は、いずれも取調当時のものを表示した。

主要な記載例を次に掲げる。

1  被告人らの氏名

平野……………博之こと 平野博之

井上…………………………井上清志

村松…………………………村松和行

前原…………………………前原和夫

2  共犯者とされる者らの氏名及び関係団体の名称

増渕…………………………増渕利行

佐古…………………………佐古幸隆

前林…………………………前林則子

堀……………………………堀秀夫

江口…………………………江口良子

内藤…………………………内藤貴夫

石井…………………………石井ひろみ

国井…………………………国井五郎

菊井…………………………菊井良治

L研…………法政大学レーニン主義研究会

東薬大社研…東京薬科大学社会科学研究会

3  事件名

ピース缶爆弾製造事件または製造事件…………………第一章一記載の事件

八・九機事件………………同二記載の事件

アメリカ文化センター事件………………………同三記載の事件

ピース缶爆弾事件…………右三事件の総称

京都地方公安調査局事件……………第四章一3(一)記載の事件

琵琶湖解体事件……………………右に同じ

中野坂上事件……第四章一3(二)記載の事件

福ちゃん荘事件………同一3(三)記載の事件

中大会館事件…………同一3(四)記載の事件

松戸市岡崎アパート事件…………………同一3(五)記載の事件

法大図書窃盗事件……第一部罪となる事実第一記載の事件

タイヤ窃盗事件………同第二記載の各事件

東薬大事件……昭和四四年一〇月二一日東京都新宿区柏木(当時)所在の東京薬科大学で発生した毒物及び劇物取締法違反等の事件

4  関係場所等

八・九機……東京都新宿区若松町九五番地(当時)所在の警視庁第八機動隊、同第九機動隊隊舎

八機…………右第八機動隊(隊舎を指す場合もある。)

九機…………右第九機動隊

アメリカ文化センター……同都千代田区永田町二丁目一四番二号所在の山王グランドビル二階米国大使館広報文化局アメリカ文化センター

河田町アジト……同都新宿区《番地省略》倉持賢一方借間(四畳半及び二畳)

住吉町アジト……同区《番地省略》所在の「風雅荘」アパートの一室(二階A号室)

若松町アジト……同区《番地省略》所在の「宮里荘」アパートの一室

早稲田アジト……同区西早稲田所在(早稲田大学正門付近)の中華料理店二階の借間

ミナミ……同区若松町一二番地所在の喫茶店「ミナミ」

エイト……同区市谷河田町一番地所在の喫茶店「エイト」

新宿ゲームセンター……同区角筈一丁目一番地(現新宿三丁目二九番)所在のパチンコ店「新宿ゲームセンター」

江口アパート……同都渋谷区本町所在の江口及び前林のアパート

東薬大……同都新宿区柏木(当時)所在の東京薬科大学

旭化成……旭化成工業株式会社

5  証拠の引用については、以下のとおりの略語及び用語例に従う。

(一) 公判記録中の所在の表示は、例えば同記録第一七冊四六八一丁以下を「⑰四六八一」と略記する。但し、公判記録のうち、本件から佐古に対する爆発物取締罰則違反等被告事件を分離した第一〇二回公判期日以降の佐古の公判記録の冊数の特定については、例えば、分離後の佐古公判記録第四冊七一三丁以下を「④七一三」と略記する。

(二) 本件公判記録中の書証は、相当部分が謄本、抄本ないし写しであるが、煩を避けるため、これらの表示は省略する。

(三) 当部の公判期日における証人及び被告人の供述又は供述記載については、公判廷における供述(第一〇二回公判期日以後は、原則として、公判廷における供述である。)と、公判調書中の供述記載部分(第一〇一回公判期日以前。但し、第一〇二回公判期日以後も、被告人のうちに当該公判期日に限って弁論を分離し、公判準備として取調べを行い、事後に尋問調書として取調べた場合を含む。)とを区別せず、例えば、第九四回公判調書中の証人菊井良治の供述記載部分及び証人菊井良治の当公判廷における供述(第一五六回公判期日)を、それぞれ「九四回菊井証言」「一五六回菊井証言」というように表示する(被告人については「供述」とする。)。分離後の佐古の公判期日は、一〇三回というように表示する。

(四) 当部の期日外証人尋問調書については、例えば、裁判所の証人若宮正則に対する尋問調書(昭和五八年三月一五日実施)を「58・3・15若宮証言」と表示する(但し、公判期日に一部の被告人を分離し、当該被告人の関係では公判準備として証人尋問を施行したような場合を除く。)。検証もこれに準ずる。

(五) 当庁他部公判調書中の証人等の供述記載部分については、例えば、当庁刑事第二部の被告人石井ひろみに対する被告事件の第七回公判調書中の同被告人の供述記載部分を「二部七回石井供述」と、当庁刑事第九部の被告人増渕利行外に対する被告事件の第一八〇回公判調書中の証人石井ひろみの供述記載部分を「九部一八〇回石井証言」というように表示する。

(六) 他庁の公判調書中の証人等の供述記載部分については、例えば、京都地方裁判所の被告人牧田吉明外に対する被告事件第三回公判調書中の証人杉本嘉男の供述記載部分を「京都地裁(牧田外)三回杉本証言」と表示する(当該被告人の供述記載部分については「供述」とする。)。

(七) 当庁他部及び他庁の期日外証人尋問調書については、例えば、刑事第九部の証人菊井良治に対する尋問調書(昭和五七年九月二日施行)を「九部57・9・2菊井証言」と、東京高等裁判所第一一刑事部の証人長谷川幸子に対する尋問調書(昭和五二年一一月一〇日施行)を「東京高裁52・11・10長谷川幸子証言」というように表示する。

(八) 書証については、次のとおりの略語を使用し、例えば、松浦英子の検察官に対する昭和四八年二月二一日付供述調書(公判記録第一三冊三五〇五丁以下)を「松浦英子48・2・21検面⑬三五〇五」と、司法警察員田村卓省作成の昭和四八年一月二三日付検証調書(公判記録第一三五冊三三二〇一丁以下)を「(員)田村卓省48・1・23検証三三二〇一」というように表示する。但し、被告人あるいは共犯者とされる者らの検察官及び司法警察員に対する各供述調書の公判記録中の所在場所は、後記(一〇)において一括記載するので、いちいち表示しない。

(略語表)

員面…………司法警察員に対する供述調書

検面………………検察官に対する供述調書

弁録………………………………弁解録取書

実………………………………実況見分調書

検証…………………………………検証調書

報…………………………………捜査報告書

取報…………………………取調状況報告書

写報………写真撮影(または入手)報告書

現認………………………………現認報告書

捜押……………………………捜索差押調書

任提………………………………任意提出書

領置…………………………………領置調書

被害……………………………………被害届

回答………………………………照会回答書

鑑嘱………………………………鑑定嘱託書

鑑…………………鑑定書、鑑定結果報告書

(検)…………………………………検察官

(事)……………………………検察事務官

(員)……………………………司法警察員

(巡)………………………………司法巡査

(九) 証拠物は、押番号(昭和四九年押第一七三六号)を省略し、符番号のみで特定する。但し、そのうち、司法警察員好永幾雄作成の昭和四八年七月二三日付「メモ作成状況報告書」については、例えば、メモ作成年月日が昭和四七年一一月一八日とされているものにつき、「佐古47・11・18メモ通し丁数八」の要領で表示し、符番号をも省略する。なお、ここに「通し丁数」とは、右報告書各葉の左下隅(メモ本体は左横書なので、これを基準にすれば右下隅)にナンバリング機で記入されている算用数字を指す。

(一〇)《省略》

第一章公訴事実

第一部において判示した各窃盗の事実に対応するものを除く本件公訴事実の詳細は次のとおりである。

一 ピース缶爆弾製造事件

被告人井上に対する昭和四八年四月四日付起訴状記載の公訴事実、被告人平野に対する同月一四日付起訴状記載の公訴事実並びに被告人村松及び同前原に対する各同月一八日付起訴状記載の公訴事実(以上いずれも昭和五三年六月二日付訴因変更請求書による第八七回公判期日における訴因変更後のもの)は、いずれも、

「被告人は、ほか十数名と共謀の上、治安を妨げ、かつ、人の身体・財産を害する目的をもって、昭和四四年一〇月中旬ころ、東京都新宿区河田町六番地倉持賢一方秋田修こと佐古幸隆の居室において、煙草ピース空缶にダイナマイト・パチンコ玉などを充填し、これに工業用雷管及び導火線を結合し、もって、爆発物である手製爆弾十数個を製造したものである。」

というものである。

二 八・九機事件

被告人村松に対する昭和四八年三月六日付起訴状記載の公訴事実並びに被告人井上及び同前原に対する各同月一〇日付起訴状記載の公訴事実は、いずれも、

「被告人は、ほか数名と共謀の上、治安を妨げ、かつ、人の身体・財産を害する目的をもって、昭和四四年一〇月二四日午後七時ころ、東京都新宿区若松町九五番地警視庁第八機動隊・同第九機動隊正門前路上において、煙草ピース空缶にダイナマイトなどを充填し、これに工業用雷管及び導火線を結合した手製爆弾一個を右導火線に点火して前記機動隊正門に向けて投てきし、もって、爆発物を使用したものである。」

というものである。

三  アメリカ文化センター事件

被告人村松に対する昭和四八年二月一二日付起訴状記載の公訴事実は、

「被告人は、ほか数名と共謀の上、治安を妨げ、かつ、人の身体・財産を害する目的をもって、昭和四四年一一月一日午後一時ころ、東京都千代田区永田町二丁目一四番二号山王グランドビル二階アメリカ大使館広報文化局アメリカ文化センター受付において、煙草ピース空缶にダイナマイト及び塩素酸カリウムを充填し、これに電気雷管、タイマー及び電池を結合した時限装置付手製爆弾を右受付カウンター上に装置し、もって、爆発物を使用したものである。」

というものであり、被告人前原に対する昭和四八年二月八日付起訴状記載の公訴事実は、

「被告人は、ほか数名と共謀の上、治安を妨げ、かつ、人の身体・財産を害する目的をもって、昭和四四年一〇月末ころ、東京都新宿区河田町六番地倉持賢一方の被告人及び佐古幸隆の居室において、煙草ピース空缶にダイナマイト及び塩素酸カリウムを充填し、これに電気雷管・タイマー及び電池を結合した時限装置付手製爆弾一個を製造したものである。」

というものである。

第二章検察官の主張

右各事件に至るまでの被告人らの行動と経緯及び犯行における被告人らの具体的関与状況につき、検察官の主張するところを論告に基づいて摘示すると、大要、次のとおりである。

なお、検察官の主張には、本件訴訟の進展に伴い、若干の変遷があったのであるが、ここに示すのは最終的な主張と解されるものであり、主張の変遷については、必要に応じ、適宜指摘することとする。

一 ピース缶爆弾の製造に至る経緯

村松(以下、便宜、「被告人」の表示を省略する。被告人井上、同平野、同前原についても同様とする。)は、昭和四四年四月法政大学に入学し、社会主義学生同盟員であったが、間もなく、同時に入学した共産主義者同盟員である増渕と共にレーニン研究会(略称L研)なるサークルを始め、右L研は、やがて社会主義学生同盟法大支部となり、共産主義者同盟の主義主張に同調する過激派集団となって行った。当初のメンバーは、増渕、村松のほか国井、今井誠、石井らであったが、その後井上、佐古、前原、菊井、峰孝一、堀、江口、前林らも参加しあるいは出入するようになった。

他方、平野は、当時東薬大の学生であり、同年四月同大学内に社会科学研究会(略称社研)を組織し、その責任者となったが、同年五月同大学にオルグに来た増渕と知り合い、同人の指導を受けるようになったことから、増渕は、平野を含め東薬大社研メンバーである内藤、町田敏之、石本武司、高野一夫、元山貴美子、富岡晴代らにも影響力を及ぼすようになった。

被告人らL研、社研のメンバーらは、増渕から繰り返し革命の必要性を説かれるなどした結果、いわゆる大衆カンパニア闘争方式を乗り越えた武装闘争が必要であるとの認識を次第に強め、L研メンバーらは、法政大学の占拠・封鎖闘争に加わり、火炎瓶数十本を製造したりした。また増渕は、同年九月江口に対し、各種爆弾の製造方法等を解説した「薔薇の詩」、「球根栽培法」及び火薬関係の専門書を手渡して、これらを研究しておくように指示したりしていた。

二 ピース缶爆弾の製造

1  犯行の目的―前段階武装蜂起

被告人らL研・社研グループは、同四四年九月ころ赤軍派が結成されたのを契機に同派の闘争方針に共鳴して同グループを赤軍派路線へ移行させ、共闘という形で同派との関係を設定しようとしていた増渕の指導に従い、同派の唱える前段階武装蜂起を成功させるため、その一翼を担おうとしていた(なお、検察官が冒頭陳述((平野に対する昭和四八年八月二二日の公判におけるものと、前原、村松、井上に対する同年一一月一七日の公判におけるものとがあるが、その内容は、ほぼ同一である。))において犯行の目的として主張したところは、「L研は、同年一〇月赤軍派と共闘することとなり、赤軍派が同月二一日のいわゆる一〇・二一闘争に際して火炎びん、爆弾などによる新宿警察署への襲撃等を計画しているところから、増渕は襲撃に使用する爆弾をL研の構成員で製造することを決意した」というにあり、右最終的主張はこれに比べて概括的となっている。)。

2  共謀の成立と準備行為

村松、前原、井上、江口、佐古、菊井、国井らは、同年一〇月中旬ころ(後記五参照)、ミナミ、河田町アジト等において、増渕から、数回にわたり、「我々で、ピースの空缶を利用した爆弾を製造し、一〇・二一闘争の際、赤軍派と共に武装蜂起するための武器としよう。」などと提唱され、これに賛同した。そして、増渕の指示により、村松らは、早稲田アジトから、同所に保管されていたダイナマイト(旭化成製新桐ダイナマイト)、工業用雷管等を受け取って河田町アジトへ持ち込み、他方、佐古、前原は、新宿ゲームセンターからピース缶爆弾に封入するパチンコ玉約二〇〇個を入手してこれを河田町アジトへ搬入した。更に、そのころ増渕、村松、前原、佐古らは、住吉町アジトにおいて、爆弾製造に先立ち、爆弾に装着する導火線の長さを決めるため、導火線に点火して燃焼速度を計る実験を行った。また、その他のピース缶等の爆弾材料や製造用の器具は、各メンバーが手分けして集め、あるいは河田町アジトにあったものを利用することとした。

次いで、同じく一〇月中旬ころ(後記五参照)、増渕、村松、前原、井上、平野、佐古、菊井、国井、前林、堀、江口、内藤、石井らは、河田町アジトに集まり、増渕が一〇・二一闘争に用いる爆弾を製造する旨指示し、全員が賛同した。

3  実行行為

その後右アジトにおいて、増淵の指示によって、製造担当、見張り等の、一応の各人別の任務分担が決められ、これによって各人が互いに協力して、ピース缶にダイナマイト、パチンコ玉を充填するなどし、これに導火線を接続した工業用雷管を挿入した上、ピース缶のふたにあけた穴から導火線を外へ出し、缶体とふたの間をガムテープで封じるなどして十数個のピース缶爆弾を製造したが、右ピース缶爆弾の中には、爆薬として前記ダイナマイト以外に塩素酸カリウムと砂糖の混合物を充填したものもあった(前原、村松、井上に対する検察官の前記冒頭陳述によれば、各人の具体的行為として、増渕及び江口が作り方を説明し、この二人を中心に、堀、村松、前原、佐古、内藤、平野らがピース缶蓋に穴を開け、薬品の調合及びダイナマイトの充填並びに雷管、パチンコ玉の埋め込みや組立てを担当し、前林は缶拭きを、石井、国井、井上らが周辺の見張りを担当した旨主張されており、さらに製造時間については午後五時ころまでに一〇数個のピース缶爆弾を製造したとの主張がなされている。)。

4  製造された爆弾の処分状況

右のようにして製造されたピース缶爆弾は、遅くとも同年一〇月二一日までには赤軍派の手に渡された(前記各冒頭陳述においては、単に右製造にかかるピース缶爆弾は赤軍派の者((のちに「その一部は花園と思われる。」と釈明))に渡されたとされている。)。

なお、検察官は、右ピース缶爆弾の具体的な使用状況につき、論告においては、後記のとおり、中野坂上に三個が遺留され、さらに八・九機事件及びアメリカ文化センター事件に使用されたと主張するだけであるが、従前の公判経過においては、その余のピース缶爆弾につき、第一五回公判(昭和四九年九月五日)における冒頭陳述追加補充で、「昭和四四年一〇月二一日夜中野坂上から逃走する際、赤軍派の出口光一郎はピース缶爆弾三個を持ち帰り、その後同人からこれらを受けとった木村一夫が山梨県塩山市所在の民宿福ちゃん荘に運搬したが、同年一一月五日警察官により発見、押収された。さらに、同月一二日松戸市大字松戸所在の岡崎直人方アパート内の赤軍派アジトからピース缶爆弾二個が発見された」と主張し、さらに第八九回公判(昭和五四年五月一五日)における冒頭陳述変更で、「本件製造にかかる爆弾のうち、一個は昭和四四年一〇月一七日京都市東山区所在の京都地方公安調査局屋上で爆発し、一個は同年一一月一〇日東京都千代田区所在の中央大学会館玄関口で爆発した」と主張した上、第九〇回公判(昭和五四年六月八日)において、「同年一一月ころ、三潴末雄らによって琵琶湖に解体投棄されたピース缶爆弾も本件製造にかかるものである」と釈明していたところである。もっとも、検察官は、論告に対する釈明として「いわゆる京都公安調査局事件のピース缶爆弾については本件製造にかかるピース缶爆弾の一部であると積極的に主張する意思はない」とする。

三 八・九機襲撃

1  犯行に至る経緯

赤軍派は、昭和四四年一〇月二一日の「国際反戦デー」闘争に際し、同日午後一〇時ころ、東薬大の正門付近からトラックに乗り込んで出発し、その際、右ピース缶爆弾を火炎瓶とともに携帯したが、結局右爆弾を投てきするに至らず、最終的には中野坂上において、ピース缶爆弾三個を遺留し、トラックを放置して逃走した。赤軍派の右行動にはL研メンバーも参加し、佐古がトラックを運転し、井上がその荷台に乗り込んで行動を共にしたが、中野坂上から逃走する際、佐古は、赤軍派メンバーからピース缶爆弾二個を手渡されてこれを受取り、そのまま携帯して井上と共に河田町アジトに戻り、居合わせた前原、国井に対し、ことのてん末、すなわち同夜東薬大から中野坂上に至り、ピース缶爆弾二個を持ち帰った事情を話し、同爆弾を見せたりしたのち就寝し、翌二二日同アジトに来た菊井に対しても右の事情を説明した。

2  共謀の成立

前原らが、増渕に対し、佐古らが右ピース缶爆弾二個を持ち帰ったことを報告するや、増渕は、これを用いて河田町アジトから近く、かつ攻撃しやすい八・九機を攻撃することを決意し、同月二三日午後、エイトに前原、井上、内藤らを集め、八・九機を攻撃する旨の計画を打ち明けた。次いで同日夜同アジトに集まった前原、井上、村松、内藤らは、増渕から「一〇・二一は失敗だったが、佐藤首相訪米阻止のため闘争を続けなければならない。この爆弾を八・九機攻撃に使う」旨提唱され、全員これに賛同した。その際、増渕が総指揮に当たり、村松、井上のほか堀を加えてこの三名が爆弾の投てきを、内藤が町田を誘って両名が見張りを、前原が効果測定を担当するなどの各任務分担を決定し、更に爆弾投てきに備えて導火線の燃焼実験を行うなどした。

なお、同月二四日、前原が赤軍派と連絡をとった結果、赤軍派からも二名が右犯行に参加することとなり、同日午後三時ころ、村松、井上、前原、内藤、堀らは河田町アジトに集まり、各自手分けして八・九機周辺の下見を行った。

同日午後四時ころ、河田町アジトに戻った村松らは、増渕及び前記赤軍派の氏名不詳者二名と共に最終的な打合せを行い、増渕が総指揮に当たること、村松、井上、堀の三名が立番勤務中の警察官のいる八・九機正門への爆弾投てきを担当すること、内藤と赤軍派の一名が見張りをすること、前原と赤軍派の一名が効果測定をすることなどの各任務分担を決め、また決行時刻を同日午後七時と決定した。

3  実行状況

同日午後六時ころから、各人は相次いで河田町アジトを出発した(前原、村松、井上に対する昭和四八年一一月一七日の公判における検察官の冒頭陳述((以下「冒陳」という。))では、「まず村松、井上、堀が同アジトを出発し、次いで内藤と赤軍派の者、最後に、前原と赤軍派の者の順序で同アジトを出、各任務についた」となっている。)。村松、井上、堀の三名は、ピース缶爆弾一個を紙袋に入れて携行し(冒陳によれば、携行したのは村松とされる。)、同日午後七時ころ八・九機正門前路上に至り、道路反対側の「花寿司」角付近から、導火線に点火した右爆弾一個を右正門付近で立番勤務中の同機動隊員仁科正司巡査らに向けて投てきし、右爆弾は正門付近の路上に落下したものの、導火線の火が途中で消えたため、爆発するに至らなかった。機動隊員に追跡された村松らは、逃走して逮捕を免れ、付近で見張りなどしていた他の者も、付近の喫茶店や河田町アジト等に引き揚げた。

四  アメリカ文化センターへの設置

1  犯行の目的

増渕は、八・九機事件は導火線を使ったため失敗したと判断し、残りのピース缶爆弾一個を改造し、電気雷管と時限装置を使った時限爆弾を製造してこれを米帝の出先機関等の権力機関に仕掛けようと決意した。

2  共謀の成立と準備行為

同月二六日ころの午後、増渕は、河田町アジトにおいて、村松、前原に対し「時限爆弾で米帝の出先機関を襲撃しよう」と提唱し、同人らはこれに賛同した。

そこで増渕、村松らは、乾電池・電気雷管・ピース缶爆弾・タイマーなどを用意し、直ちに爆弾の改造作業を行い、前原は、乾電池・電気雷管などをはんだで結線し、村松はタイマーを改造して時限装置を作る作業を行ったが、その日には時限爆弾を完成できず、未完成品を増渕が持ち帰った。その際、村松は、時限装置に「赤軍」「毛沢東」等の落書きをした。

次いで、同月二七、八日ころ、村松、前原は、爆弾を仕掛けるべき場所として、国会周辺、首相官邸付近及びアメリカ文化センターのある山王グランドビル付近などを下見した結果、犯行が容易であるのはアメリカ文化センターであるとの結論を得た。

同月二九日ころ、佐古は、増渕から「(佐古が)持ち帰った爆弾のうち一個は機動隊攻撃に使用したが、残り一個を時限爆弾に改造して米帝の施設を攻撃したいので、自動車の運転を担当して貰いたい」旨指示され、これを引き受けた。増渕は、河田町アジトに前記未完成時限爆弾を持ち込み、同所において、佐古、前原と共にピース缶爆弾を改造した時限装置付爆弾一個を完成した。その際増渕は、タイマーを利用した時限装置と雷管などを結線し、前原、佐古は段ボール製の箱を作り、これに右爆弾、時限装置等を収納して接着剤で固定する等の作業に当たった。

右時限装置付爆弾は、ピース缶爆弾から導火線付工業用雷管を取り外し、替りに乾電池や時限装置と結線した電気雷管を挿入したもので、右時限装置により、セットされた後一定時間経過後に電気雷管に通電して爆発する構造のものである。

同月三〇日ころの午後、増渕、佐古は、自動車で山王下交差点付近に至り、アメリカ文化センターの下見をし、その後増渕は河田町アジトから右爆弾を搬出し、同都渋谷区本町四丁目一四番五号小野アパート内江口方に搬入した。

3  実行状況

増渕は、同月三一日佐古に指示して河田町アジトを引き払わせ、同人と共に同夜は江口方に宿泊し、翌一一月一日午前一一時三〇分ころ、右時限装置付爆弾一個を入れた紙袋を携帯して佐古の運転する自動車(冒陳によれば藤田和雄の車両とされる。)に乗って江口方を出発した。事前の打合せに従い、村松ほか一名が、同都中野区新井一丁目九番一号埼玉銀行中野支店前路上において同車に乗り込み、合計四名が赤坂見附方面に向った。車内で増渕は、村松ほか一名に対し「二人で仕掛けろ。連絡場所は中野の喫茶店『クラシック』とする」などと指示(冒陳によれば、以上のほか、「午後二時にセットしてあるからそれまでに仕掛けろ」と併せ指示したとされる。)した上、同日午後零時三〇分ころ、同都港区赤坂二丁目五番三号付近路上で自動車を停車させた。同所で下車した村松は、ほか一名と共に右爆弾入りの紙袋を携帯して前記山王グランドビル二階アメリカ文化センターに赴き、同センター受付カウンターの上にセット済みの右爆弾一個(包装されたもの)を置き、爆弾を仕掛けた。その後村松らは、増渕らの待つ右自動車に戻り、佐古は自動車を運転して村松ほか一名を新宿駅東口付近で下車させ、増渕と共に江口方に戻った。

4  犯行後の状況

右のように仕掛けられた時限装置付爆弾は、同日午後一時一五分ころ、山王グランドビル派遣の日本ビルサービス株式会社清掃係伊藤一男によって発見され、同人が包装紙をほどいたところ、時計の音が聞こえたので時限装置付爆弾と直感し、直ちに同社電気係矢部昭恭に連絡し、同人が時限装置と爆発物を連結している二本の電線を切断したため爆発するには至らなかった。

五  本件ピース缶爆弾の製造日に関する検察官の主張

ピース缶爆弾製造事件については、起訴後数年を経て、その製造日に関し、訴因変更の手続がされている。

すなわち、当初の訴因においては、製造日は、「昭和四四年一〇月一六日ころ」とされ、これを受けて河田町アジト、ミナミ等における事前謀議の日時は「同月一五日ころ」(検察官の被告人四名に対する前記各冒頭陳述による。)とされていたが、その後、検察官は第七五回公判(昭和五三年六月二日)に至り、いわゆる京都地方公安調査局事件に使用されたピース缶爆弾が本件製造にかかるものであることを前提に、証拠上、右爆弾が事件前一、二日前から京都市に居住する杉本嘉男方に保管されていた事実が明らかになったとして、製造日を「昭和四四年一〇月中旬」とする訴因の変更を請求し、弁護人らはこれに強く反対したのであるが、第八七回公判(昭和五四年三月二七日)においてその許可がなされた。

なお、検察官は、右変更された訴因に関し、「一〇月中旬ころ」の始期は同月九日であり、終期は同月一六日である旨釈明している。

第三章被告人らの弁解と弁護人らの積極的主張

以上のような検察官の主張に対し、被告人・弁護人らは、本件審理の当初から事実を激しく争い、公訴事実については全く身に覚えがなく無実であるとし、村松、前原の自白はもちろん、共犯者とされるその余の者らの自白も、すべて捜査官の強要、誘導に基づきやむなくした虚偽の自白、あるいは取調官の執拗な示唆の結果、自己が犯人であるとの錯覚に陥り、記憶にないことをも迎合的に供述した、真実に反する自白であって、任意性、信用性を欠くものであると主張するほか、積極的に、被告人自身あるいは共犯者とされる者らのアリバイや、その他、真実であれば公訴事実に反し、又はこれと密接に関係する事項と相容れず、従って公訴事実に沿う自白の信用性を否定すべきこととなるいくつもの事実、更には前記のような真犯人と称する者らの存在に関する諸事実の主張、立証に力を注いで来たのである。

その積極的主張の主なものを以下に摘記する(最終弁論第五三三九二六)。

一 ピース缶爆弾製造事件

本件の公訴事実と相容れない事実として弁護人らの主張するところは次のとおりである。

1  犯行日の不存在

検察官は、本件ピース缶爆弾製造の日は、昭和四四年一〇月九日から一〇月一六日までの間のいずれかの一日であると主張するが、以下に述べる諸事実を考えあわせると、右期間内に本件犯行が行われた日は存在しないこととなる。

(一) 石井アリバイ

検察官の主張するところによれば、本件犯行当日、正午すぎころから夕方まで、共犯者の一人とされている石井ひろみは、犯行現場である河田町アジト周辺で、いわゆるレポ、即ち見張り役を担当したということであり、共犯者の自白中には、これを裏付けるような内容のものも存在するばかりでなく、石井自身、捜査段階のみならず公判段階においてもそのことを認めている。

しかしながら、右期間のころ、石井は、台東区所在の日本プラスチック玩具工業協同組合事務所に臨時雇用者(アルバイト)として勤務していたのであって、同事務所に保管されていた帳簿・証票類その他の客観的証拠に基づいて同女の勤務状況を見ると、検察官が本件犯行の行われた日を含むと主張する右期間中、一〇月一〇日(金曜日で体育の日)、一〇月一一日(土曜日)及び一〇月一二日(日曜日)を除くすべての日の午後、少くとも午後五時まで、同女は右事務所で働いていたことが認められ、右三日間以外の日に、同女が右事務所を離れて新宿区の河田町アジトに赴き、その周辺で夕方までレポをしたという可能性は全く存しない。

しかも、右三日間が犯行の日でありえないことは、次に述べる(二)及び(三)の点から明らかである。

(二) レポとエイトの休業日

石井の右レポの具体的内容は、検察官の主張によっても、関係供述によっても判然としないのであるが、本件の具体的状況に関して検察官が特に依拠していると認められる菊井良治の公判供述によれば、石井の役割は河田町アジトに近接するエイトで電話による連絡を受けることを主たる内容としていたとのことであり、かつ、これは同店が平常どおりの営業をしていたことを前提とするものと解されるところ、同店の経営者や常連客の供述するところにより、同店は、昭和四四年一〇月当時、日曜日と祝日を休業日としており、例外的に開店したことがあったとしても、それは一般客を相手としての営業ではなかったことが認められるから、本件犯行日は、一〇月一〇日でも、一〇月一二日でもないとしなければならない。

(三) 謀議の日とミナミの休業日

検察官主張によれば、本件犯行の前日ころ、増渕らは、河田町アジトに近い新宿区若松町のミナミで犯行の謀議をしたということであり、被告人ら及び共犯者とされている者らの供述中にも、これに沿うものがあるのであるが、同店(現在は廃業)の元経営者の供述によれば、同店の休業日は、その当時、日曜日及び祝日であったとのことであるから、犯行日が謀議の翌日であったとすれば一〇月一一日と一三日が、翌々日であったとすれば同月一二日と一四日が、それぞれ犯行日ではありえないこととなる。

(四) 結論

以上、(一)(二)(三)の諸点を考えあわせるときは、検察官の主張する期間内に本件犯行のありえた日は存在しないこととなり、このことは、検察官の依拠した証拠が真実を伝えるものでないことを示すものである。

2  江口アリバイ

検察官の主張によれば、江口は、本件ピース缶爆弾製造当日、正午すぎから午後五時ころまで、河田町アジトにおいて、増渕と共に共犯者らに対し製造方法の説明等をするほか、薬品調合等の作業も担当実行した中心的人物とされているが、同女は、昭和四四年四月から一年間、中央区築地所在の国立がんセンター化学療法部実験化学療法研究室に研究員として在勤し、日曜日及び祝日を除き、月曜日から土曜日まで、毎日午前一〇時ころから午後七時ころまで勤務していたのであって、その間無断外出などできる状態ではなかったのであるから、同女が、少なくともその勤務日に、午前中から築地を抜け出し、正午すぎに河田町に赴くようなことはありえないところである。

二 八・九機事件

本件公訴事実と相容れない事実として弁護人らが主張するのは、犯行現場付近にいたとされる共犯者増渕及び内藤に関するアリバイの存在及び本件で使用された爆弾を被告人らが入手した事実の不存在であって、その概要は次のとおりである。

1  増渕及び内藤のアリバイ

検察官の主張によれば、八・九機事件の発生した昭和四四年一〇月二四日夕刻、具体的には午後四時ころから七時すぎにかけて、増渕は犯行の総指揮者として、内藤は赤軍派の者一名と共に見張り役として、いずれも犯行現場である新宿区若松町近辺にいたことになるのであるが、実は、この日、この時間帯に、増渕と内藤が、町田敏之その他の者数名と共に、渋谷区本町所在の江口及び前林の住んでいたアパートに赴いた事実がある。即ち、同年一〇月二〇日、東薬大社研の者らは同大学構内で火炎瓶七、八〇本を製造し、学内に隠匿していたところ、翌日、いわゆる鉄パイプ爆弾製造事件が学校当局の知るところとなり、ロックアウトが実施されるなどのことがあったため、発覚を怖れてとりあえず同月二三日及び二四日の各早朝、内藤、平野らにおいて右火炎瓶を当時の平野の下宿である新宿区柏木(当時)所在の糠信荘に運び入れたが、平野は右鉄パイプ爆弾事件で逮捕されるおそれがあり、早急にこれを他に移す必要に迫られ、増渕、内藤らにおいて、二四日夕刻から夜一〇時ころにかけ、二回にわけてこれらを右江口、前林のアパートに運搬していたのであって、両名が本件犯行に参加しているはずがない。

2  一〇・二一爆弾持ち帰り事実の不存在(佐古及び国井のアリバイ)

本件で使用された爆弾は、昭和四四年一〇月二一日の夜、佐古が中野坂上で遺留されているのを発見し、河田町アジトに持ち帰った二個のピース缶爆弾のうちの一個であるとするのが検察官の主張であるが、その根拠となる佐古、前原及び内藤の各自白並びに菊井の供述によれば、同夜ないし翌二二日未明から同日午前中にかけて、佐古及び国井が河田町アジト又は若松町アジトに泊っていたことになるところ、これらの自白、供述は、佐古が一〇月二一日の夜、豊島区高松町所在の実兄佐古靖典のアパートに泊った事実及び国井が当夜杉並区久我山所在の自宅に戻って外泊していない事実と抵触し、虚構であるとするほかなく、従ってまた右爆弾持ち帰りも虚偽であるとしなければならない。

三 アメリカ文化センター事件

本件につき、検察官の主張する事実関係と相容れない積極的事実として弁護人が主張するのは次の1及び2のとおりである。

1  一〇・二一爆弾持ち帰り事実の不存在(佐古及び国井のアリバイ)

本件で使用された爆弾は、昭和四四年一〇月二一日夜、佐古によって河田町アジトに持ち帰られた二個のうち八・九機事件に使用されなかった分であるというのが検察官の主張であるが、これについては右二の2で述べたところがそのまま妥当する。

2  村松アリバイ(ダンプカー窃盗)

村松は、昭和四四年一〇月三一日夜から翌一一月一日明け方にかけて、千葉県方面で赤軍派の者らと共に首相官邸襲撃に使用する目的でダンプカー一台を窃取した上、松戸近辺の江戸川河川敷に隠匿し、一日夜にこれを移動させている事実があり、検察官もこれを認めているところ、この事実は、同年一一月一日午後一時ころ敢行されたという本件犯行に対する厳密な意味でのアリバイとは言えないとしても、本件が重大事犯であり、村松の担当したとされる役割は大きく、片手間で遂行できるようなものではないことをも考えれば、アリバイと同視するに足りる事情と言うべきである。

四 付言

以上のほか、本件において弁護人らの主張するところは甚だ多岐にわたり、多数の論点がなお存するのであるが、これらについては、以下、当裁判所の判断を逐次示すに際し、必要に応じて適宜挙示指摘することとする。

第四章当裁判所の判断(その一)

―前提事実―

本件の帰趨が被告人ら及び共犯者とされる者らの自白並びに菊井証言の信用性の評価にかかることは、第二部一「まえがき」において述べたとおりであるが、その判断の前提となるべき諸事実、すなわち、(一)本件ピース缶爆弾について知り得る客観的諸事実(八・九機事件とアメリカ文化センター事件の発生状況及びこれに使用された爆弾の形状、組成、構造等)、(二)本件発生の前後のころにおけるL研の活動状況及び(三)本件捜査経過の概要と自白の状況についてまず略述する。

なお、本件発生のころ、他にもピース缶及びパチンコ玉を用いた爆弾が爆発し、あるいは発見押収されるなどした事件がいくつか発生しているが、これらの事件に関する事項も右判断をする上で重要な意義を有するので、本件審理においても少なからず関連証拠を取り調べており、右各事件の発生状況や爆弾の形状、組成、構造等についても、あわせて検討判示する。

一 本件ピース缶爆弾及び類似の爆弾に関して知り得る事実

本件審理で取調べた証拠のうち、その信用性ひいて証明力が吟味の対象である被告人ら及び共犯者とされるその余の者らの各自白を除外し、かつ、同様な吟味の対象となるべき前述の真犯人と称する者ら及びその仲間と目される者らの公判廷供述をも除外し、専ら押収物、鑑定書、第三者たる目撃者等の客観的証拠によって検討すると、本件のピース缶爆弾に関して次の1及び2の諸事実を認定することができる。

また、前述したその余のピース缶、パチンコ玉等を用いた爆弾に関する類似事案について、同様にして認定しうる諸事実は3の(一)なしい(五)のとおりである。

そして、これらを通観して知ることのできる諸事実を4において述べる。

なお、認定に用いた証拠の標目は原則として各項の末尾に列記して示す。

1  八・九機事件

(一) 事件の発生

(1) 昭和四四年一〇月二四日午後七時ころ、東京都新宿区若松町九五番地(当時)所在の八・九機正門に向って、同正門前の通称若松通り(幅員約一三・五メートル)をはさんだ向い側にある寿司店「花寿司」横角付近から、一人の男がピース缶爆弾の導火線に点火したものを投てきしたが、右爆弾は、導火線と工業用雷管との結合方法に欠陥があったため不発に終った。

(2) 当時、右正門前では、八機隊員上原悦憲及び九機隊員仁科正司が立番勤務中であり、午後七時からの交替要員である九機隊員谷本勉もその場に居合わせ、後記のとおり、右投てきを現認した八機隊員河村周一に大声で指摘され、爆弾投てきを認知したが、上原隊員らは投てき犯人を現認することはできなかった。

(3) 八機隊員河村周一は、午後七時少し前ころ、立番勤務に赴くため、隊舎から正門に向かっていたが、正門手前約二メートルの地点に至った際、前記「花寿司」横の路地角に爆弾を投てきする一人の男を現認した(この点に関し、投てき者の外に複数の者を現認したとする三三回河村周一証言⑬三五五一は、河村周一48・2・18員面⑬三四四〇及び(巡)河村周一44・10・25現認一六二九〇に照らし措信できない。)。同巡査は、正門前で立番勤務していた前記上原巡査らに投てきを知らせるとともに、直ちに犯人を追跡すべく、若松通りを横断し「花寿司」横の投てき地点に至ったが、既に犯人の姿は見当たらず、その後、右「花寿司」横の路地を余丁町小学校方向に走り、同小学校角を右折して更に検索を続けたが結局犯人を発見することはできなかった。

(4) 右爆弾が投てきされた際、偶々八・九機正門付近(若松通り八・九機側やや東大久保寄りの地点)を通りかかった松浦英子(当時大学生)は、目の前をたばこの火のようなものが八・九機正門の方に飛んでいくのを目撃し、道路反対側を見たところ、一人の男が「花寿司」横の路地を奥の方に向かい駆け出して逃走する姿を現認した。

(5) 同日午後七時少し過ぎころ、「花寿司」横の路地を余丁町小学校方面に進み余丁町通り方面に向って右折する最初の小路に面する自宅(同区余丁町一〇〇番地((当時)))前路上に姉多枝子と立つていた高杉早苗は、一人の男(一見して工員風、年令三〇歳位、身長一六〇センチメートル位、やせ型、髪はオールバックで油がついていたような感じ、グレーの背広型作業衣、黒短靴、黒ぶち眼鏡)が「花寿司」方向から余丁町通り方向にものすごい勢いで走って行き、その直後、機動隊員が同方向に走って行くのを目撃した。右のような状況からして、同女の目撃した工員風の男は、右爆弾投てき事件の犯人であると考えて差支えないと認められる。

(6) 以上(1)ないし(5)の事実に照らすと、必ずしも断定はしかねるものの、爆弾投てき当時投てき現場である「花寿司」付近におり、投てきに関与した犯人は一名である可能性が高い。

なお、この点につき、検察官は、当時投てき現場付近には少なくとも四名の犯人がおり、右犯人らは投てき後「花寿司」わきの路地を走り、少なくとも二手に分かれ、うち一名は直ちに右折して高杉方前路地を通って余丁町通り方向へ、他の少なくとも三名は余丁町小学校角まで至って右折し、同小学校前の路地を余丁町通り方向へそれぞれ逃走したものであると主張し、少なくとも三名の者が余丁町小学校方向に逃走したことは、犯人を追跡した河村周一巡査が、氏名不詳の女性の通行人(検察官は高杉早苗でないことは明白であるとする。)から、「三人が逃げて行きましたよ」と聞いたと記憶していると証言していることからも十分認められると主張する(論告要旨一四〇三五五八九)。

検察官の右主張は、三三回河村周一証言⑬三五五一中、「三人が逃げていきましたよと女の人からきいたというふうな記憶はあるんですか」との弁護人の問いに対し、河村が「そのような記憶も、そういわれてみればあるような気もします」と答えた部分(⑬三五九六)に基づいていると解されるけれども、右供述は、次に述べるように、検察官の右主張を根拠づけるものとは言えない。

すなわち、右問答は、元来、河村が、本件投てきを目撃した際、投てき者だけでなく、二、三人の者を現認していると強く証言したことに関し、まず弁護人が、「三人というのはあなたが見たんじゃなくて道で会った女の人から三人ぐらいがかけて逃げていったということをあなたがきいたんじゃないですか」と問うたのに対し、河村が、「私は現認したのは二、三名です。きいてそういう調書を作ったとかそういうことはありません」と答え、さらに弁護人が、「きいたことないの」と念を押したのに対し、「きいた内容についてわかりません」と答えたのに続くものであり、かつ、河村は、前記の答に引き続き、「ですが、今きかれたように、きかれたことについて複数のものと先程のべたとおり私が現認したものです」と述べ、弁護人がなおも「そういうことを調書にのべたり現認報告書に書いたという記憶はないですか」と問うたのに対しては「書いた記憶ははっきりしません。のべているかもしれません」と答えているのであって、このような供述の流れに照らし、河村の前記供述をもって、女性通行人から「三人が逃げて行った」と聞いた旨の積極的証言とすることは到底できないのである。

また、検察官は、右主張に関して、河村44・10・25現認をも引用するが(論告要旨一四二三三五九〇)、これは、河村証言中、「投てき時に投てき地点に複数の者を現認した」とする点を弾劾するため、弁護人の刑事訴訟法三二八条による請求に基づいて取調べたものであるから、その性質上、右弾劾の限度を超え、独立して事実認定の用に供し、あるいは河村証言の前記部分の証明力の増強のため用いることができないことは言うまでもなく、そもそも河村証言の前記部分は、右によって増強できる程度の証明力すら有しないとすべきであろう。

(7) 付言するに、検察官は、右(6)記載の主張に関し、第一〇九回公判(昭和五五年一〇月六日)において、「投てき犯人を追いかけている途中、出会った女性から、『三人がまっすぐ急いで駈けて行った』旨の教示を受けた」との供述を含む河村周一48・2・21検面(以下、「河村検面」という。)の刑事訴訟法三二一条一項二号による取調べを請求した(一六三〇一)。加えて、検察官は、第一二三回公判(昭和五六年九月四日)において補充意見を陳述し(二二五〇〇、二二五〇九)、これに対し、弁護人は、第一二五回公判(昭和五六年一〇月一四日)において、昭和五六年九月三〇日付意見書(二二六七一)に基づき、意見を陳述している(二二六八八)。

しかし、当裁判所は、右第一二五回公判においてこれを却下した(二二六七九、二二六八八)。これに対し、検察官は第一二七回公判(昭和五六年一一月一一日)において異議を申立てたが、当裁判所はこれを棄却した(二二九二九、二二九三一)。

その理由を略述すると、次のとおりである。

検察官が、右主張の関係で河村検面の取調べを請求するのは、その中に含まれる前示「三人が急いで駈けて行った」旨の氏名不詳の通行人女性の発言をもって、本件犯行が、爆弾を投てきした者の単独犯行ではなく、他に少なくとも三名の関与者があることの立証の用に供しようとするにあるものと解されるのであるが、右発言は、再伝聞ではあるものの、河村検面が証拠能力を有し、かつ、信用できるものであるならば、さらに刑事訴訟法三二四条二項の類推適用により、同法三二一条一項三号の要件の存否を判断して、これを右立証に用いることができなくはないものである。

そこでまず河村検面の証拠能力について検討すると、河村は、第三三回公判(昭和五〇年一一月二七日)において証言し、検察官の主尋問に対して、「追いかけている途中で女の人に会い、会話をした記憶はあるが、どのようなことを話したか記憶がない」と述べ、「例えば一人かとか、人数について話があったか」との問に対しても、「多分こちらへ逃げたかというようなことをきいたと思うが、どういう答えがあったか覚えていない」などと答えたほか(⑬三五五二、三五六〇)、弁護人らの反対尋問に対し、「本件現認の際には、二、三名の者を現認している、昭和四八年の警察官、検察官の調べの時にも、複数の者を見た記憶があって、その旨を述べたと思う、さかのぼって昭和四四年の事件発生当時にもその旨を述べた供述調書があるはずである」などと述べた上(⑬三五六六、三五七九)、「三人が逃げていきましたよと女の人からきいたというふうな記憶はあるか」との問に対し、「そのような記憶も、そういわれればあるような気もするが、とにかく自分自身で複数の者を現認している」との趣旨を答えているのである(⑬三五九六)。

けれども、複数の者を現認したとの点は、(3)でも触れたとおり、河村44・10・25現認一六二九〇及び河村48・2・18員面⑬三四四〇の記載に反していて措信できず(なお、昭和四四年の員面なるものは存在しない模様である。)、また、「そのような記憶がある」との部分は、尋問と供述の内容自体のほか、それまでの供述の流れに照らし、いわば一種の相づちとも考えられ、(6)でも触れたように、積極的供述としては措信できない。結局、河村証言の右部分の趣旨は、女性通行人による「三人が急いで駈けて行った」旨の教示につき河村は記憶を有しないことに帰すると解される。

以上によれば、河村検面の前記部分と、河村証言との相反性は一応認めることができよう。

ところで、河村検面の特信情況について検察官の主張するところは、その内容をなす右通行人女性の発言が、事件発生の翌日、すなわち河村の記憶が鮮明であり、かつ、犯人は未検挙で、その人数もなんら問題となっておらず、作為の入る余地の全くない状況下で作成されたはずの河村44・10・25現認第五項の記載と合致することの一事に尽きるのである。

しかるに、今検討すべき問題は、右通行人女性の発言を内容とする河村の供述を録取した河村検面の、いわゆる二号書面としての証拠能力の有無であり、具体的には、右供述が、同人の前記公判廷供述よりも信用すべき特別の情況のもとでなされたと認められるかどうかである。換言すれば、河村が、右検面の作成時には、証言時と異なり、真実、かつて自己が知覚し、認識、記銘したところを、正しく想起しており、それを「供述」の形で忠実に再現したと認められるか否かが焦点なのである。

検察官の指摘するような現認報告書との一致が右の点を積極に解すべき根拠となりうる場合もあるであろう(もっとも、どちらかといえば、通常、これは証明力判断の場面で有力に働く事項であろう。)。しかし、今の場合は趣を異にする。最大の難点は河村48・2・18員面である。

河村44・10・25現認には、通行中の女性から、「三人の男が駈けて行った」旨きいたとの記憶がある。しかるに、本件一連のピース缶爆弾事件の取調べが始まったのちにまず録取された河村48・2・18員面には、この点に関し、「追跡の途中で、通行人の女性に、だれか走って行く姿を見なかったかと尋ねたが、いずれもそれらしい姿は見なかったとのことであった」との供述記載があるのみである。従って、この時点では、河村の記憶の中に、通行人女性の「三人が駈けて行った」旨の発言なるものは全く存在していなかったと考えるべきであろう。

河村検面は、その三日後に録取されたものである。そして、これには前記のような通行人女性の教示についての供述が存するわけである。しかし、突然、右の点に関する明確な記憶がよみがえった経緯は不明である(河村に対する証人尋問においても、河村検面の作成状況に関する発問はなされていない。)。そして三三回河村証言において、河村が、通行人女性の発言についての記憶を有していなかったことはさきに述べたとおりである。

このようにみてくると、河村は、昭和四八年二月二一日の検察官による取調べにおいて、通行人女性の右発言につき、明確な記憶を有しなかったのにもかかわらず、前記現認の記載に基づく検察官の誘導に従い、右発言があったとする供述をしたに過ぎないのではないかとの疑いを払拭できないのであって、右供述には特信情況を認めがたく、前記現認との一致も、右供述についての特信情況の存在を窺わせるものとはいえないこととなる。

それ故、河村検面は、前記再伝聞事項の採否につき検討するまでもなく、それ自体が刑事訴訟法三二一条一項二号の要件を欠き、採用できないとするほかはないのである。

なお、かりに河村検面につき証拠能力を認めることができたとしても、河村は、犯人追跡のため全力疾走中、一瞬すれ違った女性から前記教示を受けたというあわただしい状況であったようであるから、その聴取したという教示内容の正確性についても多大の疑問があり、右教示内容に関する供述記載部分の証明力は極めて薄弱であると考えられ、前記内容の教示の存在それ自体、さらに立ち入って再伝聞事項としての採否の要件を検討するに足りるだけの確実性を有しないというべきであろう。

(二) 爆弾の形状等

(1) 八・九機事件に使用された爆弾は、缶入りピースの空き缶(缶番号9S171、帯状の包装紙付き)に旭化成製新桐ダイナマイト約一九七・〇グラムを充填し(一本約一〇〇グラムのダイナマイト二本をそれぞれ約半分の長さに切るなどして充填したもの)、旭化成製六号工業用雷管の空管部に旭化成製第二種導火線(約九・五センチメートル)を挿入し(導火線の一方の先端部分に接着剤を塗布して差しこみ、雷管内管上面と接着させている。)、管口部(結合部)周囲に青色ガムテープ(布製。後記の缶体等に貼付されたものと同質と認められる。)の小片を巻いて更に接続を確実にしたものを、前記ダイナマイトのほぼ中央に埋めこみ、その周囲のダイナマイト中にいずれも「SGC」の刻印のあるパチンコ玉八個を薬高の中間まで埋めこんだもので、缶蓋(缶体とは黄色様接着剤で接着、固定してある。)のほぼ中央には、直径約八ミリメートルの円孔があけられ、該円孔を通して導火線がピース缶外に出ており(導火線の缶外に出ている部分の長さは約六・三センチメートルであり、その先端は、写真で見る限り、ほぐされてはおらず、斜めに切られている。)、ピース缶の蓋及び缶体のほぼ全面に青色ガムテープ(布製、巾約五・〇センチメートルのもの。証拠書類中には「青色粘着テープ」「青色ビニールテープ」としたものもある。)を貼りつけたものであることが認められる。なお、茶色ガムテープ(布製)の小片も使用されていた模様であるが、その使用方法、使用箇所等は現在の証拠の状態からは判然としない。

右爆弾は爆発しなかったが、それは、右のように導火線の先端部分に接着剤を塗布して雷管空管部に差し込んだことにより、雷管との取付部の導火線切口の芯薬面から内部にまで接着剤が浸透し、芯薬たる黒色火薬が固化してしまったため、その部分で導火線の燃焼が中断し、工業用雷管への点火ができず発火しなかったことに基づく。

(2) 右「SGC」の刻印のあるパチンコ玉は、昭和四四年当時、同都新宿区角筈一丁目一番地(当時、現新宿三丁目二九番)所在のパチンコ店「新宿ゲームセンター」に備え付けられ使用されていたパチンコ玉であることが認められる(なお、このことは、以下の各爆弾についても同様であるので、いちいち言及しない。)。

以上の事実につき、《証拠省略》

2  アメリカ文化センター事件

(一) 事件の発生

昭和四四年一一月一日午後一時一〇分ころから一五分ころまでの間に、東京都千代田区永田町二丁目一四番二号所在の山王グランドビル二階アメリカ大使館広報文化局アメリカ文化センター受付カウンター上に、何者かによってダンボール箱入りの時限式ピース缶爆弾が設置されたが、同一五分ころ、同ビルに派遣されている日本ビルサービス株式会社清掃係伊藤一男の発見するところとなり、同人の通報により同じく同社から山王ビル電気係として派遣されている矢部昭恭が同爆弾の時限装置と爆発物を連結している二本のリード線を切断したため、結局同爆弾は不発に終わった。

なお、右時限装置が何時に爆発するようセットされていたかについては、午後四時以前と推認できるだけで、その正確な時刻については、証拠上確定することはできない。

(二) 爆弾の形状等

アメリカ文化センター事件に使用された爆弾は、概要、電気雷管を埋めこんだピース缶爆弾とタイマー、電池等を利用した時限装置を連結し、時限装置をセットすることにより一定時間経過後に電気雷管に通電し爆発する構造のもので、右ピース缶爆弾と時限装置はダンボール箱内に収納され、該ダンボール箱は紙で包んだ上、梱包用テープで封をされていた。

詳細は次のとおりである。

(1) ピース缶爆弾

右ピース缶爆弾は缶入りピースの空き缶(缶番号9S171)に旭化成製新桐ダイナマイト約一九五グラムを充填し(一本約一〇〇グラムのダイナマイト二本をそれぞれ約半分の長さに切るなどして充填したもの)、旭化成製六号段発電気雷管(管体の周囲にニトロセルロースを主剤とした接着剤が付着している。)を右ダイナマイトのほぼ中央に埋めこみ、その周囲のダイナマイト中にいずれも「SGC」の刻印のあるパチンコ玉七個を埋没させた上、右ダイナマイト上に塩素酸カリウムと砂糖の混合物約五〇グラムを添加したもので、缶蓋(缶体とはクロロプレンを主剤とした接着剤で接着、固定してある。)のほぼ中央には直径約八ミリメートルの円孔があけられ、該円孔を通して電気雷管の脚線がピース缶外に出ており、右脚線の雷管管口部付近から缶蓋の円孔部付近までの部分に茶色ガムテープ(紙製。証拠書類中には「褐色テープ」としたものもある。)が巻きつけられ、右円孔の周囲にはポリ酢酸ビニールを主成分としこれに炭酸カルシウムと少量の酸化チタン(充填剤)を加えた灰白色様の接着剤が付着しており、ピース缶の蓋の部分が前同様の茶色ガムテープ(紙製)で覆われている。

(2) 時限装置

ア 構造

本件時限装置は、松下電工株式会社製ET―六三型ゼンマイ式一二時間型タイマー(一二五V一二A)のカバー及びツマミを取り外した上、工作を加えたものと、電気雷管の電源としての単二型乾電池(ソニー製)二個とからなる。

可動接点を形成するバネ式切片及びバネ式切片支持座はいずれも正規の製品としての前記タイマーから切り取られたもので、右支持座はヤスリ加工されている。右バネ式切片は割ばし等で作った押さえで固定されているほか、右バネ式切片をタイマー本体から絶縁し、かつ、地板間の間隙に落ちこまない枕用としてガムテープを輪にし押しつぶしたものが使用されている。他方、固定接点は、割りばし様のものを切り取りこれをタイマーの取り付け金具に差しこみ、接着剤で固定した上、銅線を巻きつけてはんだ上げを行ったものである。タイマー自体はゼンマイで作動し、セット時刻になるとタイマー本来のカム機構とバネ式切片のスプリング作用で、両接点が接し、回路が構成されるようになっている。

また、乾電池二個は、上下互い違いに並べ、茶色ガムテープ(布製)を巻きつけて固定してある。

右タイマーを改造したものは、ピース缶蓋にのせられ、はんだづけによりこれと固定され(缶蓋はタイマーのカム機構に異物が触れ、異動作をしないためのプレートとしての役割も考えられる。)、缶蓋の反対側には前記乾電池二個をガムテープで巻いたものを接着し、その上からタイマー本体とともに前同様の茶色ガムテープ(布製)の切れ端を巻いて全体を固定している。

なお、右タイマーの金属部分には「毛沢東」「赤軍」「MAO」「World Revolution」と読める文字が、鋭利な先端を有する用具(例えば千枚通し)と思われるもので、ひっかくようにして書きつけてある。

イ 結線状況

一方の乾電池(A電池と仮称する。)のプラス極と他方の乾電池(B電池と仮称する。)のマイナス極が赤色リード線(より線)で直列に継がれており(はんだづけ)、B電池のプラス極は前記固定接点と白色リード線(電気雷管の脚線((赤色、白色の二本のリード線からなる。))のうち、白色リード線を切って使用したもので、他方の赤色リード線の赤色が付着しているため、一見赤白色のものに見える。)でいずれもはんだづけによりつながれている。

A電池のマイナス極には、電気雷管赤色脚線の先端がはんだづけされており、電気雷管の白色脚線は前記可動接点にはんだづけされた赤色リード線(電気雷管の脚線のうち、赤色リード線を切って使用したもの)と、「ねじり」結線された上、前同様の茶色ガムテープ(紙製)が貼られている。

ウ 回路の形成

本件時限装置の電気回路の形成については、前記のとおり電気雷管の白色脚線と可動接点からの赤色リード線が「ねじり」結線されているほかは、他の接続箇所はすべてはんだづけされており、右事実によれば、本件時限装置はアメリカ文化センター至近地点まで右「ねじり」結線部分を結線しないまま運ばれ、その後に爆発時刻をセットした上、右部分の結線が行われたものと推認される(結線時の誤爆の危険性を考えると、爆発時間のセットは右のとおり結線直前に行われたものと認めるのが合理的であるが、右セットのためには、本来右タイマーに取り付けられていたダイヤルつまみを用いるか、ペンチ等を用いるかしてゼンマイを巻くための心棒を回す必要があり、かつ、セット時間を知るためには、前記ダイヤルつまみを用いてシャフトを回し、その目盛を読みとるか、何らかの方法によってシャフトの回転角度とセット時間の関係を知っておく必要があることを考えると、右セット自体は、前もって行われていた可能性も否定できない。)。

(3) ダンボール箱

以上のとおりの本件時限装置付爆弾は、ダンボール箱(縦約一七・五センチメートル、横約一三センチメートル、高さ約一二・五センチメートル)に収納されていたが、右ダンボール箱は、既製のダンボール箱(日本工業規格JIS Z一五〇七に定められたB―1形)の一側面を何らかの理由により切り取り、その後において、右切り取った側面あるいは他のダンボール箱を利用して同じ大きさに作成したダンボール紙を、切り取った場所にあてガムテープで固定して箱としたものであることが認められる。すなわち、本件ダンボール箱の展開図は第一図のとおりであるが、本件ダンボール箱は発見後、事件現場において、警視庁鑑識課員により、箱の四端が縦に切断開披されており(一四回徳永勲証言⑦一四七二、(員)小林由太郎44・11・5実⑤一〇一一)、開披後の展開状況は第二図のとおりであるところ、本件ダンボール箱を子細に見分、検討すると、ダンボール箱外側には、第二図キ―コの稜線をはさむ形でE、Gの両面にわたってガムテープ(紙製)が貼付されており、他方、Eの外面にキ―エに平行する形で貼付されたガムテープ(紙製)がキ―エの間隙部分から箱の内部に入りこんだ形になっているが、右の各ガムテープは明らかに連続した一枚のガムテープと認められる(右ガムテープも開披時に相当程度切断されているほか、その後のダンボール箱ないしガムテープの接着状況についての原状保存は良好なものではなかったが、現時点においても、辛うじて一部連続している状態を認めることができるほか、右開披時切断部分も、その長さ、形状等が一致することが認められる。)。以上の事実は、第二図のDとGのカ―キとキ―ク部分(第一図D、Gのカ―キ(ク)部分)が切断されていたことを示すものにほかならず、すなわち、本件ダンボール箱にあっては、第一図(第二図)のD部分が後につけ加えられたものであることが認められるのである。そして、以上の認定は、第一図(第二図)のDの各稜線部分に対するガムテープの補強状況が、ダンボール箱の他の稜線部分に比べ著しいものになっていることとも符合するものである。

(第一図)

(第ニ図)

(4) 割りばし

右ダンボール箱はその内面底部に前同様の茶色ガムテープ(紙製)が貼ってある外、内面各所に(おおむね隣接する面にまたがる形で)前同様の茶色ガムテープ(布製)が貼付され、これにより箱自体の強度が、補強されており、また内面底部には、ほぼ十文字に組み合わされた割りばしが灰白色の接着剤(ポリ酢酸ビニール樹脂を主成分とし、充填剤として炭酸カルシウム、酸化チタン及び樹脂粉末等が加えられたもの)及び前同様の茶色ガムテープ(布製)で接着、固定されている。他方、ダンボール箱内面にも右同様の接着剤が塗布され、これによってピース缶爆弾本体と時限装置が箱内に接着、固定されているが、前記十文字に組み合わされた割りばしは、その形状、接着位置等に照らし、明らかに右爆弾本体と時限装置の箱内でのずれや移動を防ぎ、それらの位置をしっかりと固定するために用いられたものと解され、作業の手順としては、まず爆弾本体と時限装置を接着、固定した後、割りばしによる更なる固定を図ったものと推認されるが、この点は必ずしも断定はできない。

(5) 包装

本件ダンボール箱は、通常見られる一枚紙の包装紙でなく、ハトロン紙製の紙袋を切断したものを利用して包装されており、茶色ガムテープ(紙製)により封がされている。

以上の事実につき、《証拠省略》

3  その余のピース缶爆弾事件

(一) 京都地方公安調査局事件(琵琶湖解体事件を含む。)

(1) 事件の発生

昭和四四年一〇月一七日午後一一時三〇分ころ、大村寿雄及び村橋稔は共謀の上、村橋において、京都府京都市東山区馬町通大和大路東入下新し町三三九番地所在の京都地方公安調査局庁舎に向かってピース缶爆弾一個を投てきし、同庁舎屋上で爆発させた(京都地方公安調査局事件)。

右爆弾は、当時アナーキストを自称していた大村が、他から入手し(その入手先は牧田吉明である蓋然性が極めて高い。後記第九章二2(四)参照。)、右投てき事件の一日ないし三日前(すなわち同月一四日ないし同月一六日)の夕方、京都市東山区本町五丁目一九三番地所在の杉本嘉男方において、同人に対し保管を依頼したピース缶爆弾二個のうちの一個である。

杉本は同月一七日以降も残りのピース缶爆弾一個の保管を続けたが、同年一一月ころ上京した際、牧田から廃棄方を依頼され、そのころ、滋賀県大津市所在のホテル「紅葉」の一室において、同じく同人の指示を受けた三潴末雄と落合い、同人が杉本の保管していた前記爆弾一個を解体し、琵琶湖に投棄した(琵琶湖解体事件)。

(2) 爆弾の形状等

ア 京都地方公安調査局事件分

京都地方公安調査局事件に使用された爆弾は、爆発したので、物自体は残されなかったが、残存破片、鑑識結果等によれば、ピースの空き缶(爆発により飛散しており缶番号は不明である。)に爆薬を詰め、導火線に点火して爆発させる手投げ弾である。爆薬は、爆発地点及びその周辺に亜硝酸イオンの反応がみられることから、亜硝酸を燃焼に際し発生する火薬類例えばダイナマイト等のニトロ化合物を主とする爆薬が充填されていたと認められ、また塩素イオンの反応が発見されていることからして塩素酸塩(例えば塩素酸カリウム)も使用されている可能性もある(但し、硫黄イオンの反応も同時に発見されていることからすると塩素酸塩と硫黄その他の混合物の形で添加されていたものとも考えられる。)が、後者については断定できない。

爆発地点付近で「SGC」の刻印のあるパチンコ玉一個が発見されており、右爆弾に充填されていたものと推認されるところ、これは八・九機事件及びアメリカ文化センター事件の各ピース缶爆弾に充填されていたパチンコ玉と同一種類のものと認められる。

導火線の長さは不明とせざるを得ないが、導火線は工業用雷管と接着した上、ピース缶爆弾に装着されていたものと認められる(この点につき、杉本供述中には「預った爆弾には導火線はついておらず、導火線は別に大村から見せられた」旨の供述もあるが、村橋が爆弾を目撃した時点においては既に導火線が装着されており、他方、大村が杉本から爆弾一個の返還を受けた後、村橋にこれを手交するまでの間、導火線の装着が行われた形跡はないこと、杉本がその後も保管を継続し、ホテル「紅葉」において解体するに至るいまひとつの爆弾には導火線が装着されていたことのほか、杉本自身、右供述については、ホテル「紅葉」において解体した際導火線を引き抜き缶蓋に穴があいている光景をみたことから記憶が混乱している虞がある旨供述していることに照らすと前記のとおり認定するのが合理的である。)。

ピース缶の缶体と蓋及び導火線と工業用雷管の接着剤による接着の有無並びに缶体へのガムテープ貼付の有無については確認できない。

イ 琵琶湖解体事件分

ホテル「紅葉」において三潴により解体された爆弾は、直ちに琵琶湖に投棄され、そのまま発見されていないが、関係者の供述するところを総合すると、ピースの空き缶にダイナマイト及びパチンコ玉五個ないし一〇個を充填し、工業用雷管と導火線を接続したものを右ダイナマイトに埋めこみ、缶蓋の穴から導火線が缶外に出ている構造のものと認められる。ダイナマイト以外の爆薬は使用されていなかった模様である。

缶蓋と缶体及び導火線と工業用雷管の接着剤による接着の有無は判然としない。ただ爆弾の缶体と缶蓋には、少なくとも、これらを接着固定するためガムテープないしビニールテープが巻かれていた。

右爆弾は京都地方公安調査局事件に使用されたピース缶爆弾の入手先から同一機会に大村が併せ入手したものと推認され、かつ、双方の爆弾の構造の類似性に照らすと、解体投棄された右ピース缶爆弾に充填されていたパチンコ玉には「SGC」の刻印があったものと考えて差支えないであろう。

以上の事実につき、《証拠省略》

(二) 中野坂上事件

(1) 事件の発生

昭和四四年一〇月二一日午後一〇時三〇分過ぎころ、東京都新宿区柏木(当時)所在の東京薬科大学付近において、「一〇・二一東京戦争」を標榜する赤軍派の者十数名位が、複数の触発性火炎瓶及びピース缶爆弾を携行した上、小型トラックの荷台に乗りこみ、警視庁淀橋警察署(当時、現新宿警察署)を攻撃すべく同署に向かって右トラックを発進させ、間もなく同署前に至って、トラックを走行させたまま荷台上から同署前に火炎びんを投てきした後、更に走行を続け、同区中野坂上交差点手前に至り、同交差点に停車中のパトカーを認めて、右トラックを停止させ右パトカーに対し火炎びん等を投てきしたものの、結局右トラックをその場に乗り捨てたまま逃走したが、その際、同所付近にピース缶爆弾三個が遺留され、間もなく発見、押収された。

これに先立つ同日正午前後ころ、同都渋谷区千駄ヶ谷所在日本デザインスクール寮内の中條某の居室において、赤軍派第一中隊の者数名が集まり、当日の闘争に向けての戦術会議が開かれたが、そのころ、右会議に出席した同派の山下こと若宮正則及び石田こと劉某の両名が、ピース缶爆弾の入った菓子箱あるいはケーキ箱二個くらいを同所に持ち込み、その後、経路は判然としないものの、これらのピース缶爆弾入りの菓子箱は前記東京薬科大学付近に運ばれた上、少なくともうち一箱が、前記小型トラックの出発に際し同トラックに持ち込まれたものと認められる。

前記中條方居室に持ちこまれ、東京薬科大学付近まで運ばれたピース缶爆弾の個数は必ずしも判然としないが、前記若宮は一二個と述べ(八八回証言一一八八一等)、関係者ら(古川経生、大桑隆、大川保夫、木村一夫)の供述もこれと特に抵触するところがないので、一二個と認めてよいと考えられる。

(2) 爆弾の形状等

中野坂上交差点付近に遺留された右ピース缶爆弾三個の基本的構造は、八・九機事件のそれと同一であり、これらの爆弾に使用されているダイナマイト、導火線及び工業用雷管の製造元及び種類並びにパチンコ玉の刻印も同様である。これら三個の爆弾のその余の特徴は次のとおりである。

ア ピース缶番号9S171、茶色ガムテープ(布製。証拠書類では「カーキ色」とされている。)が缶体及び蓋に貼付されているもの

ダイナマイトは約一九五・〇グラム、「SGC」の刻印のあるパチンコ玉は八個埋めこまれている。導火線の長さは約一二・五センチメートル(ピース缶外に出た導火線の長さは約九・五センチメートル、工業用雷管と結合した状態における雷管を含めた全長は約一四・五センチメートル)で、その先端部分はほぐされている。導火線と工業用雷管は接着剤(溶剤テトラヒドロフランで溶解)で接着され、雷管管口部付近に前同様の茶色ガムテープ(布製)の小片が巻かれて固定されている。缶体と缶蓋は接着剤により接着してある。缶体外側の帯状包装紙は、はがされていない。

イ ピース缶番号9T271、青色ガムテープ(布製)が缶体及び缶蓋に貼付されているもの

ダイナマイトは約一九三・二グラム、「SGC」の刻印のあるパチンコ玉は八個埋めこまれている。導火線の長さは約一三センチメートル(ピース缶外に出た導火線の長さは約八・五センチメートル、工業用雷管と結合した状態における雷管を含めた全長は約一五センチメートル)で、その先端部分はほぐされている。導火線と工業用雷管は接着剤(溶剤テトラヒドロフランで溶解)で接着され、雷管管口部付近に青色ガムテープ(布製)の小片が巻かれて固定されている。缶体と缶蓋は接着剤により接着固定されている。缶体外側の帯状包装紙は、はがされていない。

ウ ピース缶番号9S171、青色ガムテープ(布製)が缶体及び缶蓋に貼付されているもの

ダイナマイトは約一九三・六グラム、「SGC」の刻印のあるパチコン玉は八個埋めこまれている。導火線の長さは約一二・五センチメートル(ピース缶外に出た導火線の長さは約七・五センチメートル、工業用雷管と結合した状態における雷管を含めた全長は約一四・五センチメートル)で、その先端部分はほぐされている。導火線と工業用雷管は接着剤(溶剤テトラヒドロフランで溶解)で接着され、雷管管口部付近に青色ガムテープ(布製)の小片が巻かれて固定されている。缶体と缶蓋は接着剤により接着固定されている。缶体外側の帯状包装紙は、はがされていない。

以上三個のピース缶爆弾は、八・九機事件のピース缶爆弾と同様、導火線の先端部に接着剤を塗布して雷管空管部に差しこんだことにより、雷管との取付部の導火線切口の芯薬面から内部にまで接着剤が浸透し、芯薬たる黒色火薬が固化してしまったため、その部分で導火線の燃焼が中断し、工業用雷管を点火させるのが不可能な状態になっていたと認められる。

以上の事実につき、《証拠省略》

(三) 福ちゃん荘事件

(1) 事件の発生

昭和四四年一一月五日山梨県塩山市大菩薩峠唐松尾分岐点所在の民宿「福ちゃん荘」において、赤軍派四九名が兇器準備集合罪で逮捕された際、同荘内からピース缶爆弾三個が押収された。

右ピース缶爆弾三個は、同派の出口光一郎が、同年一〇月二一日前記中野坂上交差点付近から逃走する際に持ち帰ったもので、その後同人から保管を依頼された同派の木村一夫が、同年一一月三日福ちゃん荘に搬入したものである。

なお、木村は、同月二日ころ、赤軍派幹部の指示を受け、右ピース缶爆弾三個の導火線をいずれも約五・五センチメートル切断し短くしたということである。

(2) 爆弾の形状等

右ピース缶爆弾三個は、いずれも八・九機事件のピース缶爆弾と基本的構造が同一であり、かつ、右爆弾のうちの一個(特定はできない。)に充填されているダイナマイトの種類及び製造元(その余の爆弾二個に充填されていたダイナマイトについては、これらの点が調査されていないが、鑑定人久保田光雅は外観検査により組成分析された前記ダイナマイトと同種のものと推定しており、右推定は首肯できる。)、導火線及び工業用雷管の種類、「SGC」の刻印のあるパチンコ玉がダイナマイト中に埋めこまれている点、導火線と雷管とが接着剤で接着され、雷管の管口部付近にガムテープ(色、種類については証拠上不明である。)が巻きつけられている点、缶体と缶蓋が接着剤により接着され、缶外面にガムテープが巻きつけられている点においても同一である。これら三個のピース缶爆弾は、充填されたダイナマイトがいずれも約二〇〇グラムであり、パチンコ玉の数はそれぞれ七個ないし八個、缶蓋に開けられた穴はいずれも直径約六ミリメートルである。うち二個のピース缶爆弾には茶色ガムテープ(布製)が巻きつけられており、それらのピース缶の缶番号は9S171及び8W281であり、導火線の長さはそれぞれ約六・〇センチメートル、約七・三センチメートル(但し、久保田光雅作成の鑑定メモでは約七二ミリメートル。いずれにせよ大差はない。)である。その余のピース缶爆弾一個は、青色ガムテープ(布製)が巻かれており、導火線の長さは約七・七センチメートルであるが、右ピース缶の缶番号は不明である。

右ピース缶爆弾三個は、前記のとおり、いずれも導火線と工業用雷管が接着剤で接着されているものであるが、そのうちの一個については導火線に点火することによって雷管を点爆させる能力を有していたことは認められるけれども、その余の二個のピース缶爆弾については右能力の有無は不明である。

以上の事実につき、《証拠省略》

(四) 中大会館事件

(1) 事件の発生

昭和四四年一一月一〇日午前三時五八分ころ、東京都千代田区神田駿河台三丁目一一番地所在中央大学会館玄関口前において、ピース缶爆弾一個が爆発した。

(2) 爆弾の形状等

右爆弾は、爆発したので物自体は残されなかったが、残存破片、鑑識結果等によれば、硝酸系爆薬(桐級ダイナマイトと仮定して少くとも一〇〇グラムないし二〇〇グラムと推定される。)及びパチンコ玉をピース空き缶に充填し、工業用雷管を利用して爆発させたものと推定され、基本的に八・九機事件のピース缶爆弾と同一構造であり、かつ、爆発現場から発見されたパチンコ玉三個の刻印も右爆弾のものと同一であると認められる。ピース缶の缶番号は9T221と判読される。なお、爆発現場からは塩素イオンが検出されず、従って、右爆弾には塩素酸カリウムは添加されていなかったものと認められる。

以上の事実につき、《証拠省略》

(五) 松戸市岡崎アパート事件

(1) 事件の発生

昭和四四年一一月一二日千葉県松戸市《番地省略》所在岡崎直人所有のアパート一階四号室の井田一夫方居室(赤軍派のアジトと認められる。)において、ピース缶爆弾二個が発見、押収された。

(2) 爆弾の形状等

ア 右ピース缶爆弾二個は、いずれも八・九機事件のピース缶爆弾と基本的構造が同一であり、右爆弾のうちの一個に充填されているダイナマイトの組成(他の爆弾一個に充填されていたダイナマイトの組成については分析されていない。)、導火線及び工業用雷管の種類、「SGC」の刻印のあるパチンコ玉がダイナマイト中に埋めこまれている点、導火線と雷管とが接着剤で接着され、雷管の管口部付近にガムテープ(色、種類については証拠上不明である。)が巻きつけられている点、缶体と缶蓋が接着剤により接着され、缶の外側全面にガムテープが巻きつけられている点においても同一である。右二個の爆弾は、充填されたダイナマイトがいずれも約二〇〇グラムであり、パチンコ玉の数は七個又は八個、缶蓋に開けられた穴はいずれも直径約八ミリメートルである。導火線の長さはそれぞれ約七・一センチメートル、約七・八センチメートルで、その先端部分はいずれも斜めに切断されている。外側全面に巻きつけられているガムテープはいずれも布製で、一方の爆弾には青色のものが、他方の爆弾には茶色のものが、それぞれ使用されている。

右ピース缶爆弾二個は、前記のとおり、いずれも導火線と工業用雷管が接着剤で接着されているものであるが、うち一個については導火線に点火することによって雷管を点爆させる能力を有していたことが認められるけれども、他方のピース缶爆弾については右能力の有無は不明である。

以上の事実につき、《証拠省略》

4  通観

以上、1及び2並びに3の(一)ないし(五)に判示した各ピース缶爆弾を通観すると、次のような特徴が見受けられ、ひいてその背後にあると思われる事実もある程度推認することができる。

(一) 高度の類似性

アメリカ文化センター事件のピース缶爆弾を除くその余のピース缶爆弾一二個は、同一の形状、構造と認められるか、あるいはそのように推認されるべきものであり、かつ、アメリカ文化センター事件のものを含む一三個の爆弾には、いずれも「SGC」という刻印のあるパチンコ玉が用いられている点(ホテル紅葉において解体され、琵琶湖に投棄されたピース缶爆弾についても、「SGC」の刻印のあるパチンコ玉が入っていたものと推認すべきことは3(一)(2)イで述べたとおり)に顕著な特徴が認められる。このことは、その出所が同一であることを示すものと考えられるところ、同じころに、爆弾というような、極度に特殊かつ非日常的な性質のもので、同一の特徴を持ったものを、別個のグループが、それぞれ独立に製造するというようなことは、まずあり得ないと思われ、これらのピース缶爆弾は、同一人あるいは同一のグループないしこれに準ずる者らによって製造されたものである蓋然性が極めて高いということができる。検察官は、前記のとおり論告に対する釈明として、いわゆる京都地方公安調査局事件のピース缶爆弾(明言はされていないが、ホテル紅葉における解体、廃棄分も当然これに含まれるものと解される。)は、被告人らが河田町アジトにおいて製造したピース缶爆弾十数個の一部であると積極的に主張する意思はないとするが(三三七四一)、右に通観したところによれば、京都地方公安調査局事件関係のピース缶爆弾を、その余の一〇個と区別すべき根拠はなく、被告人らがピース缶爆弾を製造したと言う以上は、右の爆弾もまた、検察官が、前記のとおり(第二章五)、訴因変更請求時に主張していたように、被告人らにおいて製造したものの一部であると推認するのが合理的であるとしなければならない。

(二) 二段階製造説

弁護人らは、京都地方公安調査局事件及び中大会館事件の各爆弾がいずれも爆発していること、これに対し、中野坂上事件及び八・九機事件の爆弾計四個は、導火線の芯薬が、工業用雷管との結合部に使用された接着剤により固化したため、いずれも爆発不能であること、並びに福ちゃん荘事件及び松戸市岡崎アパート事件の爆弾計五個の導火線と工業用雷管との結合部にも接着剤が用いられていることに基づいて、右は、導火線と工業用雷管との結合に少なくとも二種類の方法(接着剤を用いるものとそうでないもの、少なくとも接着剤の使い方が違うもの)があることを示すものであるとし、従って、本件爆弾の製造に際しては、製造作業のある段階(ピース缶にダイナマイトを充填し、これにパチンコ玉を埋め込み、まだ導火線と工業用雷管は結合されていない段階)までは同一グループによって行われたが、その後の段階(導火線と工業用雷管との結合、そのダイナマイトへの挿入、蓋の穴あけ、缶体と蓋との接着、ガムテープ巻き等)は、他の者によって別個に行われた可能性が高いと主張する(最終弁論七九、三三八〇六)のであるが、導火線と工業用雷管の結合を接着剤で行っている右福ちゃん荘事件及び岡崎アパート事件の爆弾も、そのうち点火試験が行われた各一個は、いずれも導火線に点火することにより、正常に工業用雷管を点爆する能力を有した(3(三)(2)及び(五)(2))のであるから、京都地方公安調査局事件及び中大会館事件の各爆弾が、それぞれ爆発に至っているとの一事をもって、これら爆弾は、導火線と工業用雷管の結合方法に他の爆弾と異なる方法を用いたものであると断定することはできない。弁護人の右見解は、後に触れる牧田証言(第九章二)とも抵触せず、傾聴すべき点を含むけれども、右のような根拠だけからは、直ちに賛同し難いところである。

(三) 導火線

導火線の長さが判明しているのは、八・九機事件のもの(九・五センチメートル)、中野坂上事件のもの三個(一二・五センチメートル、一三・〇センチメートル、一二・五センチメートル)、福ちゃん荘事件のもの三個(六・〇センチメートル、七・三センチメートル、七・七センチメートル)、及び松戸市岡崎アパート事件のもの二個(七・一センチメートル、七・八センチメートル)であるところ、中野坂上分が最も長く、八・九機分はこれよりやや短かく、福ちゃん荘、松戸分は最も短かい。

また、導火線先端の形状を見ると、中野坂上事件及び福ちゃん荘事件の計六個の爆弾では、軸方向に直角に切断され、ほぐされた形となっているのに対し、八・九機事件及び松戸市岡崎アパート事件の計三個では、軸方向に対し斜めに切断され、ほぐされてはいない。

ところで、福ちゃん荘事件の分は、3(三)(1)で触れたとおり、木村一夫が、赤軍派幹部の指示により、保管中の爆弾の導火線を短かくしたものということであり、松戸市岡崎アパート事件の分は、福ちゃん荘事件ののちに赤軍派アジトから発見されたものであるから、同様に切り縮められていると考えてよく、これに対し、最初に発見され、導火線の長さも最も長い中野坂上事件の分が原形をとどめていると見て差支えないように思われる。従って、製造時のピース缶爆弾の導火線の長さは、約一二ないし一三センチメートル位であったものと推認される。

このことは、後記菊井証言の信用性の評価(第八章三4(一)(3)ウ)に際し想起されるべきものであり、また、前示のとおり、八・九機事件の爆弾の導火線の長さが、中野坂上事件の分より短かく、福ちゃん荘事件及び松戸市岡崎アパート事件のものより長いことは、その先端の形状が斜め切断であることと共に、後記若宮証言の信用性の評価に関し(第九章三2(五))、注目されるところである。

(四) 缶番号

各ピース缶爆弾に使用されたピース缶のうち、缶番号が判明しているものは、アメリカ文化センター事件のピース缶爆弾を含め計八個であるところ、そのうち五個は「9S171」、二個は「9T211」、他の一個が「8W281」であり、右番号は、ピース缶の製造年月日、製造場所を示すものであることに照らすと、「8W281」のものについては格別、その余の番号のものは、それぞれ同一機会にある程度一括して購入されたものと認めて差支えないであろう。

(五) 雷管結合部のガムテープの色

右各爆弾のうち、導火線と工業用雷管との結合部に巻きつけられているガムテープの色が判明しているものは四個(中野坂上のうち一個が茶色、他の二個と八・九機が青色)であるが、いずれも当該爆弾の缶体に巻かれたガムテープの色と一致している。

弁護人らは、このことから、右結合部のガムテープ巻きつけと缶体へのガムテープ巻きつけとは、別人による分業的流れ作業でなく、同一人(少なくとも同一グループ)による単品生産的一貫作業として行われたことが明らかになると主張し、その理由として、導火線に結合された雷管を缶体内のダイナマイトの中に埋め込み、導火線の先端部を缶蓋の穴を通して外へ出した上、缶蓋を閉じて缶体へガムテープを巻きつける段階になれば、右結合部分のガムテープの色は外からは見えないから、もし両作業が分業的流れ作業であったのなら、両者の色の異なるものが出来ているはずなのに、右のとおり、両者の色はすべて一致しているので、流れ作業は否定されるというのである(最終弁論八二三三八〇七)。

一理ある見解ではあるけれども、立論の基礎となる爆弾の数がわずか四個に過ぎないから、右のような色の一致が有意的なものであるとは必ずしも言えないように思われる。

(六) 改造(アメリカ文化センター事件)

アメリカ文化センター事件のピース缶爆弾は、八・九機事件等のピース缶爆弾と同一の構造を持ったピース缶爆弾を改造したものと認められる。その理由は次のとおりである。すなわち、

ア 京都地方公安調査局事件のピース缶爆弾をひとまず措き、その余の前示一一個のピース缶爆弾とアメリカ文化センター事件のピース缶爆弾とを比較してみると、後者には工業用雷管でなく電気雷管が用いられており、塩素酸カリウムと砂糖の混合物が添加されていることが異なるだけで、それ以外は、充填されているダイナマイトの種類、パチンコ玉の刻印等、その構造、組成、形状(缶蓋の穴の形状をも含めて)が同一であること

イ アメリカ文化センター事件のピース缶爆弾缶体には帯状包装紙が巻かれていないが、缶蓋裏内側には右包装紙の断片が接着剤により付着しているところ、八・九機事件のピース缶爆弾を見ると、缶体に帯状包装紙が巻かれたまま、その上から前示のとおり青色ガムテープがほぼ全面に貼りつけられており、かつ、缶蓋裏内側には、右包装紙の断片が同様に接着剤により付着しているのであって、これらの事実を対比考察すると、アメリカ文化センター事件のピース缶爆弾も、当初、缶体と缶蓋とを接着剤で接着した時点においては帯状包装紙が存在し、その上から更にガムテープが巻かれたのであり、その際、包装紙の断片が缶蓋裏内側に付着したのであるが、のちに改造のため、右ガムテープがはがされた際、あわせて右帯状包装紙もはがされてしまったものと解して差支えないと思われること。

ウ 八・九機事件のピース缶爆弾と同じく、アメリカ文化センター事件のピース缶爆弾も、缶体と缶蓋が黄色様接着剤で接着固定されており、両者の接着剤は、いずれもクロロプレンを主剤とした同種のものと認められること

以上である。

なお、改造の手順については、必ずしも明らかではないが、缶体と缶蓋の接着剤が前記のとおり同一の種類であり(発見時、現に接着固定されていたと認められる。)、かつ、電気雷管を爆薬内に固定させるために雷管の管体に塗布された接着剤(ニトロセルロース系接着剤である。)及び缶蓋の円孔部分に同じく雷管を固定するため塗布された接着剤(ポリ酢酸ビニール系接着剤である。)のいずれとも種類が異なっていることに照らすと、既に接着されていた缶体と缶蓋はそのままとし、装着されていた導火線付工業用雷管だけを缶蓋の円孔から抜き取り、その後管体に接着剤を塗布した電気雷管を、右のように工業用雷管を抜き去った跡に、右円孔を通して挿入した蓋然性が高く、従って塩素酸カリウムと砂糖の混合物は改造前から添加されていたと解すべきもののように思われる。

この点に関し、弁護人らは塩素酸カリウムが添加されていることが明らかな爆弾はアメリカ文化センター事件のものだけであることを根拠に、塩素酸カリウムと砂糖の混合物も改造の際加えられたものとみるべきであると主張するが(最終弁論七八三三八〇五)、仮に弁護人の推論に従うと、接着剤により接着されている缶蓋を一旦缶体から離し、ニトロセルロース系の接着剤を塗布した電気雷管を装着した後、塩素酸カリウムと砂糖の混合物を添加し、改めて缶蓋にクロロプレン系の接着剤を塗布して缶体と接着した上、缶蓋の円孔部分にポリ酢酸ビニール系の接着剤を塗布した(もっとも円孔部分への塗布は接着剤の種類からみてダンボール箱収納時ないしそれに近接した時点である可能性が強い。)という甚だまわりくどいことになるのであって、接着剤(とくに電気雷管の管体部と缶蓋について)を使い分けるべき合理的理由が見出せないことを考えると、弁護人らの右主張は、留意すべき点を含むものの、直ちには左袒し難いものがある。

二 本件発生の前後におけるL研の活動状況等

関係証拠によれば、昭和四四年四月ころのL研結成以来、本件発生の前後にわたるL研の活動状況及びその後昭和四五年中ころに至るまでの被告人らの行動の概要は、次のとおりである。

なお、この間の経緯に関し、被告人らが当公判廷で述べるところには、細部において若干互に喰い違う点もあるが、以下に判示する限度では特段の相違がなく、検察官の主張も、事実評価で差がある(たとえば被告人らはL研を単なるサークルといい、検察官は過激派集団というなど)のは格別、客観的事実経過としては争いがないものと解される。

1  はじまり

L研は、昭和四四年四月共産同同盟員であった増渕及びその下部組織である社学同同盟員であった村松が、法政大学に入学して間もなく、中心となって結成した思想研究会であるが、実質的には社学同法大支部という面を有していた。当初のメンバーは増渕、村松の外、国井、今井誠、菱沼某、石井らであったが、その後、井上、佐古、前原、菊井、峰孝一らが加入し、さらに増渕との関係で、堀、前林、江口らも出入りするようになった。他方、平野は、当時東薬大の学生であり、同年春ころ増渕と知り合い、同年四月には増渕の助言も得て同大学内に社研を組織し、その責任者となったが、増渕は右社研に対する指導を通じて、平野を含め、社研メンバーである内藤、町田敏之、石本武司、高野一夫、元山貴美子、富岡晴代らにも影響力を及ぼすようになっていった。

L研は、そのころ、法大全共闘による法大封鎖占拠に加わっていたが、増渕は、同年八月の千葉県興津海岸におけるL研合宿等を通じ、革命の必要性を説き、今後の闘争は、いわゆる大衆カンパニア闘争方式を乗り越えた武装闘争が必要であると主張し、L研メンバーの意志統一を図っていった。

その過程において、L研は、同年八月下旬ころ、法大全共闘からの依頼に応じ、機動隊の学内への導入に備え、触発性の火炎瓶数十本を製造するとともに、同年九月ころには、その後の闘争の便宜のために、河田町アジト、若松町アジト、早稲田アジトを設定した。

なお、そのころ、増渕は法大内において、江口に対し、いわゆる爆弾教本である「薔薇の詩」、火薬関係の専門書等を手交し、研究しておくように指示している。

2  赤軍派への接近

その後、L研は、法大内における社学同右派(叛旗派)等との内ゲバで法大を追われ、早大、立大へと順次その拠点を移していったが、その過程において、同年九月共産同関西派が独立し、新たに結成した過激派武闘集団である共産同赤軍派の主張する「前段階武装蜂起」論に共鳴するようになり、同年九月三〇日のいわゆる神田戦争、同年一〇月九日の巣鴨駅前派出所及び池袋警察署に対する襲撃未遂事件、同年一〇月二一日のいわゆる一〇・二一闘争において、「東京戦争」を呼号する共産同赤軍派と共闘するようになった(もっとも、この点については、井上のように、既に同年一〇月九日ころにはL研は解体しており、以後の赤軍派との行動は、L研メンバーの赤軍派との個人的つながりで参加していたに過ぎないと主張する者もおり、そのような見方も成り立たないわけではない。)。

3  赤軍派との共闘

L研と赤軍派との共闘の具体的事実は次のとおりである。

(一) 神田戦争(日大奪還闘争)

昭和四四年九月三〇日、千代田区神田駿河台周辺における日大全共闘を主体とする日大法、経済学部奪還闘争に際し、赤軍派は神田戦争を呼号し、ゲリラ活動を計画し、L研もこれに同調して参加したが、その詳細は不明である。

なお、当日、村松及び前原は、早大に赴き、早大ブントの者らと神田戦争に呼応する形でのゲリラ活動を企図し、八・九機に対する火炎瓶による攻撃を計画し、村松が八・九機周辺を自転車で下見するなどしたが、結局これを断念している。

(二) 巣鴨駅前派出所及び池袋警察署襲撃未遂

同年一〇月九日、赤軍派では、当時全共闘が計画していた羽田闘争二周年一〇・一〇闘争に先立ち、武装蜂起に突入することを企て、東京都内各地の警察署、派出所等への襲撃を計画し、L研もこれに同調して、巣鴨駅前の喫茶店に赤軍派の者ともども参集し、同駅前派出所への火炎瓶による攻撃を企図したが、警戒が厳しかったため、池袋警察署を攻撃することに変更し、その夜池袋周辺に赴いたけれども、赤軍派の者と共に火炎瓶を都内に搬入しようとした今井誠が水戸駅で逮捕されたため、結局襲撃は未遂に終わった。

(三) 一〇・二〇東薬大火炎瓶製造

同月二〇日、東薬大一一番教室において、増渕らL研メンバー数人と東薬大社研メンバーが、翌二一日の「一〇・二一闘争」に赤軍派が使用する武器として、触発性の火炎瓶七、八〇本を製造した。

(四) 一〇・二〇トラツク窃盗

同月二〇日夜、増渕の指示により、佐古、村松及び菊井が赤軍派の花園紀男(当時、現在は前之園と改姓)と共に、佐古運転のレンタカーで三多摩方面に向かい、同日から翌二一日未明にかけて一〇・二一闘争に用いる小型トラック一台を日野市付近で窃取した。

(五) 一〇・二一東薬大鉄パイプ爆弾製造幇助

同月二一日、赤軍派は、東薬大一一番教室において、当日の闘争用の鉄パイプ爆弾を製造したが、この日、平野は、増渕の指示により、同教室を赤軍派のために確保し、さらに爆弾を製造すると知って(当初から爆弾製造を認識していたとは認められない。)、社研メンバーの石本、富岡及び元山に見張りを命じるなど種々便宜を供与した。

(六) 一〇・二一淀橋署襲撃等

同月二一日午後一〇時三〇分過ぎころ、東薬大周辺において、赤軍派の者十数名が火炎瓶、ピース缶爆弾等を準備して、小型トラック(前記(四)のとおり佐古らにおいて窃取したものである。)に乗りこみ、淀橋警察署に向かったが(その後の状況については前記中野坂上事件についての一3(二)参照)、右トラックは佐古が増渕の説得を受けて運転していたものであり、井上も右トラック荷台に乗りこんでいた。当時、東薬大周辺には、右の者らの外に村松、平野、堀らも居合わせた。

(七) 柏ダンプカー窃盗

同月三一日夜から翌一一月一日にかけて、村松及び菊井は、赤軍派の花園の指示により、赤軍派の者らとともに、同派の首相官邸突入用のダンプカー窃盗に向かい、村松らは千葉県柏市内において、ダンプカー一台を窃取した。

4  本件発生後における被告人らの行動等

その後、同年末から翌四五年にかけて、増渕、村松、佐古、平野らは赤軍派に加入したが、増渕は同年六月ころ、佐古に対し、爆弾の製造方法を赤軍派の幹部に教示する旨発言し、そのころ、東京都世田谷区所在の梅津宜民方で、赤軍派の坂東国男、森某らとともに硝火綿を作る実験を行い、雷汞の製造を図っている。

三 本件捜査経過の概要と自白の状況

1  捜査

関係証拠によれば、本件捜査の経過、特にその端緒及び発展、その間における被告人ら及び共犯者とされる者らの身柄拘束の経緯は、大要、次のとおりである。

(一) 窃盗事件

増渕は、昭和四四年一〇月二一日のいわゆる一〇・二一闘争に関連し、東薬大において、平野に対し、火炎瓶材料である塩素酸カリウム等を手渡すなどしたとして毒物及び劇物取締法違反等に問われ、昭和四五年一月ころから指名手配となって潜伏生活を続けていたが、昭和四七年八月二七日、同人とつきあいのあったいわゆる牛乳屋グループの一員である石田茂が東京都西多摩郡檜原村所在の火薬庫に侵入しようとして逮捕され、同人の供述により所在が判明した結果、同年九月一〇日、新宿署に逮捕された。その後、増渕の逃走を助けたとして、右石田や江口その他の者らが警視庁公安部極左暴力取締本部の堀内班(堀内英治公安部管理官指揮)により次々と犯人隠避で逮捕されるなどするうち、牛乳屋グループの佐藤安雄の供述から増渕らL研によるいわゆる法大図書窃盗事件(第一部判示第一の事実)が発覚し、同年一〇月二五日増渕が逮捕されたことを皮切りに、同月二九日には村松が、同年一一月三日には佐古が、それぞれ同容疑で逮捕された(同窃盗事件ではその後、昭和四八年一月八日前原が、同年二月九日井上が、それぞれ逮捕されている。なお、村松は昭和四七年一一月一八日、佐古は同月二四日、増渕は同年一二月四日、井上は昭和四八年二月一九日、それぞれ同窃盗事件で起訴されたが、前原については起訴猶予とされた。)。その後、同本部では、右の取調中に判明した東経堂団地、西経堂団地のタイヤ窃盗(第一部判示第二の各事実)、法大生協関係の窃盗、青梅のブルーバード窃盗、立大ホテル研究会の金庫窃盗等一連の窃盗事件について取調を続け、そのうちタイヤ窃盗について増渕が昭和四七年一二月四日、佐古及び村松が同月二七日、それぞれ起訴されるに至った。

(二) アメリカ文化センター事件

ところで、捜査本部としては、東薬大事件における増渕の役割あるいは前記石田らに対する増渕の闘争指導の内容等から、同人には爆弾志向があるものと認め、現実にも何らかの爆弾事件に関与しているのではないかとの疑いを深めていたが、同年一一月一七日、佐古から、昭和四四年一〇月二一日夜、淀橋署襲撃の帰途、中野坂上でピース缶爆弾二個を一緒に逃げていた二、三人の男から受け取り、間もなく側溝に棄てた旨の供述を得、さらに昭和四七年一二月一一日には、右事件後一〇日くらいして、アメリカ領事館(同月一四日にアメリカ文化センターと訂正)に増渕、村松らと爆弾を仕掛かけた旨の供述を得るに至った。しかし、年末を控え、佐古及び村松は同月二八日保釈された(増渕は同月四日既に釈放されていた。)。

昭和四八年一月八日に至り、同本部は佐古をアメリカ文化センター事件であらためて逮捕し、同月一六日同人から前原も関与している旨の供述を得て、翌一七日前原を、さらに同月二二日増渕及び村松を、それぞれ同事件で逮捕し、いずれも勾留の上取調を進め、同月二九日佐古が、同年二月八日前原が、同月一二日増渕及び村松が、それぞれ同事件につき起訴されるに至った(江口も同事件に関連して同月二〇日爆発物取締罰則三条違反の容疑で逮捕されたが、起訴猶予となっている。)。

(三) 八・九機事件

一方、八・九機事件については、同年一月一七日、前記のとおり勾留中の佐古が、前原からこの事件に関係した旨聞いたとの供述をしたことから、同本部は同様勾留中の前原を取調べ、その自白を得た上、同年二月一二日その共犯者として増渕、村松及び堀を逮捕し、内藤については同年一月段階から任意取調をした上、同年二月一七日同事件で逮捕し、さらに井上を同月一九日同事件で逮捕し、いずれも勾留の上取調を進め、同年三月六日増渕、村松及び堀が、同月一〇日前原、井上及び内藤が、それぞれ同事件につき起訴されるに至った。

(四) ピース缶爆弾製造事件

ピース缶爆弾製造事件については、同年二月一二日ころ前記のとおり勾留中の佐古及び増渕が自白したことから、同本部はその共犯者として、同年三月一三日前林、堀、江口及び石井を、同月一四日増渕を、同月二五日平野を、順次逮捕し、勾留の上取調を進め、同年四月三日石井が、同月四日増渕、前林、堀、江口、井上が、同月一四日平野が、同月一八日佐古、前原、村松及び内藤が、それぞれ同事件につき起訴されるに至った。

以上のうち、村松、井上、平野、前原にかかる事件が本件である。

2  自白

既に述べたとおり、平野及び井上は、本件捜査における取調に対し、終始犯行を否認し、公判廷においてもその態度を貫いているが、村松、前原をはじめ、本件の共犯者とされる者らの多くは、精粗繁簡の別こそあれ、捜査段階で自白をし、一部の者は、公判段階においてもその自白を維持したのである。その具体的状況の概要は次のとおりである。

(一) アメリカ文化センター事件については、佐古、前原、村松及び増渕の捜査段階における各自白がある。

(二) 八・九機事件については、前原、村松、内藤及び増渕の捜査段階における各自白のほか、当庁刑事八部(以下「当庁刑事」を省略する。他の部についても同様である。)第一回及び第三回各公判調書中の内藤の供述記載(自白)がある。

(三) ピース缶爆弾製造事件については、佐古、前原、村松、内藤、石井、増渕及び江口の捜査段階における各自白のほか、第九四回ないし第一〇一回及び第一五六回各公判における証人菊井の供述、九部の証人菊井に対する尋問調書(以上いずれも自白)、八部第一回及び第三回各公判調書中の内藤の供述記載(自白)及び二部第七回公判調書中の石井の供述記載(自白)がある。

(四) なお、内藤は、八部における同人に対する八・九機事件及びピース缶爆弾製造事件の審理に際し、後には否認に転じたものの当初自白をしていたのであり(右(二)及び(三)に掲げた各自白がそれである。)同人については、昭和五三年一二月、右各事件につき、有罪の判決(懲役三年六月)が確定している(東京地裁昭和四八年一〇月二三日判決、東京高裁昭和四九年一〇月二四日判決、最高裁昭和五一年三月一六日判決、東京高裁昭和五三年三月一七日判決、最高裁昭和五三年一二月一二日決定二六三五一、二六三六一、二六三七四、二六三八〇、二六三九四)。

また、石井は、二部における同女に対するピース缶爆弾製造事件の審理に際し、終始自白しており(右(三)に掲げた自白がそれである。)、同人については昭和四九年四月同事件につき有罪が確定している(東京地裁昭和四九年三月一九日判決二六三四六)。

第五章当裁判所の判断(その二)

―公訴事実総説―

当裁判所は、第二部一「まえがき」において略述したとおり、本件各公訴事実につき、被告人らはいずれも無罪であるとの結論に達したのであるが、詳論に先立ち、その判断において考慮した主要な点を概観する。

被告人らが、本件発生の前後にわたり、L研を中心として活発な活動をしていたことは、前記第四章二に認定したとおりであるが、当時のL研は、共産同理論に共鳴する思想的過激派集団となっていたと認められるばかりでなく、昭和四四年の一〇・二一闘争においては、そのころ最も過激と評価されていた共産同赤軍派と共闘しており、その共闘の内容も、赤軍派のため、闘争用の火炎瓶を製造し、鉄パイプ爆弾の製造場所として東薬大の一教室を提供し、あるいは淀橋警察署襲撃に使用する小型トラックを窃取、調達するなど、かなり実体のあるものであったとしなければならない。そして、このような共闘をした赤軍派は、右一〇・二一闘争において、現に中野坂上交差点付近でピース缶爆弾を使用しようとし、かつ、佐古、井上はその場に居合わせたのであり、更に増渕は同年九月ころ、いわゆる爆弾教本を江口に手交し、あるいは、昭和四五年六月ころ硝火綿を作る実験等を行うなどしているのであって、増渕とその周辺の者らには、昭和四四年から四五年にかけ、爆弾闘争志向があったと窺われなくもないのである(もっとも、右実験のころの増渕らの言動は、本件ピース缶爆弾事件発生後の事象であるから、これを過度に重視することができないこともちろんである。)。そして、このような事実は、見方によっては、被告人らが本件ピース缶爆弾事件のような爆弾闘争を敢行したり、あるいは、これに荷担する動機、背景を有していたとみても不自然でないような間接事実であると言うこともできよう。

けれども、本件の罪体に関する証拠を検討すると、前記「まえがき」でも触れたとおり、被告人らを本件各公訴事実の犯人であるとするに足りるような、決め手ともいうべき物的証拠や、第三者の決定的な供述等は存在しないし、右間接事実がこれらに代るだけの証明力を有しないことも多言を要しない。

その反面、第四章三において述べたとおり、被告人らを含む合計一一名の者が、本件の全部もしくは一部につき、その犯人として起訴されるに至っているが、そのうち、前原、村松を含む七名の者が、程度の差はあるにしても、捜査段階において、公訴事実に沿う自白をしており、内藤、石井に至っては、公判廷においてもその自白を維持している(もっとも内藤は後に否認に転じた。)。また、捜査段階では自白しなかった菊井は、後に証人として出廷し、自白をしている。そして、これらの自白は膨大な量に達し、多くはその内容が詳細かつ具体的であるばかりか、大筋において相互に一致するように見える。しかも、検察官が強調するように、自白した者の大半は高等教育を受け、また就業するなど社会生活の経験を有し、年齢は、取調当時、いずれも二〇歳代の半ばには達していたのであるから、本件のような爆弾関係事犯への加功を自白した場合の影響については十分に認識していたものと考えて差支えないと思われる。

従って、これらの自白は信用するに足り、これに依拠して事実を認定し、被告人らを有罪とするに妨げはないかの如くである。

しかしながら、これら自白の信用性をつぶさに検討すると、その内容において、厳密な意味でのいわゆる「秘密の暴露」にあたる事項を含むものはなく(検察官がこれにあたると主張する事項もいくつかあるが、後に指摘するとおり、いずれもそのように解することはできない。)、また、これら自白の中には、中間的自白、最終的自白を問わず、客観的証拠あるいは他の証拠から確認される客観的事実と矛盾する内容のものが相当程度見受けられるほか、不自然、不合理と考えざるを得ない内容のものも少なくない。また、真犯人であれば当然言及して然るべき事項について供述していない点や、重要部分について供述の変遷、動揺がみられるものも多く、自白相互の矛盾、撞着も存するなど自白の信用性を否定する方向に働く諸事情が余りにも数多く見受けられるのである。もとより、本件は、事件後三年余が経過した時点で捜査機関による取調がなされたものであり、時日の経過による記憶の希薄化、消失、ないし変容が当然考えられ、また真犯人が自白する場合であっても、捜査の攪乱のため、あるいは将来の裁判における否認のため、あるいは自己の刑責を軽減するため、故意に真相を秘匿し、あるいはことさらに真実と虚偽事実を混入して供述することがあることは言うまでもなく、これらの点をも念頭に置いた上、その信用性を判断すべきものであるのは多言を要しないが、これらの諸点を考慮しても、本件自白にみられる信用性を否定する方向に働く諸事情が後に詳述するように多岐にわたり、かつ、その内容等も決して些末でなく、自白内容の主要な部分にわたるものであることを考えると、本件自白はいずれもその信用性に多大の疑問を容れるものとしなければならない。

以下、本件捜査進展の順序に従い、アメリカ文化センター事件、八・九機事件、ピース缶爆弾製造事件の順で判断を示す。

第六章当裁判所の判断(その三)

―アメリカ文化センター事件―

一 はじめに

1  自白の存在

アメリカ文化センター事件(以下本章において単に「本件」ということがある。)については、前原、佐古、増渕、村松の捜査段階における各自白があるほか、菊井の公判供述中に、同人が前原から犯行に荷担した旨の発言(以下において「前原文化センター発言」ということがある。)を聞いたとする部分がある。

右各自白のうち、増渕及び村松の各自白は、その供述経過、供述内容等に照らし、後記三及び四において説くように、その信用性に多大の疑問があることは容易に看取でき、そのことは検察官も論告(論告要旨二二三三五三〇)において指摘するところである。しかし、佐古及び前原の各自白は、その内容が具体的かつ詳細で、特に直接関与したとするダンボール箱製造の状況や、ダンボール箱への爆弾の収納状況等については、相互にほぼ符合しているほか、供述経過等をめぐり、その信用性を肯定すべきものとするように思われるいくつもの状況が認められる反面、疑問点も少なからず存するのであって、信用性の評価にあたっては慎重な吟味を要するところである。

そこでまず、捜査段階において各自白のなされた経過を概観し、ついで各自白の信用性及び前原文化センター発言に関する菊井供述の信用性並びに弁護人主張にかかるいわゆる「前原アリバイ」について逐次検討する。

2  自白の概況

前原ら四名の捜査段階におけるアメリカ文化センター事件に関する供述経過の主要な節目を示すと、次のとおりである。

日時(昭和年月日)  供述の主体と概要

47・12・11 佐古 アメリカ領事館にダンボール箱入りの爆弾を仕掛けた旨自白(共犯者増渕、村松、坂東)(当時法大図書窃盗事件で勾留中)

12・14 佐古 爆弾設置場所をアメリカ文化センターと訂正、爆弾は中野から持ち込まれた旨供述

12・28 佐古 ダンボール箱の製造、割りばしによる箱の補強を自白(同日窃盗事件につき保釈釈放。調書作成されず)

48・1・8(佐古 アメリカ文化センター事件で逮捕)

1・9 佐古 アメリカ文化センター事件について否認

1・15 佐古 再自白

1・16 佐古 ダンボール箱製造に対する前原の関与、増渕との下見を自白(共犯者増渕、村松、不詳者となる。)

前原 ダンボール箱の製造、乾電池と電気雷管の接続を自白し、佐古らによる44・10・21夜の河田町アジトへのピース缶爆弾二個の持ち帰りを供述

1・17(前原 アメリカ文化センター事件で逮捕)

佐古 44・10・21の夜河田町アジトへのピース缶爆弾二個の持ち帰りを供述

1・18 佐古 爆弾は江口方から持ち出すと訂正

1・19 佐古 いわゆるシャンネル・プランタン会談を供述

前原 村松のタイマーへのいたずら書き自白

1・22(増渕、村松 アメリカ文化センター事件で逮捕)

増渕 否認

村松 否認

1・24 佐古 ダンボール箱の模造品の製造を実演、側面一枚切り落としを供述

前原 乾電池の結線の状況実演

1・25 佐古 爆弾は中野から持ちこまれた旨訂正

1・29(佐古 アメリカ文化センター事件で起訴)

佐古 前原から村松との下見の状況を聞いた旨供述

前原 村松との下見を自白

2・8(前原 アメリカ文化センター事件で起訴)

2・10 増渕 アメリカ文化センター事件を村松に指示した旨自白

2・12(増渕、村松 アメリカ文化センター事件で起訴)

2・13 村松 自白

2・15 佐古 爆弾を江口方から持ち出した旨訂正

3・1 増渕 自白

二 佐古及び前原の各自白

佐古及び前原の各自白は、その供述経過がおおむね円滑であって、取調には速かに応じ、関連があると思われる事項を進んで供述した様子が窺われ、これを虚偽の自白であるとする同人らの公判廷供述には、たやすく信じ難い点が見られるなど、その信用性を肯定すべきものとする方向に働く状況も存するのであるが、他面、これとは逆に働く疑問点も数多い。以下に見るとおりである。

1  自白の状況と公判段階の弁解等

(一) 自白の状況

関係証拠によれば、佐古自白のなされた状況について、次のような事実が認められる。すなわち、

(1) 佐古は、昭和四七年一二月上旬ころから頭を坊主刈りにして心境の変化を示す態度を明らかにしていたところ、同月一一日、取調官の食事休憩中に身柄戒護のためたまたま同席していた多田巡査部長と雑談を交わしていた際、進んで、アメ帝の建物(同日更に好永巡査部長にアメリカ領事館と供述し、同月一四日にアメリカ文化センターと訂正)に爆弾を仕掛けに行く車の運転をした旨、自白したが、これは、他の共犯者とされる者らの誰よりも先になされた供述であること

(2) 佐古は、翌昭和四八年一月八日、アメリカ文化センター事件で逮捕されてから、しばらく否認していたけれども、同月一五日再自白してのちは、捜査段階を通じ、一貫して自白を維持していること

である。

また、前原自白については、関係証拠により、

(3) 前原は、法大図書窃盗事件で勾留中の昭和四八年一月一六日午後七時ころ、佐古が同日アメリカ文化センター事件のダンボール箱製造について前原の関与を供述したことに基づき、堀内管理官の指示を受けた高橋警部補から初めて同事件につき取調べられたところ、当夜のうちに、同事件に対する関与を認め、ダンボール箱製造に止まらず、乾電池と電気雷管の結線をした事実をも進んで自白し、以後捜査段階においては一貫して自白を維持していること

(4) 前原は、昭和四八年六月三〇日付けの菊井良治宛の手紙(符四二)の中で、「ボクは、アメ文についてのごく一部、アメ文に使われたタイマーと乾電池を見たということを思い出した。これもマズかった」と述べているところ、右の記載は、真犯人が取調官に事実を供述したことを反省する心理状態を表わし、右自白の自発性及び真実性を示すもののように解されること

(5) 前原は、爆弾事件に比べ、比較的軽微な事件である法大図書窃盗事件については終始否認しているのに、アメリカ文化センター事件については簡単に自白していること

が認められる。

(二) 公判段階の弁解

これに対し、両名は、公判段階において、要旨、次のような弁解をする。

まず、佐古は、右一二月一一日の自白は、記憶がよみがえったためにしたのではなく、そのようなことに関与した記憶はなかったのであるが、当時、取調官は自分の知らないことまで知っており、自白により自分が有利になるよう配慮してくれていると信頼していたところから、取調官にお前たちがこの事件をやっているといわれると、そうかなという気になり、自分が真犯人なら、知らないうちに利用されたのであって、そのため記憶がないのであろうと思い、問われるままに認めたものである、と言うのである(五三回佐古供述⑳五八二二等。なお一〇八回同③四一六参照)。

また、前原は、当時、取調べにはまじめに誠実な対応をすべきであり、取調官にはそのような態度を示さなければならないと考えており、問われたことに対しては、明確な記憶がなくても何かを認めなければ、という気持であったが、一月一六日の夜も、何かを思い出そう、イメージしようと考えているうち、高校三年のころ、ラジオに使うため、乾電池にコードをはんだ付けしたことを思い出し、更に村松から時計のようなものを見せられた漠然たる記憶もあったので、そのことをいうと、これらが結びつけられて時限装置の自白となった、などと述べる(六七回前原供述七七九八、七八〇一、七八二二等)。

しかし、このような弁解は、爆弾事件という極めて非日常的な特異な体験の自白に関するものであることを考えると、一般的には、いかにも不合理かつ不自然で、信用し難いもののように見受けられる。

以上の事実に加え、増渕及び村松も結論的にはアメリカ文化センター事件への関与を認めていることを考えると、少なくとも佐古及び前原の自白については、その信用性を肯定してもよいように一応思われる。

(三) 「アメリカ領事館」

なお、弁護人は、右佐古供述に関する(一)(1)の点について、「捜査官は、佐古を、本件ピース缶爆弾事件の犯人であるとの誤った見込みのもとに、窃盗事件で逮捕、匂留した上、ピース缶爆弾事件について徹底的な追及を行い、脅迫、誘導等の違法、不当な取調べを続け、アメリカ文化センター事件の自白をさせたものである」と主張し、佐古も公判段階に至っては、右弁護人の主張に沿う供述をした上、爆弾の仕掛け先が「アメリカ領事館」と録取された経緯について、「供述調書をとる段階になって、取調官である好永が、思い出したように『アメリカ文化センターというのはあれは正確な言い方はアメリカ領事館と言ったんだったな。正確な言い方の方がいいだろう』という言い方で訂正してしまった」旨供述する(五五回佐古供述六〇六九等)。しかしながら、取調官である好永巡査部長がアメリカ文化センターについて、これをことさらにアメリカ領事館として誤導する必要性は全く存しなかったはずである。かえってこの点に関し、証人好永が「アメリカ文化センター事件というのは当時忘れてしまっており、佐古が虎の門方面のアメ帝の建物に爆弾を仕掛けに行ったが、仕掛けた建物の名前がわからない旨供述したので、記憶喚起のため、その付近のアメリカに関係する建物の名前を五、六か所挙げて佐古に尋ねたところ、同人がアメリカ領事館の印象が強いと述べたのでその旨供述を録取した。アメリカ文化センターというのは知らなかったのでその名称は挙げていない」旨供述するところは(九部二〇〇回、二〇一回好永証言二〇一四七、二〇三八七、二〇三九四、一二三回同二二六一五等)、合理的かつ自然であって措信できるというべきである。更に、関係各証拠によると、当時捜査当局は、石田茂の「増渕から爆弾材料の残りとしてピース缶の空き缶をもらった」などの昭和四七年九月段階での供述(六部一五回小林証言三三六一八)、佐古47・11・17員面の「一〇月二一日中野坂上から逃走する際、逃走中のグループからピース缶爆弾二個を受けとったが近くの側溝に捨てた」旨の供述、あるいは佐古47・11・18メモ通し丁数八の記載内容(村松からピース缶爆弾を作った旨聞いたなど)により、増渕らL研グループにピース缶爆弾事件に関しある程度の嫌疑を抱いていたことは推認されるけれども(なお、増渕に対する取調状況を記載した(員)坂口清48・2・8取報二三五五一、二三五五三には、増渕がアメリカ文化センター事件について「去年だって西宮がやったと前田か誰かに聞いたからそのまま正直に話した」と供述していた旨の記載があり、このことは、増渕が既に昭和四七年段階で((増渕は前記第四章三1(一)のとおり、同年一二月四日保釈されているので、従って、佐古のアメリカ文化センター自白前に))アメリカ文化センター事件について追及を受けていたことを推認させるものである。)、アメリカ文化センター事件について、それ以上に具体的な嫌疑をもつに足りるような証拠の収集がなされていたとは認め難い。そのほか、弁護人らが、佐古の右供述を裏づけるものとして、佐古47・12・11メモ通し丁数四七裏に「アメリカ文化センターに仕掛けられた」旨の記載があることを指摘するが、右の記載は、前記メモの末尾に位置し、同記載の直前の記載では「アメ帝の建物」となっていること等に照らすと、好永が供述するように(九部二〇一回好永証言二〇三九四、一二三回同二二六一二等)、後日(好永証言によれば昭和四七年一二月二七日ころ)、佐古が書き足したものと認めるのが相当であり、佐古の前記供述を裏付けるものとは言い難いばかりでなく、むしろ、「アメ帝の建物」とその直前に記載されていることは「アメリカ領事館」と録取された経緯についての前記好永証言を裏付けるものであるというべきであろう。

2  考察

しかしながら、更に子細に検討すると、佐古及び前原の各自白は、厳密な意味でのいわゆる「秘密の暴露」にあたる事項を含まず、かえって、以下に述べるとおり、供述内容に客観的証拠あるいは他の証拠から確認される客観的事実との不一致や不自然、不合理な点がいくつも含まれているほか、供述経過にも不自然な自白の変遷や動揺が見られるなど、自白の信用性を否定ないし減殺する方向に働く事情が数多く存在するのである。

(一) 証拠物との関係

(1) ダンボール箱の製造状況

ア 自白の内容

佐古及び前原のダンボール箱製造についての自白の内容は、要旨、「一〇月二九日河田町アジトにおいて、増渕から指示され、近くのパン屋から大型ダンボール箱二個を入手し、そのダンボール箱の一隅を利用し(前原は一隅を利用とは明確には供述しない。)、はさみ(佐古は日本ばさみとする。)で切断し、ボンド、ガムテープ、真鍮色の針の大型ホチキス等を使用して手製の蓋付きダンボール箱一個を製造し、箱の内面底部に割りばしを十文字に組んだものを貼りつけて補強した」というものであり、まことに具体的かつ詳細で、一見細部にまでわたって証拠物と一致するように見受けられるのであって、直接体験したものでなければ述べられないような供述内容といってもよい。

イ 証拠物との不一致

しかしながら、本件ダンボール箱は、すでに認定(第四章一2(二)(3))したように既製のダンボール箱(日本工業規格JISZ一五〇七に定められたB―1形)の一側面を何らかの理由で切り取り、その後において右切り取った側面あるいは他のダンボール箱を利用して同じ大きさに作成したダンボール紙を切り取った場所にあてガムテープで補強して箱としたもので、大型ダンボール箱の一隅を利用して作った手製のものではなく、この点において、佐古、前原の各自白は明らかに事実に反すると言わざるを得ない。

ウ 検察官の主張に対する判断

右の点に関し、検察官は次のとおり主張する。

(ア) 側面切り落とし

佐古が、昭和四八年一月二四日、警察において証拠物の呈示を受けた際、「現物をみて思い出したが、文字のある部分をさけるため、側面一枚分にも文字があったので切り落とし、継ぎ足して作った」と供述(佐古48・1・14Ⅲ員面)しているところは、証拠物の状況と符合しているところ、本件ダンボール箱は各稜をガムテープなどで補強してあるため、一見しただけでは一側面をつぎ足してあるなどとは到底見分けられず、現に当時捜査官は誰も気づかないでいたのであり、誘導などなし得ない事実であって、「秘密の暴露」にあたる。佐古、前原の「大きなダンボール箱の隅を利用する形で切り取って、爆弾収納用の箱を作った」旨の自白は事実と相違する点があるけれども、これは年月の経過による記憶の希薄化、混同によるものと認められ、必ずしも奇異ではない(論告要旨一五九三三五九九、意見書四八一四五四一)。

(イ) 平線

本件ダンボール箱に打ちこんである平線は、当初右ダンボール箱が工場で生産された際にステッチャーにより打ちこまれたものと考えられ、いわゆる「ホチキス」の針ではなく、この点についての佐古、前原の自供は事実と相違しているが、これもやはり佐古、前原らの記憶の混同であり、推察すれば被告人らは何個か箱を製造し、あるいは製造しようとし、その際ホチキスを用いたこともあったので記憶が混同したのではないかと思われるのであって、偶々実際に本件に使用したダンボール箱の製造にはホチキスを使用しなかっただけだと考えられる。重視すべきは、前原が「針は赤っぽい色でふつうのものより一廻り大きかった」(前原48・1・26員面)、佐古が「針はしんちゅう色」「佐古48・1・17員面)と供述していることである。また、前原は、昭和四八年一月一七日アメリカ文化センター事件の逮捕前の段階でダンボール箱作成を自供し、図面を作成しているが、その図面では箱の側面部分の針の打ち方が縦になっており、疑問を抱いた取調官から念を押されたのに、前原は供述を変えようとせず、この点については自己の記憶に自信を持っていたことが窺われる。これらの事実は前原らが自分たちで打ったかどうかは別としてダンボール箱にそのような針がそのような形で打たれているのを見たことを示している(意見書五三一四五四四)。

以上である。

しかし、検察官の右(ア)の主張については、佐古の前記供述は、これを素直に読めば、大型のダンボール箱の一隅を利用したものというのが大前提になっているのであり、その意味で検察官の前記主張は自説に都合の良い点のみをことさらにとり上げて論じていることに帰する難点がある。更に、佐古の右供述は証拠物の呈示を受けてなされたものであるが、真実本件ダンボール箱の改造に関与しているのであれば、側面一枚の切り落としとともに、既製のダンボール箱を利用したことをも併せ想起すべきであるのに、かえって、佐古は、呈示を受け、「もとのダンボール箱の一隅を使用し、切り開いて展開した形も記憶と現物が一致する」と述べているのであって、その供述内容は不自然としか言いようがなく単なる記憶の希薄化、混同によるものとはいえない。また、既製のダンボール箱を使用したことだけをことさらに秘匿したものと解することも、そもそも「秘密の暴露」となりかねない側面一枚の切り落としを供述するその態度と相容れず、無理と思われる。したがって、右「側面一枚切り落とし」の供述のみを取り上げて、これを「秘密の暴露」にあたるとする検察官の主張には難点があり、首肯できない。

更に、(イ)の主張についても、佐古ないし前原が自ら平線を打ちこんだのであれば格別、ダンボール箱の平線の色、形状、位置のように、通常何らの注意も払われず、看過されるような細かい点だけが記憶に残っていること自体不自然である(特に前原においては、ダンボール箱を目撃したのは、ダンボール箱を製造し、爆弾を箱内に収納した日だけであり、しかも箱製造の主体は佐古であったということを考えると更に疑問は強まる。)。

検察官は、前記のとおり、「大型ホチキスを使用した」旨の供述については、記憶の混同を生じたのではないかと主張するが、佐古らが何個か箱を製造し、あるいは製造しようとしたとの前提は、単なる憶測に過ぎず、証拠上そのような事実を推認させるものは皆無であるばかりか、佐古、前原の両名が揃って大型ホチキスで打ちこんだものと記憶を混同するに至ったというのもいかにも不自然であって、その主張にも左袒し難い。

エ 自白の要因

ところで、何故右のような真実に反すると解すべき自白がなされたのであろうか。この点について考えてみると、証拠品となっている本件ダンボール箱は、発見直後、事件現場において、警視庁鑑識課員によって開披された際、箱の四隅が縦に切断されており(一四回德永勲証言⑦一四七一)、かつ、ガムテープがおおむね各稜に貼付されている状況が看取されるため、一見、手製のダンボール箱の如き印象を与えるものであるが、佐古及び前原の取調べ当時も同様な状態にあったと解され、これを見た本件取調官らが手製のものと誤解したとしても何ら不思議ではなく、佐古及び前原が符節を合わせるように結果的に虚偽の事実を内容とする前記のような供述をしていること(なお、増渕も、佐古及び前原の自白の後に、取調官の高橋警部補に対し、八・九機への攻撃後、佐古に命じてアジトにあったダンボール箱を小さく作り直させ、ピース缶爆弾が入るくらいの物を作らせた旨、供述した模様であり(((員)坂口清48・2・23取報添付の坂口作成のメモ二三五七五。(員)坂口清48・2・26取報添付のメモにもほぼ同旨の供述がなされたことを窺わせる記載がある。二三五八三、二三五八四))、あるいは前原に対し、八・九機への攻撃後、爆弾、時限装置の入れ物を作るよう指示し、ダンボール箱の入れ物ができた旨の供述をしている。48・3・1員面)は、むしろ、これらの自白は、右証拠物を見た取調官の印象に基づいて佐古が追及され、その旨の自白がなされた後、これを前提として前原にも(また、更に増渕にも)同様の追及がなされた結果、これに迎合する形で得られたのではないかという疑いを抱かせるものである。なお、佐古は、右の点に関連して、公判廷で、昭和四七年一二月二八日取調官から手製のダンボール箱であることを前提に、具体的にヒントを出される形で誘導されたと供述しているのであるが(五八回佐古供述六四五四等)、右に検討したところによれば、右弁解を一概に虚偽のものとして排斥することはできないように思われる。

オ まとめ

いずれにせよ、前記のとおり、まことに具体的かつ詳細で、直接体験した者でなければ供述しえないかのような迫真性をもった外観を呈する右ダンボール箱の製造状況に関する供述が、虚偽としか判断し得ないものであることは、本件佐古及び前原の各自白の信用性を考えるにあたって強く認識しておかねばならない点である。

(2) 収納状況

ア 自白の内容

佐古及び前原は、ダンボール箱を製造した後、増渕と共に、時限装置及び爆弾本体を右ダンボール箱に収納、固定したと自白するが、その供述内容は最終的にはそれぞれ次のとおりである。すなわち、佐古の供述は、要するに、

「ダンボール箱の底面に、箱を補強するため、十文字に組んだ割り箸をボンドで貼りつけ、上からガムテープで押えた上、時限装置とピース缶爆弾を箱内に入れたところ、ピース缶爆弾は、箸と箱の内壁に接する形でぴったり納まったので、爆弾を固定するためにも丁度よかったなと思った」

というものであり(佐古48・1・20検面、48・1・25検面等)、

前原の供述は、要するに、

「増渕か佐古の発案で、箱自体の補強と収納する爆弾や時限装置を固定しやすくするため、箱の底面に割り箸を十文字様にして入れ、ボンドとガムテープで固定した。箱ができ上がって三〇分くらい後に増渕が主になって爆弾等を収納した」

というものである(前原48・2・5検面、48・2・7検面等)。

イ 証拠物との不一致

しかしながら、既に認定(第四章一2(二)(4))したとおり、本件ダンボール箱の内側底面に十文字に組まれ、接着剤等で固定された割りばしは、箱自体の補強を目的としたものではなく、ピース缶爆弾本体と時限装置が分かれていることから、箱内部でのずれや移動を防ぎ、それらの位置をしっかりと固定するために用いられたものであることが明らかである。この点について、佐古は、昭和四七年一二月二八日以降割りばしを底面に貼りつけたことを供述しているものの、それらは箱自体の補強のためであると供述してきており(特に、佐古48・1・17員面に佐古自身が作成添付した図面には、収納状況として爆弾が割りばしの上にのっている図が記載されていることは注目してよい事実である。)、昭和四八年一月二四日証拠物の呈示を受けて、ようやく前記のような供述に至ったのであるが、それでもなお目的を取り違えた供述をしているのである。もとより、割りばしを貼りつけたことのみが記憶として残存し、その目的を忘失したという可能性も否定できないが、一方では、割りばしを貼りつけたのは佐古自身である旨供述しているのであって、佐古自身による作業であることを前提に考えると、右のような目的の忘失という点について不自然の感が残ることは否めない。

また、前原の前記自白も箱の補強を目的として挙げている点で不自然さが残るとともに、当初は割りばしについて何ら供述せず、その後、箱の底の部分の内側に何かを貼って補強したと述べ(目的が箱の補強であることに注意を要する。前原48・1・20検面)、48・2・3員面に至って、突然、供述変遷の理由を示すこともなく前記のような内容の自白(但し、ガムテープによる固定の点は更に後日の自白にかかる。)になるのであって、その供述の経緯からみて、前原の最終的な前記自白は、佐古のこの点に関する自白をもとに追及された結果である可能性が強い。

ウ まとめ

以上、要するに、佐古のこの点に関する自白は、証拠物から合理的に推認される事実と異なり、また前原の自白には、右事実と符合するかのような供述もないではないが、これについては右に述べた疑問点が指摘されるのである。

(3) 時限装置の形状

ア 佐古自白の内容

本件時限装置の形状は、既に認定(第四章一2(二)(2)ア)したとおり、ピース缶の蓋の片側にタイマーを改造したものをはんだづけし、その反対側に乾電池二個をガムテープで巻いたものを取り付け、更に右タイマー及び乾電池の上からガムテープを巻いて全体を固定したものである。佐古は、これに該当するはずの、ダンボール箱に収納された時限装置付き手製爆弾の形状につき、図面を作成するなどして、何回もの具体的供述をしているのであるが、その供述するところは実物とかなり異なっている(とくに当初の供述は大きくかけ離れている。)のである。その供述の内容とこれが変遷した状況を見ると次のとおりである。

48・1・17員面 ピース缶爆弾の向って右横に「単一電池」と記載した乾電池様のもの(一個のつもりのように見える)が接着し、向って左横に「時計の分解した機械だけのようなもの」と表示した歯車様のものが取り付けられている図面を作成

1・20検面 「時計の機械の様なものを取り付けた爆弾」と供述

1・24Ⅲ員面 (証拠物の呈示を受けた上)「時計部品に確かピース缶の蓋をはんだ付けしてあったもの」と供述

1・25検面 爆弾を収納したダンボール箱を上から見た状況として、十文字に組んだ割りばしの右側上の枠内にピース缶爆弾を割りばし及び箱の内面に接するように置き、その左隣の枠内に「時計の機械のようなもの」と表示して縦に長い長方形を記載した図面を作成し、「乾電池が爆弾本体の方につけてあったという漠然とした記憶がある」「細いコードを繋いだ爆弾の本体の横に時計の機械のようなものを納めたところ、箱が少し大きくて空間ができたのを覚えている」旨供述

イ 佐古自白の疑問点

佐古の自白によれば、ダンボール箱内に時限装置及び爆弾本体を固定したのは佐古自身である。そして、もし、佐古が真実その作業に従事したのであれば、時限式爆弾の収納という極めて特異な体験であるから、時限装置の形状についても記憶に強く印象されるのが自然であり、自白というからにはその内容にこのような点が反映されていて然るべきである。しかるに、佐古の自白が右に見たような実物とかけ離れた供述に終始するのは、右自白自体の信用性が乏しいことを如実に示すものとしなければならない。

なお、佐古は、昭和四七年一二月一四日取調官からアメリカ文化センター事件に関する新聞記事(縮刷版)を呈示されているが、右記事には爆弾が収納されたダンボール箱が開披された状態の写真が掲載されており、仮にその時点では時限装置の形状について記憶の希薄化を来たしていたとしても、佐古が真実収納作業に従事しているのであれば、これによって大体のところにつき記憶が喚起されても不思議ではないのに、そのような事実が認められない点も指摘されてよいであろう。

ウ 前原自白の疑問点

また、同じく時限装置等収納の現場に居合わせたとされている前原が、証拠物及び(員)小林由太郎44・11・5実⑤一〇一一添付の爆弾の写真の呈示を受けるまで、時限装置の形状について全く供述していないことも、自白の経過として不自然さを残すものである。

(4) 時限装置の作動(佐古自白)

佐古は、時限装置の作動に関し、一〇月二九日河田町アジトにおいてダンボール箱に爆弾等を収納する直前に右装置が作動するかどうかを実験した旨自白し、その際の状況として、「爆弾とその横に増渕がつけた時限装置と電池とを三人でコード等を接続し、動くかどうかテストしてみた。時限装置はこちこちと音がして順調に動くことを確認し、接続のコードを一旦切って(後略)」と供述し(佐古48・1・17員面)、更に、同年一一月一日アメリカ文化センターに向かって江口方を出発する間際の状況として、「増渕は、私と江口良子さんの見ている前で箱を開け、『じゃセットする』と言ってコードを継ぎ、これで何時から何時頃の間に爆発すると説明して蓋をしめた。(中略)増渕が時限セットのため、コードを継ぐとすぐ時計のような機械は動き出し、カチカチと音を(原文のまま)し始めた」と供述する(佐古48・2・15Ⅱ員面)。そして、右各供述は、いずれも本件時限装置はコードを接続し通電することによって作動し始めるものであることを当然の前提とする趣旨と解される。しかるに、本件時限装置は既に認定したとおり、ぜんまいによって作動するものであるから、佐古の右供述は、真実に反するものといわざるを得ない。単に佐古が時限装置の動力を誤解していた結果、このような供述になった可能性もないではないが、他方、ぜんまいを巻いた状況に見合う場面の供述は一切無いのであって、やはり不自然さは免れない。

なお、本件時限装置付爆弾において、「コードを接続する」という作業は、時限装置を介して電池と雷管を接続することになるはずであり、その状態で、時限装置の作動テストを行うようなことは、誤爆を誘発する虞も大きく、通常考えられないところである。前原及び増渕の供述中には本件爆弾の時限装置の作動テストに触れる部分が一切無いことをも考えあわせると、右テストの存在自体、まことに疑わしいということになろう。

(5) 電池と雷管の結線(前原自白)

ア 自白の内容

前原は、昭和四八年一月一六日以降、アメリカ文化センター事件に関与した状況として、「時限装置を完成し、ダンボール箱内に収納、固定した三日位前に、増渕に指示され、乾電池二個の一方のプラス極と他方のマイナス極を直列に赤色リード線で接続した上、ピース缶爆弾に埋めこまれる前の電気雷管の一方の脚線を一方の乾電池のマイナス極にはんだづけし、さらに他方の乾電池のプラス極には時限装置に接続すべき導線をはんだづけした」旨、一貫して供述する。

イ 問題点

しかし、右供述には次のような問題点がある。

(ア) 作業手順

時限装置の製造の作業手順については種々考えられるところであり、確定はしかねるものの、少なくとも、電気雷管のピース缶爆弾の爆薬内への埋め込みが雷管の脚線と乾電池の結線に先行すると考えるのが合理的である。何故ならば、仮に雷管の脚線と乾電池の結線を先行させたとすると、右の脚線が単線であることから、たとえはんだづけしたとしても振動等の衝撃で簡単に断線する虞がある(現に、前原は、昭和四八年一月二四日取調官の面前で自白内容と同様の結線作業をした後、写真を撮るうち、雷管の脚線を乾電池の電極にはんだづけした部分が断線し、作業をやり直すとともに、こんな接続をするわけがない、雷管の脚線の結線は最後の筈だと考えたと述べ((七〇回前原供述八三二九))、また、前原48・2・6Ⅱ員面によれば、同年二月六日前原が本件証拠物の呈示を受けた際にも、同様に乾電池の電極に雷管の脚線をはんだづけした部分のはんだがとれ、断線していたことが認められる。)ほか、雷管の爆薬内への埋め込み等その後の作業がすべてやりにくくなるという難点があり、更に、雷管の一方の脚線を電源たる電池に接続することによって、自然放電等により雷管自体が誤爆する危険が生じるからである。これと逆の手順によった旨の右供述の真実性には疑問がある。

(イ) 加功の必要性

更に、増渕が、本件時限装置の製造作業のうちでは最も簡単な作業の一であり、前記のような難点を持っている、乾電池を直列にし、雷管の脚線を乾電池の一方の極にはんだづけする作業を、何故、ことさらに、前原に命じてさせる必要性があったのか、爆弾事件における密行性、秘密を知る者を最少限度にとどめるという観点からすると疑問があるといわざるを得ない。

もっとも、これに対しては、前原は、本件製造に対する自己の関与程度を最小限に見せるため、担当した作業を、真実に反し、右のような点に限る供述をしたと解し、あるいは、増渕が製造密行の必要よりも、何らかの形で前原にも本件の一部を担当させ、発覚すれば一味として取扱われる恐怖による秘密保持を狙ったとする見方もあり得るであろう。

しかし、前原の荷担の程度が右自白よりも大きかったことを認めるに足りるような証拠はなく、また、秘密保持のためには、一般に、漏泄のおそれのある者を参加させないことのほうが効果的なはずであって、増渕が、本件で、これとは逆の、いわば迂遠な方法をことさらに選んだとすべき特段の理由も考え難いから、右のような見方を採ることもできない。

(ウ) 電池の個数

前原は、当初、直列につないだ乾電池の数を四個と供述し(48・1・17員面、その接続方法を丁寧に図示までしている。)、その後、二個と思うが四個だったかもしれないと述べ(48・1・21員面)、48・1・23検面に至り、二個と訂正しているが、本件時限装置は、前記のとおり、ピース缶蓋の両面に、タイマーを改造したものとガムテープを巻きつけた乾電池二個をそれぞれ接着した特異な構造のもので、乾電池を直列に結合する作業を自ら行い、かつ、ダンボール箱への収納時にも右時限装置を目撃している者の供述としては、乾電池の個数を間違えるのはあまりにも不自然で、記憶の変容によるものとも言い難い。もとより、前原において、ことさらに虚偽を述べたということもありえようが、アメリカ文化センター事件に対する前原自身の最大の関与といってもよい前記結線作業を自白している以上、乾電池の個数だけを偽る必要性はなく、また、この程度の虚偽が捜査の攪乱にもならないことは明らかであるから、その可能性もほとんどないと言わざるを得ない。

(エ) 脚線の使用

本件時限装置のタイマー部分と乾電池(プラス極)との接続には、既に認定したとおり、電気雷管の脚線の一部が切りとられて使用されているが、前原は、当初かかる状況を供述せず、右の接続には脚線とは別個の被覆線を用いた旨供述し(前原48・1・24Ⅱ員面、48・1・26検面、48・2・3員面、48・2・5検面)、証拠物を示されて、ようやく、雷管の導線(脚線の意)の一部を切って使用したかもしれない旨述べる(前原48・2・6Ⅱ員面)に至っているが、タイマー部分と乾電池との接続用に電気雷管の脚線を切断して利用するという特異な作業を行った本人の供述なのであるから、単なる記憶の消失ないし変容による誤りとは考え難く、不自然さを免れ得ない。

(オ) 手袋の不使用

本件証拠物である乾電池一個からは、手袋の指痕が発見され(麹町警察署長44・11・3現場指紋等送付書二六四三九、二六四四一)、右乾電池の接続作業には、手袋が使用された形跡が認められるが、前原は、この点について何ら供述せず、かえってダンボール箱の製造にあたっては、指紋について特に注意したことはなく、素手で手伝ったと思うと供述する(前原48・1・26員面)。その反面、前原は、八・九機事件については、昭和四四年一〇月二三日河田町アジトでピース缶爆弾を増渕らと見た際の状況として、「当時は、これらの物に指紋がつくのを極度に警戒しており、アジトにはいつも軍手が用意してあったので誰かが軍手でつかんで出したはずです」などと述べ(前原48・3・2検面)、更に、ピース缶爆弾製造事件については、製造作業中の状況として、「指紋がつかないよう軍手を各人が使用した」(前原48・3・11員面)、「爆弾に指紋が残ることを非常に警戒し、作業する者は全員軍手をはめた。(中略)手順の説明後、材料に指紋がつかないようピース缶を布でふいたあとに作業にかかった」(前原48・3・16検面)などと述べている。すなわち、捜査が進展して後の供述では、日時的に先行する八・九機事件の時点、更にはピース缶爆弾製造の時点で指紋について非常に注意を払っていた模様であるのに、捜査初期の供述では、その後の出来事であるはずのアメリカ文化センター事件のための爆弾改造に関連する作業においては指紋に特段注意をしていなかったことになるのであって、これもまた本供述に存する不自然さのひとつとして指摘すべきところである。

(カ) 共犯者の作業内容

前原は、前記結線作業を行った際、増渕及び村松は別の作業をしていた旨述べるが、右両名の作業内容として述べるところは、おおむね、村松は時計のようなものを扱い、落書きをしており、増渕はカーテンの向こうで何かしていた、ピース缶爆弾をいじっていたようだったといった域を出ず、余りにも概括的に過ぎる。爆弾の改造ないし時限装置の製造と思われる作業の場に同席し、関与している以上、右両名の作業の内容にも注意を払うのが自然であり、その意味で前原の右供述には少なからぬ不自然さが認められる。

(キ) 自白した時期

前原の右結線作業に関する自白は、前記のとおり、その内容を虚偽とせざるを得ないダンボール箱製造についての自白と同一機会にされたものであることも、その信用性を考えるにあたっては無視できないところである。

(ク) まとめ

以上(ア)ないし(キ)の諸点を総合すると、前原の右結線作業に関する自白の信用性には多大の疑問があるといわざるを得ない。

(6) ダンボール箱の包装状況(佐古自白)

本件時限式爆弾が収納されたダンボール箱は、前示第四章一2(二)(5)に認定したように、通常見られる一枚紙の包装紙でなく、ハトロン紙製の紙袋を切断したものを利用して包装されており、ガムテーム(薄茶色、紙製)により封がされているが、佐古が捜査段階において最終的に供述するところは、右の状況と一致しないばかりか、その点に関する供述が不自然な変遷をしているのである。

すなわち、佐古は、当初、アメリカ文化センターへ向かう自動車内において目撃した状況として、「ダンボール箱は裸のままであった」ないし「裸のままであったように思う」と述べていた(佐古47・12・11員面、47・12・14員面、48・1・16検面)が、突然48・1・18員面において、「紙袋に入っていた」旨供述を変更し(ダンボール箱を紙袋に入れ、上の口の部分をねじったような図面を作成)、48・1・20検面で、「菓子を入れるような黄土色の紙袋に入れてあった。袋がとじてあったかどうか忘れた」と述べ、更に48・1・22員面に至り、「車の中に積みこんだときはそんなにダブダブの感じではなくきちっとした荷物のようなしっかりした包み方だった」と供述するようになり(48・1・24検面もほぼ同旨)、48・2・15Ⅱ員面以降は、「アメリカ文化センターに向かい出発する直前、江口のアパートにおいて、増渕の指示により、江口が何も書いていない黄土色の包み紙で丁寧に包み、自分も手伝って、包み終わった紙の先をセロテープか紙テープでとめた」旨述べるのである(48・2・17員面、48・2・26検面も同旨。ことに江口アパートでの包装状況に関する自白は、江口のなにげない発言を供述するなど、極めて具体性、写実性に富むものである。)。

しかし、右のような供述の経過は、証拠物から知られるところに照らし、佐古が徐々に記憶を喚起し、正しい認識を再現していったことを示すものとは到底考えられず、むしろ、本件包装に用いられた紙袋の開披された状態が、前示認定のとおり、一見一枚ものの包装紙のように見受けられるところから、これをそのようなものと見た取調官がその印象に基づいて追及し、佐古がこれに迎合していったことを示すものである可能性が強く、特に江口が包み紙で丁寧に包装したとの点は、迫真性のある情景描写にもかかわらず、虚偽であるとしなければならない。

(7) 言及を欠く事項

更に、本件証拠物を検討しても、ピース缶爆弾の具体的改造の状況(第四章一4(六)参照)、時限装置の構造、とくにタイマーをことさらに分解、改造して使用した理由、本件爆弾に三種類もの接着剤を使用した理由等についてはいずれも分明とはいえないところ、真犯人が真実を告白するのであれば、これらの事柄について当然言及して然るべきものと思われるのに、本件においては、佐古及び前原はもとより、増渕及び村松もこれらの点につき何らの供述もしていないのである(なお、増渕の供述調書中にはピース缶爆弾改造の状況を述べるものがあるが、概括的に過ぎ、ほとんど無内容とさえいえよう。)。もっとも、右爆弾の改造及び時限装置の製造は、検察官の主張によっても、あるいは佐古及び前原の各自白によっても、増渕若しくは村松がしたというのであるから、佐古及び前原はその点の認識を有しないため供述できず、他方、増渕及び村松はこれらの点をことさらに秘匿しているという可能性も否定できないが、いずれにせよ、これら言及のない事項は取調官が知り得ないこと、客観的証拠からは推認できないことである一方、真犯人ならば当然知っているはずのことであって、供述があれば、それはまさに「秘密の暴露」に当たるものである。佐古及び前原の各自白には取調官が知っていたこと、気づいていたであろうことは、勘違いをも含めて少なからず現出していることと対比して、右の点は無視できない。

(8) 検察官の主張に対する判断

検察官は、本件証拠物に関連して、前原の自白が信用できる証左として、

ア 落書き

本件時限装置のタイマー本体には「毛沢東」「赤軍」「World Revolution」「MAO」なる落書きがなされているところ、右落書きが村松によってなされたことは、まず昭和四八年一月一九日の前原の自白で明らかになり、その後、同年二月一三日の村松の自白によって裏づけられたのであるが、前原が右自白をする際に、取調官である高橋警部補は、右時限装置に書かれている落書きの文言を知らなかったのであるから、前原に対し、誘導や押し付けをする余地は無いばかりか、右時限装置の落書きの文言は「毛沢東」であるのに、前原は、これを「毛沢東万才」であると供述していることから見ても、取調官による誘導があったとは考え難く、右自白の自発性は明らかであること

イ 導線の長さ

また、前原は、「ダンボール箱に爆弾及び時限装置を収納した際、導線が長すぎたがそのまま丸めて押しこんだ」旨自白しているところ、本件時限装置付爆弾には、前原の右自白どおり、明らかに必要以上の長さの導線が用いられており、それが箱の内部に丸めるように押し込まれてガムテープで止められているのであって、右の自白は実際に現物を見た者でなければ、供述し得ないものであること

を指摘する(論告要旨一五三三三五九六)。

しかしながら、タイマー本体の落書きについて、前原を取調べた高橋警部補は、上司の指示を受けて特にその点の取調を始めたというのであるから(九部一九〇回高橋証言一八二四二)、高橋は否定するけれども、指示を受けた際、落書きの文言、内容についても教示ないし示唆されたとしても不自然ではない。また、捜査当局は、右前原自白より一か月も前の昭和四七年一二月二〇日ころ、当時窃盗事件で勾留中であった村松に、右落書きの文言と同じ文言を書かせてその筆跡を採取しているのであるが(七九回村松供述一〇五六二等、九部一九七回岩間拓生証言一九六三六、九部一九九回同一九九〇四、一二九回同二三一九〇)、他方、当時同じく勾留中であった佐古からは、そのような筆跡を採取していないのであって、このことに照らすと、捜査当局は、既に右時点において、村松がこの落書きをしたのではないかとの嫌疑を抱いていたとも考えられるから、高橋警部補がこの関係で右落書きについての知識を得ていたということもあり得ないではなく、従って、高橋警部補が前原に対し、村松の名を挙げて落書きの件につき追及し、さらに、落書きの文言についても、何らかのヒントを与える形で(前原は、この点につき、高橋警部補から追及を受けた際、落書きの内容を供述し得ないでいると、高橋は相当いらいらした挙句、メモ用紙に「毛沢東万才」と書いたのでそれをかいま見て供述した旨述べる。六九回前原供述八一三〇等)追及した結果、前原がこれに迎合する形で前記自白をするに至った可能性を否定することができない。落書きが「毛沢東」であるのに、自白では「毛沢東万才」となっている点は、高橋警部補の知識が不正確であったため、誤った誘導がなされたことによると解することができよう。

また、導線に関する前記自白も、当時高橋警部補が、その証言するように(九部一九〇回高橋証言一八二四四)本件時限装置の導線の長さを知らなかったと断定するに足りる証拠はなく、導線が長過ぎた場合にはどうするかといった問に対して「箱の中に丸めて押しこんだ」と答えるようなことは前原に限らず容易に着想できることを考えると、右の点を特に重視することはできない。

以上、検察官が、右各事項は前原の自白を信用すべき証左であるとして主張するところは、いずれもその根拠が十分なものとはいえない。

(二) 自白の内容自体

次に、証拠物との関係とは別に、佐古及び前原の各自白自体の(1)下見に関する部分及び(2)爆弾を設置した状況に関する部分のうち、供述内容、供述経過ないしその変遷が、供述自体あるいは他の証拠から認定される事実に照らして不自然、不合理である点や、各自白が相互に矛盾する点などのほか、(3)当然言及されて然るべき事項の供述を欠き、不自然と考えられる点について、検討を加える。

(1) 下見

ア 経路及び下見状況

佐古は、一〇月二九日ダンボール箱製造に先立ち、前原から、「村松に連れられて、アメリカの施設ということを前提に、二、三か所見て回った。赤坂見附から溜池付近までと東急ホテルの裏側の方の国会周辺から首相官邸まで回った結果、アメリカ文化センターが一番やりやすいということになった。アメリカ文化センターのビルには自由に出入りできる。警備員はいないようだった。そこには受付があって中では人が本を読んでいた」などと一日か二日前に下見に行った話を聞いた旨供述しているところ(佐古48・1・29員面。48・2・2Ⅰ検面も同旨)、前原は、右下見につき、48・1・29員面において、「村松と二人で爆弾をどこに仕掛けるかについて、日帝の権力機関と米帝の出先機関を下見した。バスで国会議事堂付近で下車し、同議事堂、首相官邸、アメリカ大使館、赤坂付近などを歩いた。自分としてはこれといった建物に入った記憶はないが、村松が終始一緒にいたというわけでもない」などと曖昧で具体性を欠いた供述をしていたが、その後、アメリカ文化センター付近の引きあたりを経た後の48・2・1員面で「国会、首相官邸周辺からアメリカ大使館を下見し、さらに虎の門方向から赤坂見附方向に走る通りを下見した。村松は、右通りの右側のビルが立ち並んでいる方向を気にしていた。赤坂見附交差点の少し手前で村松が『ちょっと待ってろ』と言って姿を消した」旨述べ、更に48・2・7検面に至り、「村松と赤坂見附手前のアメリカ文化センターの入っているビル前まで行き、付近を下見したが、その際アメリカ文化センターがそのビル内にあることを知った。村松が一人でビル内に入って行き、やがて出て来て、ビル前の歩道上で待っていた自分に『自由に中に入れる。中も警戒がない』旨話してくれた」などと前記佐古の供述にほぼ符合する供述をするに至るのである(もっとも、前記佐古の供述によれば、前原自身が建物内に入ったニュアンスがくみとれ、その点に関してはなお一致しない。なお、前原との下見については村松も自白しているが、その内容は、「増渕から前原と二人で国会、議員会館、首相官邸、山王ホテルの下見を指示された。山王ホテルは米軍高級将校のクラブがあるとのことだった。約二時間かけて見て回ったが、それらの建物に入った記憶はない。アメリカ文化センターを見に行った記憶もない」((村松48・2・17員面、48・2・22検面))というもので、佐古、前原の各自白とは大幅に食い違うものである。)。

前原の右のような供述の変遷は、もとより、前原において自己の刑責を軽減するため秘匿していたものが、追及に耐え切れず真相を自白していった過程であるととらえることもできるけれども、ダンボール箱製造に関する佐古及び前原の自白の関係等を考えると、前原が、同年一月二九日取調官から下見をしなかったかとの追及を受け、前記のような曖昧で具体性を欠く供述をなし、これを受けて、佐古が、前原も自白していることをちらつかされながら追及を受けた結果、同日前記のような詳細な供述をなし、以後は、佐古の自白にあわせる形で前原に対し取調がなされ、前原がこれに迎合した可能性も少なからず考えられる。

イ 使用車両

佐古は、一〇月三〇日新宿付近のジャパンレンタカーで車を借り、増渕と二人でアメリカ文化センター付近の下見をしたと供述するところ(佐古48・1・18員面、48・1・20検面等。なお、そのあと、同じ車で本件爆弾を河田町アジトから江口アパートまで運んだとも供述する。)、捜査当局では、右レンタカー借出しについて裏付けをとってみたが、該当する借出し事実を発見できなかったことが認められる。すなわち、堀内管理官によると、昭和四四年九月、一〇月について、佐古名義でレンタカーを借りた事実を各レンタカー会社について調査してみたところ、①九月七日ころ、②一〇月二〇日、③一一月一〇日の三回であったとのことであるが(一三六回堀内証言二四三一三、一五〇回同二六〇九七)、右のうち、九月七日ころの借出しの目的は、証拠上、何のためか確知できないけれども、②の一〇月二〇日の分は、前記認定(第四章二3(四))のとおり、いわゆるトラック窃盗に花園、村松及び菊井と赴いた際のものであり、また③の一一月一〇日の分は、江口のアパート引越に伴い、火炎びんを江口のアパートから水谷雅乃方下宿に搬入するなどした際のもので、それぞれ対応する事実があること、レンタカーの借出しには免許証が必要であること、他人の免許証を使用し、その名義で借り出すこともあり得ようが、現に佐古は、前記トラック窃盗等に際しても自己名義で借り出しており、下見の際に限ってその点につき配慮したとは思われないことなどに照らすと、前記調査の結果、右下見に対応すべき借用の事実がないことは、下見そのものの存在について疑問を投げかけざるを得ない徴表のひとつであることを否定することはできない。

なお、佐古の供述するレンタカー借出しについて、その裏付けのない例が他にもう一つ存する。すなわち、佐古は、公判廷において、村松のさくら荘から風雅荘への引越しあるいはその下準備を手伝ったことがあり、その際、レンタカーを使用したと供述し(四九回佐古供述⑱五二二七、一二四回同⑥一四一〇等)、石井も、佐古があらかじめ荷物を運んでくれたことがあるなど(石井一七回証言⑦一七三六。当日の手伝いは父であったという。⑦一七二九)、一見これに照応するかのような供述をするのであるが、この借出しにも裏付けがない。しかし、村松は風雅荘への引越しを佐古が手伝ったことは供述しないし(七九回村松供述一〇五二七、八五回同一一二八〇等。もっとも、村松自身、引越しにはあまり関与せず、詳しくは知らない模様でもある。九部二六九回村松証言三二三九四、八五回村松供述一一二九五等)、佐古の供述自体、N三六〇を借りたなど、細部にわたるところがある反面、自分は運転はあまりしなかったとか、村松の指示であった、村松、石井、江口との四人づれであったがどこから乗せたかおぼえていないと述べるなど、石井、村松の言うところとも一致せず、曖昧な点も多く、引越し手伝いの事実、ひいてレンタカー借出しの事実そのものの存在が疑わしいのであって、これに見合うレンタカー借出しの事実が裏付けられなかったことは、別段、右判断に消長を来たすものではないと言って差支えないであろう。

(2) 爆弾設置状況

ア 設置場所

前記のとおり、佐古は、当初、爆弾を仕掛けた場所をアメリカ領事館であると供述し、(佐古47・12・11員面。但し、右供述調書録取前は、「アメ帝の建物」と供述していたと認められることは、前記二1(一)及び(三)のとおり。)、その後、アメリカ文化センター事件に関する新聞記事を示され、アメリカ文化センターに仕掛けたことを思い出した旨供述するのである(佐古47・12・14員面)。

しかしながら、共犯者として爆弾を仕掛けに赴いた犯人が、たとえ本人の具体的行為は目的地までの運転を担当しただけにとどまるとしても、設置場所の名称あるいは所在地を知らないとは到底考えられず、佐古自身の自白によっても、当時下見を念入りに行い、あるいは事件後テレビあるいは新聞で結果確認をしたというのであり、かつ、爆弾の設置という極めて非日常的な体験であることを考えると、事件後三年余りの時日が経過したからといって、爆弾設置場所の名称あるいは所在地を忘失したり、あるいはその記憶が希薄化するなどということは通常あり得ないと考えられる。佐古が取調官の反応を窺うため、ことさらにアメリカ文化センターをアメリカ領事館として供述することも、いずれにせよアメリカ文化センター事件の真犯人であることが容易に見破られる端緒となる危険性が強く、またそうすることによる捜査の攪乱もさまで望み得ないことを考えると、その可能性は存しないといってよい。

そのほか、何故、佐古が爆弾を仕掛けた場所を、当初、「アメ帝の建物」あるいは「アメリカ領事館」と供述したかについては合理的な説明が考えられず、そのことは、基本的に右自白の信用性に疑問を投げかけるものである。

イ 経路

爆弾設置のためアメリカ文化センターに赴いた際の経路に関する佐古の最終的な供述は、「江口のアパートを出発し、中野で村松外一名と合流した後、新宿、四谷、麹町を経由し、半蔵門交差点を右折して国会下交差点に出、同所を右折して溜池交差点に至り、更に右折して、外堀通りを赤坂見附方面に進行し、山王下交差点の四~五〇メートル手前で停止した。村松外一名による設置後、再び発進し、赤坂見附交差点を左折して青山通りに入り、青山一丁目交差点を右折、更に四谷三丁目交差点を左折し、新宿二丁目交差点を経て新宿東口大ガードをくぐり新宿中央公園に至った」というものである(佐古48・1・24Ⅰ員面)が、帰路の地理的合理性に比べ、往路は必要以上に迂回してアメリカ文化センターに赴いている感を免れ得ない。そして、右経路をとったこと及びその理由について述べる者は、被告人や他の共犯者とされる者の中には存しない。爆弾を設置する時刻と時限装置にセットした時刻との関係で、ことさらにそのような経路をとったと考えることも不可能ではないが、佐古自白によると、そのような時間的配慮をする必要がなかったと思われる増渕との下見の際も同じ経路をたどったということであるから、この見解は採り得ない。その上、爆弾を携帯してこのように迂回することに伴う途中での誤爆あるいは官憲との遭遇による発覚といった危険性をも考えると、右のような経路をとった理由は理解し難く、これもまた佐古自白の内容に見られる不自然さの一例であるといってよいであろう。

ウ 使用車両

佐古は、アメリカ文化センターに爆弾を運搬した車両について、当初池袋のサンコーレンタカーの自動車と供述(佐古47・12・11員面)していたが、その後、新宿のレンタカーである旨供述を変え(佐古48・1・16員面)、昭和四八年一月一八日に至り、一〇月三一日藤田和雄の会社の自動車(以下「藤田車両」ともいう。)を利用して河田町アジトを引越した旨供述するとともに、翌一一月一日アメリカ文化センターへの爆弾設置の際にも右車両を引き続き使用した旨供述するところである(佐古48・1・18員面)。

ところで、佐古は、既に昭和四七年一一月三〇日段階で、河田町アジト引越しの際、藤田車両を使用した記憶を保持しており(佐古47・11・30メモ通し丁数三九)、前記佐古のこの点に関する最終的な自白が真実であるならば、当時活動の本拠地であった河田町アジトの引き揚げ、翌日のアメリカ文化センター事件は、連続して生起した印象的な出来事であったはずであり、藤田車両による引越しを想起すれば、容易に翌日のアメリカ文化センター事件における藤田車両の連続の使用という記憶を喚起できた筈である。従って、佐古が右のように、当初、アメリカ文化センター事件を自白しながら、その使用車両はレンタカーであるとしていたことの不自然さは否めない。

更に、佐古は、右のように供述が変遷した経緯について、「一月一六日の段階では、レンタカーに対する裏付けがなされており、池袋のサンコーレンタカーはアメリカ文化センター事件当時存在せず、他の池袋、新宿のレンタカー会社にも、該当するような車両の貸し出しはないことが判明しており、その旨取調官から聞かされていた。ところが、好永巡査部長や原田巡査は、レンタ会社の税金逃がれだといって調査結果を信用しなかった。しかし、池袋のサンコーレンタカーは会社自体が存在しないということだったので、江口方アパートにも近い新宿のレンタカー会社から借り出したということになった。さらに一月一八日に藤田車両を使用したとの供述になったのは、原田巡査から、アメリカ文化センターの前日に河田町の引越しで藤田車両を使ったのだからそれを使った方が便利ではないかと言われ、認めた結果である」と弁解する(一一二回佐古供述③六五二、一一三回同④七五七)。

レンタカーの借出し先が池袋であるか新宿であるかが佐古にとって重要であったと考えられる状況は認められないから、佐古が進んで池袋のサンコーレンタカーから新宿のレンタカーと供述を変えるべき理由はなく、かつ、前記のとおり、捜査当局において、当時レンタカーにつき裏付け捜査をし、アメリカ文化センター事件当時、佐古が借り出したとする車両に該当するものが見当たらなかった事実が存することにも照らすと、右弁解は首肯して差し支えないように思われる。

もっとも、堀内管理官は、この点につき、右調査結果が判明したのは、佐古が藤田車両をアメリカ文化センター事件に使用したと供述した後であると供述するが(一五〇回堀内証言二六〇九七、二六一〇一)、他方、好永巡査部長は、多分昭和四七年一二月段階でサンコーレンタカーの裏付けはとれなかった旨聞いたと思うと供述しているところ(九部二〇一回二〇四〇〇)、昭和四八年一月一六日に、使用車両の借出し先に関する佐古の供述が、前記のように池袋のサンコーレンタカーから新宿のレンタカーに変わったことについては、佐古の弁解どおり、右調査結果が判明したことに基づくとする以外にその理由を考え難く、結局右堀内証言は措信し難いことに帰する。

そして、以上の諸点を総合して検討するときは、アメリカ文化センター事件について藤田車両を使用したとの自白の信用性については相当の疑問があるとしなければならない。

エ 爆弾搭載地点

アメリカ文化センターに設置された爆弾が、佐古の運転する車両に持ち込まれたという地点に関する佐古の供述は変遷が甚だしい。その経過は次のとおりである。

47・12・11員面 中野ブロードウエイ早稲田通り入口前路上

12・14員面 中野ブロードウエイの早稲田通りをはさんだ反対側の喫茶店

48・1・16員面 中野ブロードウエイ前路上

1・18員面 江口のアパート

1・20検面 同右

1・24検面 「あるいは中野で(中略)その名前の知らない男が爆弾をもって(中略)乗りこんできたような気もする。」

1・25検面 「記憶を整理し、考えてみると、(中略)中野で合流した名前のわからない男が爆弾をもって乗ったのを見たという記憶が正しいと思う。」

1・27員面 「中野で(中略)もう一人の男が持ち込んだかもしれない。」

2・15Ⅱ員面 「江口のアパート」と訂正する。

2・17員面 江口のアパート

2・26検面 同右

検察官は、この点に関する佐古の右のような供述の変遷は、当初、江口をかばって爆弾を持ち込んだ場所を同人には関係のない中野の路上であった旨供述したものの、その後、一切を述べて罪の清算をしようという心境に至ったことによるのであって、合理的な理由が存する旨主張する(論告要旨四二三三五四〇)。

そこで検討するに、検察官の主張を敷衍すると、佐古の供述の変遷は江口のアメリカ文化センター事件に関する認識あるいは関与(爆弾の保管、包装)を秘匿し、江口をかばうためとの動機に出たものであるというにあると考えられるが、それならば、佐古は、何故、同年一月一八日の時点で江口のアパートから爆弾が持ち込まれたことを自白したのであろうか(江口方に爆弾が保管され、そこから搬出されたとする以上、江口に対し、アメリカ文化センター事件の共犯者ではないかとの強い嫌疑がかけられることに変わりはない。)。更に、翌一九日には、何故、プランタンにおける江口のいわゆる六月爆弾に関する発言を明らかにしたのであろうか。これらは、いずれも、江口をかばうという心情からは程遠い供述態度といわなければならない。また、他方、この時点で一切を述べて罪の清算をしようとの心境に達した佐古が、その後の供述において、前記(二2(一)(6))のように虚偽とせざるを得ない江口による爆弾包装状況を述べることも不自然であって、以上の諸点に照らすと、前記供述の変遷の理由を検察官主張のように解することはできない。

ところで、佐古は、これらの供述をした経緯につき、「爆弾持ち込み場所を当初の中野路上から江口のアパートに変更したのは、取調官から『爆弾の包みを持って中野から乗りこんでくるのは不自然だ。警察官にでも会ったらどうする。増渕が江口のところから乗り込んだのなら江口のところに爆弾があっても不思議ではないし、その方が安全ではないか』などと追及されたためであり(五八回佐古供述六五一四、一一三回佐古供述④七五九)、また江口のアパートから中野路上に変更したのは、アメリカ文化センター事件の前日に江口のアパートの押入れ(引戸をあければ上下二段に分けているもの)の下段に爆弾が入った紙袋がみえたと供述していたところ、同月二三日江口のアパートに引き当たりに行き、押入れの扉の状況(上中下三段になっていて、中段が観音開き、上段と下段が引き戸)が異なり、これまでの供述のようには爆弾が入った紙袋が見えないことがわかり、取調官らに嘘をついたと思われることを恐れたためであり、好永巡査部長らには言いにくかったのでまず検察官に述べた。しかし、警察官の方は最終的には納得せず、原田巡査から『中野から持ち込むのは不自然だ。江口についてかばっていることがあるのではないか。肉体関係があったのではないか』などと繰返し追及されたため、根負けした形で再び江口のアパートと供述を変えた」と弁解するところ(一一三回佐古供述④七六二、一一四回同④八四〇、八六七)、右の弁解は、供述の経緯にもごく自然に符合するように思われ、一概に不合理なものとして排斥することはできない。

以上の諸点によれば、爆弾を自動車内に持ちこんだ場所に関する佐古の自白の信用性についても疑問を投げかけざるを得ない。

オ 合流した共犯者

佐古が運転し、増渕が同乗してアメリカ文化センターに向かう自動車に中野の路上から村松とともに乗り込み合流したという共犯者につき、佐古は、当初阪東国男(坂東国男の誤記と認める。)と述べ(佐古47・12・11員面)、その後「坂東と思われる男」と供述を変えた上(佐古47・12・14員面)、昭和四八年一月再自白してから以後は「氏名不詳の(名前の思い出せない)男」(佐古48・1・16員面)、「名前の知らない男」(佐古48・1・20検面)、あるいは「もう一人の男」(佐古48・1・27員面)等と供述をたびたび変更しているところ、検察官は、この点につき、もともと佐古には右の者が坂東であるとの確実な記憶がなかったのであるから、その点の確認を求められて供述が後退したことは何ら異とするには足りない旨主張する(論告要旨四三三三五四一)。

そこで検討すると、佐古47・12・11メモ通し丁数四七表には「村松ともう一人」と記載されており、佐古が当初から当該共犯者を坂東と供述していたわけではないことは認められるけれども、佐古の公判供述等によれば、昭和四五年に入ってからは、佐古は坂東としばしば会っていて面識があったことが認められ、当該共犯者が坂東でなかったのなら、佐古がこれを坂東と誤認するようなことはありえないと考えられるから、昭和四七年一二月一一日の段階で明確に「坂東国男」と供述しながら、日を重ねるに連れ、次第にその供述が不明確化していったのは不自然である。そして、この点につき、佐古が公判廷で、「昭和四七年一二月一一日段階で、取調官から当該共犯者について、『赤軍派の者だろう』『名前がだれかわかるか』などと追及され、昭和四五年につきあいのあった坂東国男の名前を挙げてしまった。その後、『そんなころ坂東を知っていたのか』などと追及されたので、供述を変え、昭和四八年一月段階になると、更に『当時坂東は上京していないはずだ。間違いなのではないか』と訂正を求められ、取調官の方から『名前を思い出せないような男にしておこう』といわれて同意したものである」などと述べるところは(九部二七六回佐古証言二七五四八、二七五五三、一一二回佐古供述③六八四等)、右のような供述の変遷状況に照らし、一概に排斥できないものがある。

(3) 言及を欠く事項

佐古及び前原が、本件の真犯人であり、かつ、犯行を反省して率直な自白をするとするならば、例えば、(ア)アメリカ文化センターを攻撃の対象に選定した思想的、政治的な理由、(イ)爆弾を設置した状況、(ウ)犯行日時を一一月一日(土曜)午後一時過ぎとした理由等について当然言及して然るべきである。そして、それは有力な「秘密の暴露」にあたるであろう。

しかし、佐古及び前原はもとより、増渕及び村松においても、このような事項については何らの供述もしていないのである(増渕については、右(ア)の事項につき、捜査段階での供述はあるけれども、その内容は後記四2(四)のとおりであって、無内容に等しい供述である。)。もっとも、右(ア)、(ウ)の事項は、被告人らの自白するように増渕がアメリカ文化センター事件の首謀者であったとすれば、増渕において、最終的に決定されたとみるべき性質のものであり、また(イ)は、佐古、増渕自白によれば、本件爆弾を設置したのは村松外一名であるというのであるから、佐古及び前原は、これらにつき認識を欠き、供述することができなかったに過ぎず、認識を有する増渕及び村松はこれらの点をことさらに秘匿しているという可能性も否定できないが、その点を考慮してもなお、佐古及び前原の各自白には、さきに(一)「証拠物との関係」の(7)で述べたところと同じく、取調官の知っていたこと、推測していたことなどは、捜査官の誤解の反映ではないかと思われる点すら含めて、いくつも現われているのに、右のような、真犯人なら知っているはずであるが、取調官には明らかでなかったであろう事項についての言及が全くないという事実は、指摘されるべき事柄である。

(三) 関連供述

佐古及び前原は、アメリカ文化センター事件そのものに関する前記各自白にとどまらず、右事件に関連する事項についても供述しているが、このような供述にあらわれた事項のうち、いわゆる「一〇・二一爆弾持ち帰り」の事実の存否及びいわゆる「シャンネル・プランタン会談」の意味するところは、右各自白の信用性を判断する上で重要な意義を有するので、以下、これらについて検討する。

(1) 「一〇・二一爆弾持ち帰り」(佐古、前原自白)

ア 各自白の概要

さきに一2(自白の概要)で触れたとおり、佐古は、昭和四七年一一月一七日、取調官に対し、昭和四四年一〇月二一日の夜(正確には二二日未明)、中野坂上で、一緒に逃げていた二、三人の男からピース缶爆弾二個を受取り、間もなく側溝に棄てた旨の供述をしたが、昭和四八年一月一七日以降は、右爆弾二個を、井上と共に、河田町アジトに持ち帰った旨、捜査段階を通じ、一貫して供述し、前原も、同月一六日以降、同旨の供述を捜査段階で繰返している。

公判段階において、佐古は、これは真実でないとし、そのような供述をした理由につき、繰返し質問を受け、弁解をしている。その述べるところは必ずしも一貫せず、また、明確を欠く点があるが、その趣旨は、おおむね、「小林巡査部長から一〇・二一の夜使ったのは本当に火炎瓶だけだったのかと言われて、必死に思い出そうとしていたところ、多分その夜のことと思われるが、爆弾らしきものを見たことを思い出した。円筒型で、火炎瓶とは違う物である。ひも状のものも見えた。誰かが手に持っていたとか、どこかに置いてあったとかの記憶はない。思い出せて嬉しかったが、その供述をした時の自分の手つきを見て、手に持ったのかと聞かれ、持ったとか触ったとかの記憶はなかったが、持ったことになってしまった。持ち帰ってはいない記憶だったので、どこかに捨てたことにしなければならないと考え、当夜使用した軍手などやばい物をどぶ川に捨てたような感じが残っていたので、これもどぶ川に捨てたと言った。それが昭和四七年の調書となり、昭和四八年には、持って帰ったんじゃないかとの追及を受け、記憶には反したが、認めてしまった。」というにあると解される(四六回佐古供述⑰四八〇一、四七回同⑰四九七一、五〇回同⑲五三三〇、五三七一、五三回同⑳五八四五、五四回同⑳五九四六、五七回同六二七八、一〇八回同③四一五等)。

また、同じく公判段階において、前原は、「右一〇月二一日夜、他の男子一名(国井かも知れないが内藤かも知れない。はっきりしない。)と共に河田町アジトに泊ったが、二二日未明まで、佐古及び井上が戻って来たことはなく、もとより爆弾を所持しているのを見たようなことはない。昭和四八年一月一六日の取調において、佐古を取調べているという原田巡査が同席し、お前達がピース缶爆弾二個を持って来て、一個は八機に、もう一個は時限爆弾に変えてアメリカ文化センターに仕掛けたことはわかっているなどと言ったことに驚き、次第に誘導されて、二人が爆弾を持って帰って来たような供述をしたものである。」と弁解している(六一回前原供述六九一六、六三回同七二〇六、六七回同七七九一等)。

イ 検察官の主張

この点につき、検察官は、佐古の前記昭和四七年一一月一七日の自白(小林巡査部長に対するもの)、すなわち、「一〇月二一日、中野坂上付近において、ピース缶爆弾二個を受け取り、間もなく捨てた」との供述は、供述するに至った経緯、取調にあたった小林巡査部長の証言から窺われるその際の供述態度、同供述をしたことに対する佐古の公判廷における弁解の不自然さ、不合理さ(例えば爆弾を見たかどうか、手に持ったかどうかなど、極めて特異な事象につき記憶が明確でないとか、はっきりしないのに「持った」と供述したとかする点)等に照らし、佐古が同日中野坂上付近でピース缶爆弾を入手するに至った経緯に関する部分は十分に信用でき、佐古がその後右供述を訂正して河田町アジトにそのピース缶爆弾二個を持ち帰った旨認めたことも、小林巡査部長に対する右供述の時点においては、未だ八・九機事件及びアメリカ文化センター事件を秘匿しており、爆弾を持ち帰ったことを供述すれば更にその処分方法を追及されることを恐れ、これを持ち帰ったことを秘して「側溝に捨てた」旨虚偽の供述をしたものと推認され、何ら特異なことではない旨主張し(論告要旨二九三三五三四)、更に、前原が昭和四八年一月一六日にした「佐古らが中野坂上からピース缶爆弾二個を持ち帰った」旨の供述は、他の者にさきがけて、取調官としては右事実を全く知らなかった時期になされ、信用すべきものである旨主張する(論告要旨四九三三五四四)。

ウ 評価と疑問点

既に認定したように、一〇月二一日赤軍派によって中野坂上付近にピース缶爆弾が持ち込まれ、佐古がその現場に居合わせたこと、佐古自身が供述するところによっても、昭和四七年一一月一七日の取調べがさまで厳しかったものとは認められないこと(一一〇回佐古供述③五八五等)佐古は公判段階に至っても、中野坂上付近においてピース缶爆弾を目撃した事実の有無等について前記(1)アのような不明確な供述をしていること等に照らすときは、佐古が一〇月二一日中野坂上付近において赤軍派の者からピース缶爆弾二個を受け取った蓋然性は高いように思われる。しかしながら、佐古がこれらを河田町アジトに持ち帰ったとする佐古及び前原の各自白については、次のような疑問を挙げざるを得ない。

(ア) 持ち帰りの心情

佐古は、ピース缶爆弾を河田町アジトに持ち帰った心情として、「一〇・二一の新宿署襲撃では火炎瓶も破裂せず、皆逃げ出すという状況であったので、今後の闘争を考え、やはり持ち帰った方がよいだろうと考えた」と供述するが(佐古48・1・27員面)、他方、佐古は、当日、東薬大付近において、恐ろしさから、新宿署襲撃に向けてのトラックの運転を渋ったにもかかわらず、首をつかまれるようにして運転席に乗せられ、結局無理矢理運転させられたため、従来のような活動に対して嫌気がさし、二日後の一〇月二三日大阪の実家に戻ったということであるから、爆弾持ち帰りの際の心情として述べるところと、消耗し落ちこんで帰阪したという佐古の行動との間には大きな落差が認められる(爆弾を持ち帰った後、自分の行動を省みて、嫌気がさし、帰阪する気になることはありうるが、そのような供述はなされていない。)。

(イ) 爆弾の入れ物

佐古が、捜査段階で、東薬大付近から中野坂上付近に至るまでの間のピース缶爆弾目撃状況として供述するところは、トラックの助手席に黒色鞄が持ち込まれ、その中にピース缶爆弾があったというものであるが、既に認定(第四章一3(二)(1))したとおり、東薬大付近にはピース缶爆弾は菓子箱あるいはケーキ箱のようなものに収納されて運びこまれた形跡が強いのであって、黒色鞄に入っていたとするのは、関係者中、佐古のみである。

(ウ) ガムテープの色

持ち帰ったピース缶爆弾二個のうちの一個であるとされる八・九機事件の爆弾は、既に認定(第四章一1(二)(1))したようにピース缶の蓋及び缶体のほぼ全面に青色ガムテープが貼付されており、茶色テープは、使用方法、使用筒所の判明しない小片が使用されていたにとどまるものであるが、この点につき、佐古は持ち帰った爆弾二個をいずれも「黄土色」のガムテープで包まれていたものと述べ(佐古48・1・17員面)、前原も当初は茶色の布が貼りつけてあったと述べているのである(前原48・1・22検面)。青色ガムテープは当時、巷間あまり見掛けないものであったと言って差支えないと考えられるから、これが用いられていることは、両名の印象に残ってよい筈であり(とくに前原自白によれば、八・九機事件の謀議の際にも検分しているとするのであるから、前原については、より一層強くそのことを指摘し得るであろう。)、その意味で、この点に関する両名の右供述は不自然である。なお、前原は、後に、爆弾の上部にかぶせてあった布切れは二個とも青っぽい色だった旨供述するに至るが(前原48・2・1員面)、供述を訂正するについて理由が示されておらず、かつ、一般に記憶及び想起につき信頼性が乏しいとされている「色」に関する供述であることを考えると、前原が正しい記憶を喚起できたものというよりは、取調官の誘導による供述である可能性が高い。

(エ) 井上の行動

佐古は、当初、爆弾持ち帰りの夜、井上と二人で河田町アジトに戻った旨供述するが(佐古48・1・17員面)、その後、井上とは渋谷で別れ、一人で河田町アジトに戻った旨供述を変更し(佐古48・1・20検面)、更に、再び井上と二人して河田町アジトに戻った旨供述を変更している(佐古48・1・22員面)ところ、佐古は右供述の変遷の理由について、言い間違いであったと述べるのみで(佐古48・1・24検面)、納得の行く理由を述べない。なお、公判段階では、佐古及び井上とも、一〇月二一日夜中野坂上付近から二人して逃げ出し、渋谷で別れた旨供述する(四六回佐古供述⑰四八〇二、五〇回同⑲五三二九、五三三七等、一四四回井上供述二五三三八、一四五回同一五五五三)。

(オ) 前原自白の先行

前原が、佐古らによるピース缶爆弾の持ち帰りの点を他の者に先がけて供述したことについて考えると、佐古が取調官に対し、中野坂上付近で爆弾を一旦は入手したが棄てた旨供述(佐古47・11・17員面)した後、アメリカ文化センター事件をも自白した段階で、取調官が同事件の爆弾の入手先を考えるうち、実は、佐古が中野坂上からピース缶爆弾を持ち帰り、これが右事件に使用されたのではないかと推測して、その推測に基づき、前原を追及した結果、まず前原から右供述がなされた(前原48・1・17員面)ということもあり得るところである。更に、前原の右自白が、前記のとおり、その内容を虚偽とせざるを得ないダンボール箱製造についての自白と同一機会にされたものであることは、右のようなおのずからなる誘導の存在の疑いを一層深めるものであり、前原の右供述が他の者らに先んじてなされた事実も、右供述の信用性を高めるべき事情としては、さまで重視できないというべきである。

エ 佐古・国井アリバイ

(ア) 弁護人の主張と関連供述の概観

弁護人は、さきにも触れたとおり(第三章三1)、佐古らによるピース缶爆弾の持ち帰りに関連して、佐古、前原及び内藤の各自白並びに菊井の公判供述によれば、一〇月二一日の深夜あるいは二二日の早朝から午前中にかけて、佐古と国井は河田町アジト(あるいは若松町アジト)に泊っていたことになっているが、真実は、一〇・二一闘争のあった日の夜、佐古は、当時豊島区高松にあった兄の佐古靖典のアパートを訪れて泊っており(以下「佐古アリバイ」という。)、また、国井は、当夜外泊しておらず自宅に戻っている(以下「国井アリバイ」という。)のであって、これらのアリバイは、佐古らの右自白及び菊井の公判供述が虚偽であり、従って、佐古によるピース缶爆弾二個の河田町アジトへの持ち帰りという事実はあり得ないことを示すものであると主張する。

そこで、まず、佐古が一〇・二一闘争後の深夜ないし未明、河田町アジトにピース缶爆弾を携えて帰った際、同アジトに前原とともに在室したとされる者について、関係者の供述を概観してみると、佐古は、「もう一人の男」(佐古48・1・17員面、48・1・20検面)、あるいは「国井か内藤」(佐古48・1・24検面)と供述し、前原は、当初「国井」と供述したものの(前原48・1・17員面)、その後「内藤」と訂正し(前原48・1・21員面)、それ以降は一貫して「内藤」と供述しているところ(前原48・1・23検面、48・1・25員面、48・2・16検面、48・3・2検面)、内藤は、「二一日は菊井ともに河田町アジトに行ったけれども、自分自身は当夜菊井と若松町アジトに行き、泊った」旨供述し、河田町アジトに国井がいたことは述べず(内藤48・1・12員面、48・2・6員面)、また菊井の公判供述は、要するに、「二一日内藤とともに河田町アジトに引き揚げ、同アジトで前原と国井に会った。自分と内藤は、その後若松町アジトに帰ったが、翌二二日午前中(但し、午後との供述もある。)再び河田町に行くと、前原、国井、佐古、井上がおり(他に一名いたかもしれないとも述べる。)、佐古、井上からピース缶爆弾二個を持ち帰って押入れに入れてある旨聞いた」というものであって(九四回菊井証言一三三五三、九五回同一三四五三、一〇一回同一四四三六等)、確定し難い状況にあるが、これらの供述を総合してみると、少なくとも佐古が河田町に戻ったということは間違いのない事実のように見受けられ、また国井が当時前原とともに在室した可能性がある程度高いと推認させるに足る供述群であることを認めないわけにはいかない。従って、弁護人が主張するようなアリバイがあると認められるときは、佐古アリバイの場合は絶対的に、国井アリバイの場合はかなりの程度に、佐古及び前原の右ピース缶爆弾持ち帰りに関する自白の信用性を失わせるものである。

以下に判断を示す。

(イ) 佐古アリバイ

弁護人の主張を裏づけるものとしては、佐古靖典証言がまず挙げられるところ、同人の証言は、要するに、

「自分は、昭和四四年一〇月ころ、東京都豊島区高松のアパートに単身居住していたが、同年の一〇・二一闘争のあった日の夜、自分が寝ている時分に弟の幸隆が訪ねてきて泊っていった。翌朝の朝食を兄弟一緒にとったが、滅多にないことなのでよく覚えている。その際、弟が当日の朝日新聞朝刊の記事を見て、自分達のやったことが出ていると言ったので、自分も見た。記事は見落すような小さなものだったが、弟は『誰も運転する人がいないので、僕がやらされた』とか『失敗だった』とか話していた。その後、弟は朝出て行ったが、その前に時刻表を見ており、大阪へ帰る予定だったと思う」

というものであり(一五二回佐古靖典証言二六二九六)、佐古も公判廷で同旨の供述をする外、捜査段階の初期においても同旨の供述をしているところである(佐古47・11・17員面。なお、佐古47・11・30メモ通し丁数三八の「二二日朝兄貴の家から」の記載も同趣旨と認められる。)。

そして、右証言内容は具体的で現実親近性があり、その証言態度も率直で真摯なものであったと認められること、証言内容に符合する新聞記事が存在すること、前記のとおり、佐古も捜査段階の初期においては同旨の供述をしていたこと、佐古が一〇・二一闘争のあった夜実兄方に赴くことは、帰阪するに至る佐古の当時の心理状態(前記ウ(ア)参照)に符合しているように認められること等に照らすと、右証言は、にわかに排斥し難いのではあるけれども、他面、警察官も指摘するとおり、右靖典は佐古の実兄であり、これまで佐古の公判闘争救援活動に対する金銭的援助をして来ているなどの事実があること、更には、同人の証言は、起訴後約一〇年を経過し、検察官において有効な反対尋問ないし反証の提出を試みることが実際問題として困難な時点(第一五二回公判、昭和五八年一月二八日)においてなされたものであること(同人に対する証人尋問の請求は、比較的早期になされていた((第八六回公判、昭和五四年三月九日))のであって、採用取調べがこの時点となったことは、証人はもちろん弁護人側の責にも帰すべきものではないけれども)をも考えあわせると、右証言の信用性には相当の難点が存することを認めざるを得ず、結局これに基づいて佐古アリバイの成立が決定的であるとすることはできない。

(ウ) 国井アリバイ

国井アリバイの根拠として弁護人が挙げるものは、国井啓子証言及びポケット新日記一九六九年版(符一一二。以下、「ポケット新日記」という。)の存在であるが、以下に述べるとおり、弁護人の主張する国井アリバイは成立する蓋然性が高い。

国井啓子証言の内容は、大要次のとおりである。すなわち、

「私は国井五郎の母親であるが、毎年かかさず日記をつけており、昭和四四年もつけていた。当時は毎日の家計の出費、出来事をその日の就寝前に自ら記帳する習慣であった。『ポケット新日記』はこのようにして昭和四四年に使用していた日記である。『ポケット新日記』の五月三一日欄から一〇月四日欄まで頻出する『泊』なる記載は、五月三〇日以前に出てくる『五郎泊』あるいは『泊』と同じく国井五郎が当該記載日に外泊したことを示すものである。『ポケット新日記』の一〇月二一日欄には『泊』の記載がないので同日は杉並区上高井戸(当時、現在は久我山)所在の自宅に五郎が帰宅していることになる。のみならず同年の一〇月二一日が一〇・二一国際反戦デーであることは五郎から聞いて知っており、そのため五郎が新宿の方でデモに参加することは分っていた。当日デモをやっている状態をラジオかテレビで知り、五郎の身が心配になり、同じ年頃の子をもった新宿に住む知人の戸井某に電話し、場合によっては五郎を泊めてくれるよう依頼し、承諾を得ておいたが、五郎は結局帰宅したので後日戸井に電話で謝意を表した記憶がある」

というものである(一五七回国井啓子証言三三〇一七)。

そして、右証言内容は、具体的で不自然なところはなく、同女の証言態度も真摯誠実なものと認められ、かつ、国井五郎は本件ピース缶爆弾事件については、現在起訴されておらず(国外に在住して当分帰国の意思のないことが窺われる。)、したがって同女は、特段、国井のため、ひいて被告人らのために偽証をあえてする必要性に乏しい第三者的立場にあるといってよいばかりか、前記「ポケット新日記」の一〇月二一日欄には、同女の証言のとおり「泊」の記載はなく、他方、同日記の日々の記載状況等からみて、同日記に偽造その他の事後的な作為の跡は何ら窮われず、その記載内容は信憑性が高いと認められるのである。

これらの諸点に照らすと、国井啓子証言の信用性は高く、国井五郎が一〇月二一日夜は自宅に戻っていた蓋然性は極めて高い。

(エ) まとめ

以上のとおり、佐古アリバイの成立は決定的とは言えないものの、これを一概に否定し去ることもためらわれるところであり、国井アリバイの成立の蓋然性は甚だ高いのであるが、いずれにせよ、これらの点は、佐古らの爆弾持ち帰りという事実の存在に、かなり大きな疑問を投げかけるものである。

オ 結論

以上ウ及びエで述べた諸点を総合考慮するときは、一〇月二一日夜ないし二二日未明、佐古及び井上が河田町アジトまでピース缶爆弾二個を持ち帰ったとする佐古及び前原の捜査段階における供述に真実性を認めることは困難であるといわなければならない。そして、そのことは、本件に用いられた爆弾の入手先を不明確にし、かつ、右供述と一連のものである本件に関する佐古及び前原の各自白の信用性を一段と薄弱ならしめるものである。

(2) 「シャンネル・プランタン会談」(佐古供述)

ア 序説

佐古は、前記(本章一2)のとおり、法大図書窃盗事件について勾留中、昭和四七年一二月二八日保釈され、翌昭和四八年一月八日アメリカ文化センター事件で再逮捕されたのであるが、その後、同年一月一九日に至り、保釈中に東京の喫茶店「シャンネル」や「プランタン」で増渕及び江口と会い、アメリカ文化センター事件に関して話し合ったことがある旨供述し、それ以降も、捜査官に対し、その状況を繰返し詳細に供述している。

この話し合いが、いわゆる「シャンネル・プランタン会談」であって、その内容は、見方によっては増渕がアメリカ文化センター事件に関与していることを示すもののようでもあるほか、佐古は、増渕や江口が、右「会談」の過程で、いわゆる日石、土田邸事件に触れる話をした旨の供述をもしたため、これをきっかけとして、増渕らに対し、これらの事件に関する捜査が進められることとなったのである。

イ 検察官の主張

そこで、検察官は、右供述を「重大な事実を暴露する供述」(論告要旨四〇三三五三九)と評価し、当時、佐古がアメリカ文化センター事件等について自己の刑責を認め、自白を維持していたことや、それまで受け入れて来た救対からの差し入れを断ったことをも併せ考え、右供述は、そのころ、佐古がすべてを明らかにして罪を清算する心境になっていた証左であるとしてこれを重視するのである。

ウ 佐古供述の概要

「シャンネル・プランタン会談」に関する佐古供述の概要は次のとおりである。すなわち、

「一月四日夜、増渕の実家の近くである御徒町のシャンネルという喫茶店で増渕と会った。私が『俺達爆弾事件にどの程度関係しているんだろうか』と話を持出したところ、増渕は『そんなものは俺は全く知らん』と無視するような態度だった。そこで私が『でも俺は何かへんなことをしゃべったみたいだ。四四年にアメリカ文化センターに爆弾を仕掛けたことがあるのか』と尋ねると、増渕は『アメリカ文化センターに、そんなものは俺は知らん。お前何をしゃべったんだ』と聞いてきた。増渕は別に驚いた様子でもなく平然とした態度であった。私が『村松がそのことを話しているので自分はよく判らないが認めてしまったんだ』と嘘をついて増渕の様子をみると、増渕は『そんなことを認めて馬鹿だな。そんなことをしたらお前は爆取に引っかかるかもしれんぞ』と言い、更に、『アメリカ文化センターに爆弾を仕掛けたのは村松と西宮だと聞いている。俺達は一〇・二一以後赤軍とは連絡をとっていなかったんだ。調書で言っていることをひっくり返せるものならひっくり返せ』と言った。私は増渕の話を聞いて、半信半疑だった。私自身記憶がはっきりしないこともあったので、増渕が言うのが本当だとすると自分が断片的に記憶していることはどうなるのかなと複雑な気持だった。しかし、この時には、警察で増渕がリーダーであったと供述していることなどを話してないので、増渕は自分と関係ないということで平気な顔をしていたのだと思う。翌五日午後一時半過ぎころ、右シャンネルで再び増渕と会い、増渕に『アメリカ文化センターで増渕がリーダーになっている』と話したところ、増渕は少しびっくりしたような表情で『なにを、どうして俺がリーダーになっているんだ』と尋ねてきた。私が『俺がやったんならお前がリーダーということになるんじゃないか』という意味のことを言うと、増渕は『なにをしゃべったんだ。変なことをしゃべるなよ。俺は知らんぞ。俺はそのころは赤軍とはつながりがなかったんだ。変なことをしゃべると爆取に引っかかるかもしれんぞ。ひっくり返せるのならひっくり返してしまえ』と言っていた。その後、同日午後七時ころから、渋谷のプランタンという喫茶店で増渕及び江口と話したが、その際、江口が『私達の爆弾関係はどうなの』と切り出し、これに対し、増渕が『佐古が変なことをしゃべっているみたいなんだ』と言うと、江口は『なに、しゃべっているって』と一寸びっくりした様子だった。増渕が『アメリカ文化センターの爆弾に俺がリーダーになっているらしいんだ。俺は、それは村松と西宮がやったと聞いている。俺達はなにも関係ないはずなんだ』と説明すると、江口は『じゃ村松さんもなにか聞かれるかもしれない。佐古さん、もっと詳しく話してみてよ。どんな調書を取られたの』と真剣に聞いてきた。私が『よく憶えてないんだ。なにか江口さんの所で爆弾を作っているような話をしているんだ』と答えると、江口は急に怒り出したような態度で『なんですって、私そんなの知らない。私そんなもの見たこともないし、そんな爆弾は何も関係していない。変なことしゃべらないでよ』と強い調子で言った。私は叱られたので、弁解するように『村松からそんな話が出たんだ。赤軍の幹部もそんな話をしている。だから俺もよく覚えていなかったが認めてしまったんだ』と嘘をつくと、江口は、『どうしてそんなことを認めてしまうのか。じゃあ私達ももしかしたら逮捕されるかもしれない。佐古さん、今度逮捕されたら黙秘しなきゃあ助からないわよ』と話してきたので、私も『今度逮捕されたら気をつけるよ』と答えた。その後は、急に江口が六月の爆弾の話を始め、日石、土田邸事件にも触れる話をした」というのである(佐古48・3・3検面、48・3・5検面。なお、48・1・19員面、48・2・14員面、48・3・1員面、48・3・4員面、佐古48・2・16メモ通し丁数六六、48・2・18メモ通し丁数七三、七四、48・2・17メモ通し丁数八五ないし九〇、48・2・28メモ通し丁数九三ないし九八)。

佐古はまた、公判廷においても、日石、土田邸事件に関する点を除き、ほぼ同趣旨の供述を繰返している(四六回佐古供述⑰四七七八、五八回同六四九九、一〇九回同③四八六、一一〇回同③六一〇、一一六回同④一〇〇三、九部二七六回佐古証言二七六〇三、二七六〇七、九部二七八回同二七六六八等)。

エ 増渕及び江口の供述

これに対し、増渕は、捜査段階において、大要、「昭和四八年一月四日、佐古が訪ねて来て御徒町の喫茶店で話した際、佐古は、昭和四四年一月初めころ、俺たちは何をしていただろうと言ったので、平野たちを逃がしていたと答えたが、翌五日、再度シャンネルで会った時、佐古が『昭和四四年一一月一日アメリカ文化センターに爆弾を仕掛けた話を警察にしてしまった。覚えはなかったのだが、そんな風になってしまった。爆弾は江口が造り、佐古、村松、増渕が仕掛けたと言われたので認めた』と言ったので、そんなことは絶対にないと打ち消した上、同日夕刻、あらためて渋谷のプランタンで江口及び佐古と会い、佐古に対して、俺たちはそのころ赤軍と連絡が切れており、そんなことはありえないと言うと、佐古も、俺も全然覚えがないんだと言っていた。この時、これに関連して、自分は『事件をやったのは西宮と聞いている。村松は赤軍と連絡をとっていたかも知れない』という話をした。西宮の名を出したのは、前田祐一からそのように聞いていたからである。」と述べており(増渕48・2・12検面、48・1・26員面)、公判段階でもほぼ同旨の供述をしている(三九回増渕証言⑮四一五七、四四回同⑯四六一五、一五三回同三一〇七二等)。

また、江口は、捜査段階において、昭和四八年三月一〇日ころ以降、同年一月に喫茶店プランタンで増渕及び佐古と会ったこと、その際増渕が「自分はアメリカ文化センター事件で逮捕されるかも知れないが、絶対やってない。森谷のことは黙っていてくれ」というようなことを言ったこと、日石、土田邸事件のことを自分の方から出したことは絶対になく、他の二人もそんなことは話していないことなどを供述した模様であるが((員)廣瀬喜征48・3・10取報、同48・3・25取報(二通)、同48・4・1取報。なお、右48・3・10取報に江口が増渕と喫茶店で会ったのを昭和四七年一月としてあるのは、昭和四八年の誤記と思われ、また48・3・25取報((同日の取調状況に関するもの))では昭和四八年一月六日に増渕とプランタンで会った旨の記載となっている。の1二三三〇四、二三三〇七、二三三三六、二三三三九、二三三四〇、二三三四四、二三三六五、二三三七〇)、本件で取調べた江口の捜査官に対する供述調書にはその点の記載のあるものは存しない。公判段階では、江口は、昭和四八年一月五日に、渋谷のプランタンという喫茶店で、増渕及び佐古に会ったことがあり、その際、佐古から、アメリカ大使館に関するもののように思えた爆弾事件の追及を受けた話が出て、増渕も佐古も自分たちはやっていないと言っていたけれども、真実味が感じられず、本当はどうなのかなと思った旨述べている(三二回江口証言⑬三四二一)。

オ 会談の実在

以上のような佐古の供述態度及び供述内容の一貫性に加え、増渕及び江口の各供述も佐古の述べるところと基本的に一致することに照らすと、右日時場所において、日石、土田邸事件への言及はともかく、アメリカ文化センター事件に関しては、佐古の捜査段階における供述とほぼ同様の会話が、佐古、増渕及び江口の間で交わされたものと認めて差支えないであろう。

カ 考察

ところで、右のような会話を、どのように理解すべきであろうか。

検察官の主張するところによれば、アメリカ文化センター事件は、増渕が中心となり、佐古が村松外一名と共にこれに荷担して敢行されたものである。しかるに、右会話において、佐古は、右事件に自分も関与しているのかどうかを尋ね、増渕は、自分がこれに関係していない旨答えている。少なくとも、その文言上は、犯罪を共に実行し、その記憶を有する者同士の会話であるとはいえない。

次のような見方も一応成り立つであろう。佐古も増渕もアメリカ文化センター事件の犯人であり、二人ともそのことを知悉している。そして、佐古は前年末にそのことを自供してしまった。しかし佐古はそれを明らさまに増渕に告げることがためらわれた。そこで、俺たちは爆弾事件にどの程度関係しているのだろうというような問いかけに始まる一連の会話の中で、それとなく自分がアメリカ文化センター事件への関与を自白したことを示し、増渕にも警戒を促すとともに、善後策を問うた。増渕は、佐古の意のあるところを直ちに察知して、驚愕、困惑したけれども、これを外にあらわし、あるいは佐古を叱責し、若しくは自供の内容を問い質すなどの挙に出るときは、今後更に続くことの予想される取調べの中で、かねて口の軽いことを知っている佐古が、そのような増渕の反応まで捜査官に供述することを慮り、平然たる態度を保ち、身に覚えがない様子を装うこととし、自分が関係していないことを示す徴表となるべき事項として赤軍との関係や、真犯人の名を出しておいた。真犯人の名としては、佐古が捜査官に供述しても差支えないような、増渕としては事件に無関係と考えていた村松及び西宮の名を出した(もっとも、この点は、咄嗟のことで、思わず真実を述べた不用意な発言と見ることもできよう。)。そして、善後策として、供述を翻えすことを命じた。事件に関係のある江口にも、佐古の話を聞かせ、危険の迫っていることを警告するとともに、状況判断の資料を提出しておいた。その際、狼狽した江口が、六月爆弾のことなどを口走ってしまったが、これも、あわてて口止めするようなことはせず、黙殺的態度にすごし、ただ、江口からも佐古に供述を翻えし、あるいは黙秘するよう言わせておいた。このようなことが考えられなくもない。

しかし、右のような見方は、要するに、かなりうがった憶測であるにとどまり、佐古の供述する右「会談」の内容から一義的に出て来るものとは言えず、かえって、佐古が公判廷で述べるところを前提とすれば、逆の見方も成立つのである。

佐古は、公判廷において、増渕に対し右のような問いかけをしたことにつき、前年、記憶が明確でないのに、爆弾事件をやったような自白調書を作られてしまったので、今後どうしたらよいか不安となり、当時信頼していた増淵に相談し、特に、自分が実際に爆弾事件の犯人なのかどうかを確めたかったのであるが、前年に自供したことについては話しづらかったなどと供述する(五八回佐古供述六五〇〇、一〇九回同③四八六等)。更に、佐古は、増渕が、昭和四四年一二月末ころから翌四五年二月ころにかけて赤軍派の幹部会議に出席するような地位にあったことを知っており、また増渕が昭和四五年の五、六月ころ、爆弾教本を佐古に示したり、赤軍派の幹部に爆弾の作り方を教えると言っていたばかりでなく、梅津方で硝火綿の実験をしているのを目撃したこともあって、増渕は爆弾についての知識があり、他人にも作り方を教えられるほどであると思っていたほか(五三回佐古供述⑳五八二九、一〇八回同③四二一、佐古47・11・18メモ通し丁数八等)、村松が、昭和四四年一〇月ころ、「紙火薬を集めて爆弾が作れる」とか、時計を分解して、「これで時限装置付きの爆弾が作れる」とか言ったり、あるいは昭和四五年ころ、「(村松が昭和四四年九月ころ住んでいた)フジテレビ裏のアパートでピース缶爆弾を作った」と言ったりしていたこと(一〇八回佐古供述③四二八、九部二七六回佐古証言二七五七八、二七五八五、佐古47・11・20ないし12・14メモ通し丁数三三、三四、佐古47・11・18メモ通し丁数八等)などから、昭和四七年一二月一一日の自白以降、アメリカ文化センター事件の取調べが本格化する中で、取調官が言うように(取調官は、増渕が赤軍派の幹部会議に出席できたのは爆弾闘争の実績を買われたからだなどとも言ったとのことである。)、増渕及び村松は同事件に関与しているのではないか、当時両名と行動を共にすることの多かった自分も、それとは知らされないまま、何らかの形で犯行に利用され、荷担させられていたのではないかと考えるようになったが、反面、犯行についての記憶が明確でなく、疑問があるので、増渕に会って話を聞き、真相を確めたいとの気持であった、とも述べる(一〇八回佐古供述③四一五ないし四七四、一〇九回同③四八二ないし五〇九、一一〇回同③五四八、五八八等)。

佐古の右公判廷供述は、いうまでもなく、検察官の主張と異なり、佐古がアメリカ文化センター事件に関与していないこと、少なくともこれにつき確たる記憶のないことを前提とするものであるけれども、それなりに筋が通っていて一概に斥けることは困難であり、また、右問いかけに対する増渕の態度も、増渕がアメリカ文化センター事件については直接の関与をしていなかったものと仮定すると、これまた一応は一貫しているということができよう。

そうすると、右「会談」は、アメリカ文化センター事件への荷担の有無につき自信のない佐古と、右事件につき身に覚えがなく、村松、西宮の犯行と聞いていた増渕との会話ということになり、かつ、それは、会話の用語自体に沿うところである。

このような印象を与え、増渕らをかばうため、佐古が取調官に対し、右「会談」について供述する際、特に作為、潤色を施したと考えることも困難である。右「会談」に関する供述が六月爆弾のみならず、日石、土田邸事件に関する発言等までをも含み、これがきっかけで増渕らの逮捕となっているからである。のみならず、もし、捜査の初期からそのような試みをするだけの周到さが佐古にあったのなら、むしろ取調官には知られていなかったはずの右「会談」自体について、沈黙するというはるかに有効な方策をとっているのではあるまいか。

キ 結論

このようにみてくると、佐古の供述する「シャンネル・プランタン会談」の内容は、一見奇妙で不自然な問答であり、佐古及び増渕がアメリカ文化センター事件の犯人であることを窺わせるようでもありながら、結局、そのように断定すべき根拠とはなり得ず、かえって、その逆の可能性を指し示すもののように考えられるのである。

すなわち、右「会談」に関する佐古の公判廷供述は、ほぼ真実を反映するものと認めてよく、従って、ここで交わされた会話の内容は(本件に関する限り、もともと、「重大な事実の暴露」を含むというにあたらないのであるが)、本件への関与を認める捜査段階における佐古の自白と相容れないこととなり、その信用性を減殺する性格のものであるとしなければならない。

3  佐古及び前原の各自白の信用性

(一) 総括

右2で検討して来たように、本件についての佐古及び前原の各自白には、(一)証拠物との関連においても、(二)自白の内容自体についても、多数の疑問点が存在する。そして、村松や増淵の自白が、これらの疑問を解消し、あるいはその空白を補完するとも言えない。ひとつひとつの問題点を個別的に取り上げれば、記憶の変容、希薄化ないし消失、あるいは供述者自身によることさらな虚偽の混入若しくは真相の秘匿などとして説明することができなくもないであろうけれども、これだけ多数の問題点が各供述の殆んど全般にわたって存することを考えれば、そのような説明を試みることはあまりにも姑息であって合理性を欠き、むしろ許されないと言うべきであろう。

更に、右2の(三)で見たとおり、「一〇・二一爆弾持ち帰り」及び「シャンネル・プランタン会談」を内容とする各関連供述も、右各自白の信用性を薄弱ならしめ、あるいは減殺するものである。

佐古及び前原のアメリカ文化センター事件に関与した旨の各自白は、いずれもその信用性が極めて低いものとしなければならない。

(二) 自白の要因等

それでは、佐古及び前原は、なぜこのような自白をしたのであろうか。また、前述した各自白の信用性を肯定する方向に働くと思われる諸状況(二1)は、どのように考えるべきであろうか。

(1) 佐古自白

佐古のアメリカ文化センター事件についての自白は、本件ピース缶爆弾事件の他の被告人らあるいは共犯者とされる者らに先立ってなされた最初の自白であり、検察官側からみれば、いわば本件ピース缶爆弾事件解明の突破口となったものである。そのような自白を、真犯人でないのに佐古はしたというのである。このことは、当裁判所も強く疑問を感ぜざるを得ないところである。

ところで、佐古は、公判段階において、右一連の自白をするに至ったきっかけについて、次のように繰返し供述する。すなわち、昭和四七年一一月下旬から一二月初めにかけて、取調官である好永巡査部長から、ピース缶爆弾事件はお前達がやったのではないかと厳しく質問され、何らかの形で関与しているのではないか、事件に関係のある車の運転でもしているのではないかという気持になり、そのようなことを思い出そうと努力しているうち、「真暗な中から車が出て来て、真黒い人間が二人降りて、何も持たずに帰って来た」というぼんやりした記憶のようなものが浮かんできて、これは事件に関係のあることではないかと思われたので、警察官に話してその判断を求めようと考え、さきに窃盗事件で逮捕された際大阪から東京まで身柄を押送されて面識のある多田巡査部長がたまたま来て雑談していた機会にこのことを話してみたところ、結局これが虎の門のガード付近を運転したこととなり、アメリカ文化センター事件と結び付けられたのであるが、自分としては、なるほどそうだったのかという感じで受けとめ、以後、問われるままに、明確な記憶のないことでも次々と供述するようになった、というのである(四七回佐古供述⑰四九七四、五五回同六〇〇〇、六〇一三等)。

右弁解は、一見いかにも奇妙であって、たやすく措信し難いようであるけれども、あわせて、さきに1(二)に摘記したものを含め、佐古が本件ピース缶爆弾事件に関する自己の自白全般にわたり、その自白の状況と心理として公判段階で縷述するところを虚心に聴き、かつ、そもそもその自白に今まで見て来たような多数の問題点が内在することのほか、本件訴訟に現われた一切の事情を総合して考察するときは、右弁解を一概に否定し去ることはできず、むしろ、これを手がかりとして次のように考えてよいのではあるまいか。

佐古は、昭和四七年一一月三日法大図書窃盗事件で逮捕されて以来、同事件はもとより、余罪であるいくつもの窃盗事件について自白し、あるいは昭和四四年及び昭和四五年の佐古、増渕らの活動状況について詳細なメモを作成するなど取調に対し協調的であり、取調官とは比較的友好的雰囲気にあった。一方、捜査当局は、前記(第四章三1(一))の石田茂の供述、佐古44・11・17員面のピース缶爆弾に関する供述、あるいは佐古メモ中の同爆弾についての記載内容から、佐古らL研グループが当時未解決であったピース缶爆弾事件に何らかの関係があるのではないかとの嫌疑を抱き、佐古に対し、厳しく追及を始めた(但し、佐古が公判廷で供述するような、佐古をアメリカ文化センター事件の犯人と断定しての取調べであったと認められないのは前記二1(一)のとおりである。)。これに対し、前記2(三)(2)カに摘記したような村松の言動などから、村松らがピース缶爆弾事件の犯人ではないかとの疑いを抱き始めていた佐古は、取調官との友好的雰囲気の維持を考え、その顕著な迎合的性格に基づき、茫漠とした記憶の中から、前記のような「真暗な中から車が出て来て、真黒い人間が二人降りて、何も持たずに帰って来た」というイメージを形成、増幅して行き、取調官の意を迎えるとともにその反応を見るため、右イメージにつき、供述した。すると、これがアメリカ文化センター事件に結びつけられ、その後引き続き取調を受ける中で、取調官の質問に如才なく答えたいためにした場当たり的な発言が明確な供述に転化させられ、調書に録取されるようなことを通じ、記憶と想像の区別が曖昧になり、徐々に自分自身の関与の有無も判然としない状態になって行き、更にこれが新たな供述へと増幅され、フィードバックされるに至った。そして、その後、捜査段階を通じ、一貫して自白が維持され、かつ、その自白の内容が具体的かつ詳細になっていったについては、取調を受ける過程でその迎合的性格が一層助長されたことのほか、公判廷供述においても顕著にみられるような佐古自身の饒舌、多弁の傾向が影響している。佐古が坊主刈りにしたのも、窃盗事件の取調や「一〇・二一ピース缶爆弾の所持」の供述を通じて形成されていた取調官との友好的雰囲気維持に連なる迎合的行動である。

このようなことが可能性として考えられるばかりでなく、このように考えることによってはじめて、佐古の取調段階における態度と公判段階における態度とを統一的に理解できるのではあるまいか。かつ、以上のように解するときは、前記シャンネル及びプランタンにおける佐古の増渕に対する言動もなお一層よく理解できるのである。

(2) 前原自白

前原は、既に見たとおり(二1(一)(3))、比較的短時日の取調で自白するに至ったのであって、真犯人でないのに自白したとするには、一般的に言って相当な難点がある。しかし、さきに摘記した公判段階における自白の理由についての弁解(二1(二))、すなわち、取調官に対し、誠実な態度を示すため、明確な記憶のないことでも認めたとするところは、一見信じ難いようであるけれども、前原自白に含まれている上来説述の諸問題に鑑みれば、これを一概に虚偽、作為として排斥し去ることはできず、前原にも、佐古ほどではないにせよ、その性格に迎合的傾向の存することが窺われると言うべきである。その上、前原に対しては、これまで指摘して来たように、佐古の自白に基づく追及がある程度厳しくなされた蓋然性が強いから、これに対して、前原が、右のような性格から、さしたる抵抗も試みることなく迎合した結果、速やかな自白となったと考えることができる。

また、1(一)(4)で指摘した菊井宛の手紙の中にある「アメ文のタイマー、乾電池を見たことを思い出したのはマズかった」との文言は、公判廷供述等から窺われる前原の文章表現力のほか、右手紙の前後の文脈をも考えあわせると、表現として甚だ舌足らずであるが、「タイマーや乾電池を見たということを思い出した旨の供述をしたことはマズかった」の意と解すべきもののように思われ、少なくとも、右文言をもって、前原自白の真実性を指し示すものであると断定することはできない。

更に、前原が、重罪である本件を自白する一方、比較的軽い罪であるはずの法大図書窃盗については否認を貫いたことは、右窃盗が敢行されたころ、前原は郷里に帰って盲腸炎の手術をしており、明白なアリバイがあったことによるのであって、何ら異とするに足りない。

三 村松の自白

1  自白の状況

村松は前記一2に記載のとおり、昭和四八年一月二二日アメリカ文化センター事件で逮捕され、否認のまま同年二月一二日起訴されたが、翌一三日自白を始め、以後捜査官に対しては自白を維持していたものである。

2  自白の内容と疑問点

村松の自白は、簡略性、曖昧性が特徴的であって、具体的な出来事の描写としての臨場感に欠けるものである。自白の内容をみても、タイマーへの落書きは認めるものの、肝心の時限装置の製造状況について具体的には供述せず、アメリカ文化センターへ爆弾の設置に赴く状況についても、井上が迎えに来たので同行したに過ぎないとし、更に爆弾設置を実際に担当したのは増渕と井上である(仮に村松の供述どおりとすれば、村松が同行する理由は皆無となり不自然である。)と供述するなど、その供述には犯行に対する自己の関与の度合を最小限度にとどめようという態度が看取される。

また、村松は、公判廷において、取調官から追及される内容が、村松自ら時限装置を製造し、アメリカ文化センターにも自ら仕掛けたという極めて積極的なものであったばかりでなく、佐古、前原らもそのように自白している旨聞かされていたことから、起訴された以上、否認を続けていたのではかえって不利になると考え、事件への関与は認めつつ、事件における役割を最小限度のものにしようとして自白に至った旨弁解するのであるが(八一回村松供述一〇八二四、八〇回同一〇七三〇、一〇七三七、一〇七四七、一〇七五七、一〇七七三、一五四回同三二五五四、三二五五八等)、前記諸点をも併せ考えるときは、これをたやすく排斥することはできないように思われる。

3  村松アリバイ

村松はまた、公判段階に至り、本件につき、いわゆるアリバイがある旨を述べている。その趣旨は、要するに、自分は一〇月三一日夜赤軍派の占部均及び江川某とともに赤軍派による首相官邸襲撃用のトラックを調達すべく千葉県方面に向かい、翌一一月一日未明ダンプカー一台を窃取し、これを松戸近辺の江戸川川原付近まで運転してその場に隠匿した後、若松町アジトの菊井の部屋に戻り、同アジト若しくは更に立ち戻った風雅荘の自室のいずれかで午後一時か二時ころまで寝ていたので、自分は本件に参加しているはずがないというものである(七九回村松供述一〇五四〇、八〇回同一〇六六四、一〇七七四、一〇九〇二、九部一六八回村松証言三一六一〇、一五四回村松供述二二五五五等)。

既に認定したように(第四章二3(七))、右ダンプカー窃盗の事実(被害日時一一月一日午前零時から同四時四〇分までの間、被害場所 千葉県柏市根戸三八一番地路上)は認められるけれども、問題は、その後における村松の行動であり、この点に関する村松の供述はにわかに措信し難く、他にこれを裏付けるに足る証拠もなく、厳密にはアリバイがあるということはできない。しかしながら、同日江戸川付近にダンプカーを隠匿した後、若松町アジトに戻った上、アメリカ文化センターに爆弾を仕掛けに行くことは、それ自体相当な強行軍であることは認めざるを得ず、当日アメリカ文化センター事件を強行する絶対的な必然性があったというのであれば格別、そのことを窺わせるような証拠は皆無であることを考慮すると、「通常アメリカ文化センター事件のような重大な犯行に及ぶ場合には、その中心的人物であればあるほど事前の下見、連絡、謀議、その他の準備に精力を費すものであることは経験則上容易に推測し得るところであって、同事件で村松が担ったとされる役割の大きさや時限爆弾を仕掛ける実行行為の共犯者(氏名不詳の赤軍の者)と終始行動を共にしていたとされる点からみても、直前に全く別の犯行に参加しているということはまずあり得ないところである」旨の弁護人の主張(最終弁論三四〇三三九五九)は傾聴に値し、村松の右ダンプカー窃盗参加の事実が、その意味で、村松のアメリカ文化センター事件への関与についての合理的確信を妨げる一の事情となりうることは否定できない。

4  「シャンネル・プランタン会談」における増渕発言

前記(二2(三)(2))のとおり、いわゆる「シャンネル・プランタン会談」の席上における増渕の発言中に本件の犯人の一人として村松の名が出されたことが認められるけれども、その名が出された理由につき、前記のように相反する見方があり得るのであって、右名指しの事実をもって村松が本件の一犯人であることの一証左であり、村松自白の信用性を高めるものであるとすることはできない。

5  村松の自白の信用性

以上のような村松の自白の全体的特徴、その内容、供述態度及び自白をするに至った動機並びに右「アリバイ」の点などを勘案すれば、右自白に信用性を認めることは甚だ困難である。

四 増渕の自白

1  自白の状況

増渕は、前記一2記載のとおり、昭和四八年一月二二日アメリカ文化センター事件で逮捕され、否認を続けていたが、取調官からL研のリーダーとしての責任をとるべきであるとの観点からの説得、追及を受けた結果、同年二月一〇日同事件の実行を指示した旨認め、同月一二日起訴され、更にその後同年三月一日以降犯行の具体的状況を自白するに至ったものである。

2  自白の内容と疑問点

しかし、増渕の自白は最終的なものでさえ極めて概括的で、具体的な出来事の供述としてはあまりにも臨場感ないし現実親近性がなく、更にその内容を事項毎に証拠物、あるいは証拠物等他の証拠から合理的に推認される事実、ないし他の共犯者とされる者の自白内容等と比較検討すると、次のような疑問点を指摘せざるを得ない。すなわち、

(一) ダンボール箱製造の指示に関する供述は、既に検討したところ(二2(一)(1))から明らかな如く虚偽とせざるを得ないこと

(二) ピース缶爆弾の改造に関する供述、時限装置と爆弾本体の取り付け場所に関する供述、アメリカ文化センターの下見に関する供述、アメリカ文化センター事件の結果を確認した状況に関する供述等がそれぞれ変遷を示し、かつ、変遷の前後を問わず佐古、前原らの自白と異なり、他の共犯者あるいは関係者とされる者から裏付けが得られていないこと

(三) アメリカ文化センターへ爆弾設置に赴く際の自動車、実行メンバー、爆弾設置後の村松らに関する状況として述べるところは、いずれも佐古の自白あるいは佐古及び村松の自白と異なること

(四) ピース缶爆弾改造の具体的状況(増渕のこの点に関する供述は概括的に過ぎる。例えば、電気雷管の入手先、塩素酸カリウムと砂糖の混合作業の状況、改造作業の手順等について何らの供述もない。)、時限装置の構造、アメリカ文化センターを攻撃の対象に選定した思想的、政治的な理由(増渕は、この点に関し、「位置付けができない、相当に混乱していたのではないか」と述べるが((増渕48・3・1員面))、問題は事後的な評価ではなく、事件当時の考えである。真実、首謀者としてアメリカ文化センター事件を遂行したのであれば、具体的な攻撃理由を忘失することなど考えられない。)、犯行日時を一一月一日土曜日午後一時過ぎと決定した理由等、真犯人であれば、当然言及して然るべき事項について供述がないこと

以上である。

もとより、増渕が、捜査を攪乱し、後日の裁判において争うべく、故意に真実を秘匿し、あるいは虚偽事実を混入し、他の共犯者とされる者の供述内容と違えた供述をした可能性を否定することはできないが、それならば、一層その供述に信を措くことはできないであろう。

以上の諸点に加え、増渕の取調官が、増渕の供述態度について、「細かなことを話したがらず、その態度を見ていると本当のことを話していない感じ。捜査を間違った方に引きずっていく感じ」との印象を持ち(九部二一一回水崎証言二二〇九一)、あるいは「本当のことと嘘のことをミックスして話すので、増渕の供述は全面的には信用せず心証をとろうとした」と述べる(一三〇回高橋証言二三四二八、二三四四三)ことも、増渕の右自白の信用性の判断にあたって留意されるべき事柄である。

3  「シャンネル・プランタン会談」

佐古の供述する「シャンネル・プランタン会談」の内容は、さきに二2(三)(2)で述べたとおり、増渕が本件の犯人でない可能性を指し示すものと考えられることを付言する。

4  増渕の自白の信用性

以上の諸点を総合するときは、増渕の自白の信用性については多大の疑問をさしはさまざるを得ないのである。

五 前原文化センター発言(菊井供述)及び前原アリバイ

菊井は、公判廷において、昭和四四年一一月二日か三日ころの午後か夕方、前原が若松町に菊井を訪ねてきた際、二人して同月二日の新聞(朝刊)のアメリカ文化センター事件の記事を見たが、その時、前原から、同事件に関与した旨、及び村松と佐古が爆弾を仕掛けに行き、前原も改造に一役買った旨の発言(前原文化センター発言)を聞いたと供述しているところ(九五回菊井証言一三四六四、一〇〇回同一四二六〇、一四二七〇、一五六回同三二九四〇等)、「時限装置、箱づくり等菊井には詳しく話している」旨の右菊井証言に見合うかのような前原の捜査段階における供述もあり(前原48・2・3検面。もっとも、前原は、いつ、どこで、どのように話したかについては具体的に供述していない。)、これらは検察官が主張するように(論告要旨六〇三三五四九)、一見相互にその信用性を高めあっているようにも見える。

しかし、他方、菊井証言については、後記のとおりピース缶爆弾製造事件に関し、その信用性に多大の疑問があるところ、アメリカ文化センター事件に関する右証言は、その証言の経緯に照らし、製造事件関係の証言と一体のものとして評価されざるを得ない面を有すること、前原の捜査段階における供述は、最終的にも、爆弾を仕掛けに行った者が誰であるかは知らないというものであって、その点で菊井証言と内容的な不一致が認められること、池袋配膳紹介所用ノート一冊(符一〇九)及び健康保険印紙ちょう付票(符一一一)によれば、前原は一一月二日午前一一時から午後七時まで東京都千代田区六番町所在の主婦会館において、同月三日は午後零時から午後四時まで同会館において、その後午後四時三〇分から午後九時まで千代田区内幸町所在の帝国ホテルにおいて、いずれもアルバイトとして稼働していた可能性が強く(青木はな員面三二八三五添付の前原和夫の就労状況一覧表及び就労確認表三二八二三には右両日の前原のアルバイトについて何らの記載もないが、右両日については、日雇労働者が稼働する日毎に発行される健康保険印紙ちょう付票が主婦会館名義で出されていること並びに一五五回前原供述三二七四四及び前記池袋配膳紹介所用ノート一冊中の賃金明細部分の記載状況に照らすと、アルバイト料金は右ノート記載のとおり支払われているものと認められることによる。)、この事実は、菊井が前記のように前原文化センター発言を聞いたと証言する日時には、前原が若松町アジトを訪ねていない証左となるもの(前原アリバイ)であること等を総合すると、前記菊井証言はにわかに信用することができない。

以上のとおり、前原文化センター発言の実在自体極めて疑わしく、もとより、これをもって前原の本件への関与を認める証拠資料とすることはできない。

六 前原の「檜谷伝言」

検察官は、前原が、アメリカ文化センター事件及び八・九機事件につき自白をし、製造事件について追及を受けていた昭和四八年二月二八日、取調のため東京地方検察庁に押送され、同行室で待機中、当時窃盗、詐欺事件被疑者として麹町警察署に勾留され増渕と同房であった檜谷啓二から、増渕の同房者である旨を告げて接触されるや、同人に対し、自己の取調状況及び供述状況を増渕に伝えるよう依頼した事実があることをとらえ、前原が、真実犯人でなく、濡れ衣をきせられている者であるならば、自己が受けている不条理な処遇について全く語ることなく、右のような点のみの連絡を試みるはずがないと主張する(論告要旨五四三三五四六)。

そこで、まず事実関係をみると、檜谷啓二48・3・12検面二六六九一によれば、「自分は、昭和四八年二月一二日窃盗罪等で麹町署に逮捕され、その後引き続き勾留されている者であるが、同署内で増渕と同房となり、増渕が東海大学の先輩であることなどがわかって、気が合い、増渕も自分を信用してくれたためと思うが、増渕の事件の内容や共犯者などについて打明けてくれるようになった。そうするうち、同月二七日増渕から共犯者の堀らとの連絡を依頼され、翌二八日地検に一般押送された際、同行室等で連絡の依頼を受けた共犯者を探したが見つからなかったところ、公安関係の被疑者と覚しき者を見かけ、話しかけてみると、増渕の共犯者の前原であった。同行室で隣に坐り、増渕の様子を知らせたところ、前原は、(一)一〇月から実質的活動をしていないからそれ以後のことは知らない、(二)佐古、菊井の方から話が出ていると思って間違いない、特に菊井は本件に直接関係ないからべらべらしゃべっていると思って間違いない、佐古も自分をきれいにするつもりで完全に出ていると思っていい、(三)自分も調べ官に乗せられてある程度話した、(四)爆弾製造のことについてはまだ話をしていない、(五)一度出た時に口裏を合わせていたがそれもバレてしまった、赤軍の方からもかなり出ている、(六)堀からはあまり話が出ていないようだ、(七)窃盗の件についても話が出ている、(八)自分は覚悟したが、『増』は二つかかえているので大変だから頑張れと伝言してくれるよう依頼された」ということである。もっとも、ほぼ三年後に九部第六〇回公判(昭和五一年三月一一日)で証言を求められた檜谷は、前原との会話の内容はほとんど記憶していない旨述べている(二六七三二)。

これに対し、前原は、公判段階においても檜谷に対する伝言依頼の事実を認めており、その内容としては、「図書館窃盗は処分保留になったがアメリカ文化センター事件で再逮捕された。同事件と八・九機事件は認めてしまったがその内容はおかしい。今製造の追及を受けているが製造は認めていない。外へ出たら活動する。増渕にはがんばれと伝えてくれ」というものであったと述べ(七五回前原供述九〇五四)、また、「佐古、菊井から話が出ている。佐古は清算するつもりで話しているようだ」とも言ったが、「一度出たときに口裏を合わせたのがバレた」とか、「増渕が二つかかえている」とかは言っておらず、「赤軍の方からも出ている」と言ったかどうかは記憶にないと供述する(一五五回前原供述三二八〇九)。

それ故、少なくとも、右三点を除くその余の事項については前原が伝言を依頼したものと認めて差支えないであろう。

検察官は、右依頼にかかる伝言の内容が、自己の受けている処遇を問題とすることなく、単に供述状況を述べるものであることから、前原は、自己がアメリカ文化センター、八・九機、ピース缶爆弾製造の各事件の犯人であることを前提としているというのであるが、そもそも同じく捕われの身である増渕に対し、自己の処遇について訴えてみてもあまり意味があるとも思えず、右会話自体、看守者のわずかな隙を狙い、とびとびに断片的な言葉を交わすことによってかろうじて成立したものであること(七五回前原供述九〇五七)を考えれば、とりあえず自己の取調状況等についての情報を伝えておこうとすることも不自然ではない。前原が、右伝言の際の心情について、「アメリカ文化センター事件、八・九機事件を身に覚えがないのに認めてしまったのが増渕に対して知れるのが恥しく、ことさらに取調べに対し頑張っていることを印象づけたくて伝言を依頼した」と供述するのは(七五回前原供述九〇五八)、むしろ首肯し得るところである(なお、前原は、右第七五回公判供述に際し、現実には、「アメリカ文化センター事件及び製造事件(を認めた)」と述べているが、前記のとおり、当時前原が自白していたのは製造事件でなく、八・九機事件であり、檜谷の供述する伝言の内容も、「製造事件については供述していない」というものであるから、右供述が「八・九機事件」の言い間違いであることは明白である。また、この言い間違いに特段の意味も認められない。)。

檜谷に対する右伝言依頼の内容をもって前原自白の信用性を補強するものとする検察官の主張には賛同し難い。

更に付言すると、檜谷の供述する「口裏を合わせた(のがバレた)」との点は、「一度出た時」とのことであるから、逮捕勾留後保釈された時に口裏を合わせたことがあるとの趣旨に解されるところ、前原は、昭和四八年一月八日図書窃盗事件ではじめて逮捕され、勾留中、同月一七日アメリカ文化センター事件で再逮捕され、以来、右伝言時まで引き続き勾留されていたのであって、右のような「保釈時の口裏合わせ」はあり得ず、右檜谷供述は明らかに事実に反すると認められる。九部六〇回及び六一回檜谷証言(二六七二一、二六七七〇)並びに檜谷48・3・6員面、48・3・7員面、48・3・10員面及び48・3・12検面(以上二六六四三、二六六六〇、二六六七四、二六六九一)により認められる檜谷の麹町署房内における増渕への接近状況、ことさらに檜谷の方からアメリカ文化センターあるいは土田邸の存する目白近辺の状況について話題作りをした上、増渕と会話をしている状況、増渕の堀ら関係者への連絡依頼も檜谷の方から誘いかけたという状況の外、檜谷の前記員面及び検面における前原の伝言内容あるいは増渕との会話の状況等に関する供述は極めて詳細なものであって、相当意識的に記憶していなければ供述し得ない内容であることなどをも考えあわせると、当時、檜谷は、増渕をめぐる捜査状況を、捜査官等からある程度聞き知って、意図的に増渕の関係者との接触を試みたのではないか、その際得ていた前記「プランタン会談」に関する佐古供述の知識が前原の伝言依頼の内容に混入したのではないかとの見方も成立つように思われる。いずれにせよ、右「口裏合わせ」が真実前原の発言であり、前原が事件につき覚えがあることを示すものであるとする余地は存しない。

なお、「檜谷伝言」は、その内容上、八・九機事件及び製造事件にも関連するのであるが、本章で触れるにとどめる。

七 むすび

以上、検討してきたように、佐古、前原、村松及び増渕の本件への荷担に関する各自白の信用性には多大の疑問があるばかりでなく、村松には前記のとおり、本件の敢行と相容れない可能性のある事情すら認められることを併せ考えると、これらの自白によって、本件公訴事実と被告人ら及び共犯者とされる者らとの結びつきが合理的な疑いを超える程度に確立されるとは到底いうことができない。

第七章当裁判所の判断(その四)

―八・九機事件―

一 はじめに

1  自白の存在

八・九機事件(以下本章において「本件」ということがある。)については、前原、内藤、増渕及び村松の捜査段階における各自白があるほか、佐古の捜査段階における供述及び菊井の公判供述中に、前原から本件犯行への荷担の事実を聞いた(以下において「前原八・九機発言」ということがある。)とする部分がある。

2  自白の概況

前原ら四名の捜査段階における供述の経過の主要な節目を示すと、次のとおりである。

日時(昭和年月日)   供述の主体と概要

48・1・17 佐古 一〇月二九日前原から第八・九機動隊事件への井上との関与を打ち明けられた旨供述

前原 同月二六日ころ、村松の指示で、井上と八・九機周辺を下見した旨供述

1・21 前原 同月二三日夜河田町アジトでの導火線燃焼実験、同月二四日の八・九機周辺の下見、八・九機事件の実行状況等をほぼ全面自白

1・31 前原 八・九機事件への赤軍派二名の荷担を自白

2・6 内藤 同月二三日河田町アジトにおける八・九機襲撃の話し合いの場に居合わせたが、爆弾の話は出なかった、また、そのころ、夜八機正門前の路地を村松と思われる男と歩いた旨供述(参考人、任意取調)

2・8 内藤 八機付近の路地に一人で入ったことがある旨供述

2・11 増渕 八・九機事件を指示した旨自白

2・12 (増渕、村松が八・九機事件で逮捕)

2・13 村松 八・九機事件について、増渕と花園が計画し、菊井と井上が投てきと供述するが、自己の関与については全面的に否認

2・14 村松 結果確認役としての関与を自白

2・17 (内藤が八・九機事件で逮捕)

内藤 八・九機事件に関与しているかもしれない旨供述

2・22 村松 八・九機事件について弁録での見張行為自白を取消し、再度全面的否認

2・24内藤 同月二三日夜河田町アジトにおける導火線燃焼実験を供述

2・28 内藤 同月二四日八・九機周辺のレポを供述(但し、爆弾投てきの認識については否定的供述)

3・1 増渕 同月二三日ミナミ及び住吉町アジトにおける謀議、同月二四日導火線燃焼実験を自白

3・3 村松 八・九機事件について再自白(但し、村松自身の役割は連絡役と供述するほか、同月二三日のエイトにおける謀議を供述)

内藤 八・九機事件の実行状況自白(爆弾投てきの認識を自白)

3・6 (増渕、村松が八・九機事件で起訴)

3・7 内藤 同月二三日の喫茶店(3・9にエイトと供述)謀議、赤軍派の荷担を自白

3・10 (内藤、前原が八・九機事件で起訴)

なお、井上及び堀も八・九機事件について逮捕されたが、容疑事実を否認したまま、起訴されるに至っている。

3  前原自白及び内藤自白の重要性

八・九機事件については、前記のように六名が起訴され、うち前原ら四名が自白しているところ、そのうち増渕及び村松の各自白については、検察官も指摘(論告二二三三五三〇)するように、その供述内容、供述経過等に照らし、その信用性には疑問があり(後に三及び四において述べる。)、検察官の同事件についての前記第二章三の主張は、基本的に、前原及び内藤の各自白に依拠しているものと認められるのであって、まず右両名の自白の信用性について検討することとする。

二 前原自白及び内藤自白

1  自白の経緯と公判廷弁解

前原及び内藤の各自白は、いずれもその内容が具体的かつ詳細で、謀議の経緯(導火線燃焼実験を含む。)、犯行の状況、関与したメンバー等について、大筋において相互によく一致しているように見えるほか、次のような事実も認められる。

すなわち、前原については、

(一) 八・九機事件に関する前原の取調べは、昭和四八年一月一七日に、佐古が、前原から同事件に関与した旨打ち明けられたことがあると供述したことから、同日初めて行われたものであるが、前原は、その日のうちに八・九機周辺を下見したことを供述し、更に同月二二日までに同事件のほぼ全容にわたり自白していること

(二) 前原は、捜査段階においては以後一貫して自白を維持していること

(三) 検察官も指摘するように、前原の自白には、他の共犯者に先立って供述した事項が多く(例えば、犯行当日の実行グループに赤軍派の者二名が加わったこと、投てき担当者が複数おり、村松、井上、堀がそのメンバーであったこと、東薬大社研の内藤が実行グループの一員として犯行に加わり見張りを担当したこと等)、それらの事項はその後共犯者の自白(特に内藤)によって裏づけられた形になっていること

(四) 前原が取調べの比較的早い段階で自白したことについての前原の公判廷における弁解は、要するに、取調官である高橋警部補が、八・九機事件について共に出来上がっていた筋書きを前原に押しつけ、追及した結果であるというものであるが(七三回前原供述八六九一等)、前記のように前原に先立って同事件に関する重要事項を供述していたものは当時存しなかったことに照らすと、右のような押し付けが可能であったとは考え難く、右弁解は説得力を欠くこと

が認められ、

内藤については、

(一) 内藤は、参考人としての任意取調中、前記のように、一〇月二三日河田町アジトにおいて、八・九機襲撃の話し合いの場に居合わせたことなどを供述し、昭和四八年二月一七日同事件により逮捕されてのち、逐次詳細の度を加える多くの自白をしているが、このような供述経過は、一見、秘匿していた事実を次第に自白していった過程と見られなくもないこと

(二) 内藤は、捜査段階において一貫して自白を維持しているのみならず、自己の公判段階に至っても、冒頭手続における被告事件に対する陳述として、「(八・九機事件について)共謀は認める。しかし、レポの役目だったので爆発物はみておらず、かつ投げるところもみていない」旨述べ、以後も基本的に自白を維持し、検察官の論告、求刑を受けて、初めて否認するに至ったこと

(三) 内藤は、当部法廷に証人として出頭した際も、「一〇月二一日より後に河田町アジトに行ったところ、村松、井上、前原の三人がおり、その際、四機とか八機とかいう話を聞いたような記憶がうっすらとある。村松かが図面か何かはわからないが、わら半紙に何か書いており、それに対し、前原が色々質問していたと思う」との趣旨の、さまで明確ではないが、あるいは八・九機事件の事前謀議ではないかと疑われるような情景について、繰り返し供述していること(二〇回内藤証言⑧二〇六五、二五回同⑨二四三三、二六回同⑩二五五六、二五六四等)

が認められるのである。

2  考察

右に見たような諸事実のほか、増渕及び村松も結論的には本件への関与を認めていることをあわせ考えると、前原及び内藤の右各自白について、一見、その信用性を肯定してもよいかのごとくである。

しかしながら、さらに子細に検討を加えるときは、以下に述べるような、右各自白の信用性を否定ないし減殺する方向に働く多数の事実が認められるのである。

(一) 概説

右両名の自白を通観すると、一般論として、次のような問題点が見受けられる。

(1) 「秘密の暴露」の不存在

右両名の自白には「秘密の暴露」と評価すべきものがない。

(2) 間接的役割

右両名の自白は、レポあるいは効果測定といった間接的役割についての自白であって、最も重要である爆弾投てき自体の目撃状況については何らの供述もされていない。

(3) 前原自白の問題性

前原のアメリカ文化センター事件の自白の信用性については、既に詳説したように多大の疑問点があるところ、前原の八・九機事件の自白は、アメリカ文化センター事件の取調べと併行して行われた取調べの結果によるものであり、特に、前原の八・九機事件に関与した旨の初めての供述(48・1・17員面)は、アメリカ文化センター事件についてダンボール箱を製造した旨の虚偽の自白をした時期(昭和四八年一月一六日)と日を接してなされており(なお、前原は、昭和四八年一月一七日、アメリカ文化センター事件で逮捕されている)、かつ、その供述内容は、アメリカ文化センター事件の雷管と乾電池の接続(はんだづけ)をした後の一〇月二六日(すなわち八・九機事件発生の日の二日後)ころに、井上とともに八・九機を「下見」したという不自然なものである。

(4) 内藤自白の問題性

内藤の自白は、前記のように、任意取調べの段階から事件への関与について全面的に否認するのでもなく、曖昧な供述に終始した挙句、徐々に具体的かつ詳細な供述をするに至っているものであるが、その供述の変遷にはまことに著しいものがある。前記のように、これを真犯人が取調官の追及を受け、秘匿していた事実を逐次自白していった過程と見る余地もないではないが、少なくとも、供述を変更した理由について、説明を欠き、あるいは説明はあっても到底合理的なものとは思われないなど、供述者自身が次第に記憶を喚起していったものとするにはためらいを感じさせる点も少なくない。

他方、内藤の取調当時の状況には、例えば、弁護人との初めての接見に際し、その通知を受けるや、まず取調官に対し、接見の是非を相談するなど(九部一九六回田村卓省証言一九四〇〇)、主体性の無さを示すような事実が見受けられるばかりでなく、内藤の取調官も内藤の供述態度について、例えば、「ある意味では迎合しやすい性格を持っていた」「何かヒントみたいなものを与えるとそれに乗っかってきそうな勢いが非常に感じられた」(九部二〇九回濱田弘幸証言二一七六七)とか、あるいは「供述内容が日によってくるくる変わるようなこともあった」(九部一九六回田村証言一九三九七、一九四一一、一九四一九等)、「(供述が)くるくる変ってしまうことが比較的多かった」(一三四回田村証言二四一〇一)と証言するなど、取調官に対する迎合的な態度が顕著であったことが窺われるのである。このようなことに照らすと、右の供述の変遷は、それ自体、内藤の取調官の追及に対する弱さあるいはその主体性がなく迎合的な性格の現れである可能性が否定できず、取調官においても、内藤の右のような弱点に気付き、これを意識して相応の注意を払い、発問が誘導にわたることのないよう警戒するなどの配慮はしていた模様ではあるものの、なお、内藤の自白に信用性を認めるには極めて慎重にならざるを得ない点が存する。

以下、自白内容の個別的検討に入るが、まず八・九機事件実行行為時の状況として述べられている右両名の具体的行動に関する自白を中心に検討した後、同事件当日における犯行前後の行動状況の自白、犯行前日の謀議の状況に関する自白、その他両名の右自白の信用性に関連する若干の事項の順で判断を示すこととする。

(二) 実行状況

(1) 前原及び内藤の役割と行動

ア 前原自白の要旨

犯行時に果した役割、具体的行動について、前原が取調官に対して供述したところは、大要、

「自分は、赤軍派一名とともに効果測定役であって、増渕から、爆発のあった段階で八・九機前に行き、野次馬にまぎれて爆弾の効果を見てくるよう指示され、午後六時四〇分ころ、一緒に組んだ赤軍派の者と喫茶店を出発し、八・九機前都電通りを少し八・九機方向に行ってから河田町電停付近に戻ってきた。その間に内藤に出会った記憶はあるが、どこで出会ったかについては記憶がない。自分は、その後六時五〇分ころから、河田町電停付近に立ち、赤軍派の者は自分より少し八・九機寄りに立っていた。午後七時一〇分ころになっても変わった事態が無く、赤軍派の者も、爆弾は投げこまれたらしいが何も変わった様子がない旨報告してきたので、自分の発案で午後七時三〇分ころ、二人して河田町電停から都電に乗り、八・九機前を通過して様子を見た。八・九機正門前には制服の警察官が十数名位の外、普通の服装の者何人かが集っており、フラッシュが焚かれていた」

というものである。

イ 疑問点

しかし、前原の供述には次のような疑問がある。

(ア) フラッシュ

前原の「都電に乗って、八・九機前を通過し様子を見た。正門前には制服の警察官十数名外が集っており、フラッシュが焚かれていた」旨の供述は、まことに映像的で、真実体験したものでなければ供述し得ないかの如き供述であり、かつ、右の供述について、前原は公判廷において、取調官から追及を受ける中でかすかな記憶として思い出された旨述べていること(六一回前原供述六九五五、七三回同八七三六、九部二六九回前原証言三一四三五等)に照らすと、その信用性は肯定してもよいように考えられる。

しかし、都電に乗り、フラッシュを見た後の行動について、前原の供述は次のとおり変遷する。

48・1・22員面 落ち合う場所(思い出せない。)に向かった。

2・2検面 投てき後の集合場所(喫茶店だったと思う。)に行ったかどうかはっきりしない。午後一〇時ころ河田町に戻った。

2・13員面 都電でそのまま新宿周辺まで行き、かねて打ち合わせていた場所(新宿周辺の喫茶店だったと思うが、店名、場所は思い出せない。)に行った。

2・16検面 どこで都電を降りたか記憶がない。とにかく暫く時間がたってから河田町アジトに戻った。

2・26検面 どこかの喫茶店で皆が集まり、それから河田町アジトに帰ったと思う。これだけ大胆なことをやりながら総括もせずバラバラに別れてしまうはずがない。

3・9検面 都電を東大久保で降りた。近くで降りて怪しむ乗客がいるのではないかと思いつつも思い切って降りた。事件後に集合する喫茶店は、その近辺で、赤軍派の者と一緒に行った。

右の供述の変遷は、その変遷状況に照らし、逐次正確な記憶を喚起していった過程とは到底見ることができない。

また、既に八・九機事件における自己の行動の主要部分を供述している以上、都電による結果確認後の行動を秘匿する理由も必要性も存しなかったはずであるから、前原がことさらに言を左右にしたものとも考え難い。そうすると、機動隊に対する爆弾攻撃の現場に身を置き、効果測定係として十分に緊張した意識のもとで行動したであろう前原にとって、犯行時及びその直前、直後の行動は極めて印象的であったはずで、当然一連のものとしての記憶が残るべきであるのに、都電内からフラッシュが焚かれるのを見たことだけが記憶に残存し、その後の行動については記憶が極度に希薄化したということにならざるを得ない。

更に、後述((エ))するように、前原は、右フラッシュを目撃したことを供述した昭和四八年一月二〇日ころの時点では、犯行当時一緒に行動した赤軍派の者の存在を述べず、その後同月三一日に至って、ようやく、その存在を想起したとして供述する(前原48・1・31員面)のであるが、同行者についての記憶までなくなっているというのも不自然である。

このような諸点を考えると、都電内から八・九機正門前でフラッシュが焚かれるのを目撃した旨の前記供述は、現実体験に基づくものではなく、取調官の追及を受けるうちに、前原自身の過去の類似の体験から、あるいは追及に際し、取調官から呈示された新聞記事の印象から(前原は、公判廷において、とくに後者の可能性を強く示唆する供述をしている。九部二六九回前原証言三一四三八)、そのような情景を記憶しているような錯覚に陥って供述されたものである可能性も否定できないように思われる。そして、このように現実体験に基づく供述でない虞がある以上、前原が、公判廷において、「八機に関係することを思い出せと追及され、明確な記憶ではなかったが、都電の中からフラッシュを見たことがある旨供述したところ、取調官から、それは効果測定だと断定された」旨の弁解(七三回前原供述八七三六、八七四六等)も一概には排斥できない。

(イ) 電停佇立

前原の右供述によれば、午後七時一〇分ころになっても変わった事態はなく、赤軍派の者からも「爆弾は投げこまれたらしいが、何も変わった様子がない」旨の報告を受けながら、前原は、午後七時三〇分ころ都電に乗るまで、約二〇分間、無為のうちに河田町電停付近に立っていたことになるのであるが、このような行動は、いかにも不自然な印象を与える。ただ右のフラッシュなるものは、警察による現場保存ないし新聞社等の取材を思わせるところ、そのようなことが始まるまでには、午後七時の爆弾投てきからは若干の時間を要するであろうから、午後七時半ころにこれを見たとする点は甚だ自然といえよう。けれども、このことから推測されるのは、むしろ、前原がフラッシュを目撃したと述べたことから、事件発生後、それに対応する措置がとられるまでの必要時間を考えた取調官の意識的無意識的示唆に合わせて供述がなされた可能性である(前原も、高橋のほうから「都電に乗ったのは七時半ころではないか」と言って来た旨述べる。七五回前原供述八九六三)。

(ウ) 緊急車両

本件現場付近の居住者高杉早苗は、「午後七時直後、姉を乗せた自動車を運転し、自宅前から(花寿司横の路地との)丁字路にさしかかった際、八・九機正門から屋根の上にライトをつけた車が来たので、進路を譲った」旨供述し(高杉44・10・24員面⑬三四七九)、犯行に関係のない第三者の事件発生当日の供述として十分信用に値するので、事件直後、警察用緊急車両が八・九機隊舎正門から出動したことが認められるが、「八・九機前」すなわち右正門付近を注視していたはずの前原が、この点についての供述を全くしていないのも疑問点のひとつである。

(エ) 赤軍の不想起

また、前原は、前記のとおり、当初、効果測定に同行した赤軍派の者の存在を述べず、48・1・31員面に至って初めてこれを述べるのであるが、赤軍派との共闘の一環としての機動隊に対する爆弾攻撃という特異な体験であることを考えると、犯行当時単独で行動したか同行者がいたかという点について記憶を喪失し、あるいは他の場合と混同することは考え難く、また、すでに本件への関与を自白した以上、同行した赤軍派の者の存在をことさらに秘匿する理由はないことを考えると、右のような供述の変遷は不可解である。ことに、前原は、既に48・1・22員面において、事件当日の午前中、赤軍派の者と会い、事件の計画を連絡した旨供述しているところ、前記48・1・31員面以降の供述によれば、効果測定に同行した赤軍派の者は、右連絡を受けた者から派遣されたというのであるから、それならば、少なくとも、右赤軍派への連絡を供述した時点において、同行者である赤軍派の者の存在を容易に想起できたはずである。

ウ 内藤自白の要旨

犯行時に果した役割、具体的行動について、内藤の捜査段階における供述は、大要、

「自分はレポ役であって、増渕から、八機を中心にして、河田町から東大久保交差点までのレポをやり、八機正門前の警備状況と回りの警察の動きを見て、その状況を途中で出会った者に報告するよう指示され、赤軍派の者一名とレポに出発した。河田町交差点から、八機前の通りを機動隊と反対側の道路端を歩いて、東大久保の交差点に向かった。八機正門前歩道上には三人位の制服の機動隊員が立っていた。八機前を過ぎ、余丁町電停付近に至って、前原外一名(誰かは思い出せない。)に会ったので、八機正門前の警備状況を報告した。その後、余丁町電停付近で暫く待機した後、再び八機の方に引き返した。途中の路地の入口で路地の中に立っている村松外一名に会ったが、意識的に無視して通り過ぎた。八機前を通過し、河田町電停付近まで来ると、反対方向から井上が来たので、八機前の警備状況を伝えた。井上と別れ、時刻を確認したところ、午後七時の四、五分前だったので、近くの路地に入り、時間の調節をした後、午後七時一分前に路地から出て、路地入口付近に立ち、斜め向かいの交番と八機正面の様子を見ていた。同行していた赤軍派の者は井上と出会った前には近くにいたが、この時点でどこにいたかは記憶がない。午後七時を五分くらい過ぎても何の変化もないので出発前に集合した喫茶店に戻った。赤軍派の者がどうしたかは確認していない」

というものであり(内藤48・3・8検面、48・3・7員面)、また、内藤の八部三回公判における供述は、大要、

「事件前、喫茶店に入ったような気がする。そこで、最初に行って、河田町の付近の人の様子、八機の警備の様子、余丁町方面の人の様子を見て来いと指示され、レポの役目と思った。午後六時少し過ぎ喫茶店を知らない男と出て、おおむね実況見分の際警察官に指示したとおり歩いた。余丁町で前原に会い、正門付近の様子等を話し、(河田町の方に)戻るとき井上に会って話をした。その後、河田町交差点近くの路地に入り、抜け出してから、同交差点近くに立ち止まって午後七時ころまで様子をみていた後、喫茶店には寄らずに若松町の方に抜けた。一緒に行った相棒は、井上と会ったときにはいたが、路地に入ったときにはいなかった」というものである(一七一二四。なお、以下、単に「内藤自白」というときには、捜査段階における右のような供述をいうものとする。)。

エ 疑問点

内藤自白には次のような疑問がある。

(ア) レポの必要性

まず、第一に、八・九機事件に占める内藤の役割が結局判然とせず、内藤自身が供述するレポの必要性が疑われることが指摘される。すなわち、爆弾投てき時のレポ(見張り)の核心は、投てきが通行人等に不用意に目撃されることのないよう四囲の状況に注意し、あるいは投てき後の投てき者の逃走経路の安全を確認し、これを投てき者に伝達するにあると考えられるのに、内藤がレポの実際として供述するところは、これらに比べて必要性の乏しい役割に過ぎず(例えば、八機正門前の警備状況の観察と報告が任務のひとつとされているが、そのようなことは、投てき者においても、容易にみずから認識し得るところである。)、しかも内藤と投てき者との間の連絡方法が、その供述するとおりだとすると、余りにも杜撰な感を免れない(この点につき、内藤は、前原が投てき班との連絡役と思っていた旨供述するが((内藤48・3・8検面))前原の供述は、前示のとおり、その可能性を実質的に否定するものである。)。

また、同様な意味で、レポ役である内藤が「途中の路地の入口で路地の中に立っている村松外一名に会ったが、意識的に無視して通り過ぎた」とする供述には、疑問がある。すなわち、右供述は、一面、現場における緊迫した雰囲気を描写するかのようであって、いかにもありそうなこととして、一見迫真性に富むように見えるが、他方、内藤自白によれば、村松は爆弾投てき班員とされており、八・九機付近の警備状況等のは握が最も必要な立場にあったものであるから、内藤が村松に対する報告もせず、ことさらに無視して通り過ぎたというのは、何としても不自然であるといわざるを得ない。

(イ) レポの内容

内藤自白のうち、レポの具体的内容に関する部分も、他の事項と同じく、当初瞹昧な供述に終始し、徐々に具体的、詳細になって行くものであるが、その供述の経過は次のとおりである。

48・2・6員面 一〇月二二日から同月二四日までの間の午後八、九時ころ、八機正門前の路地を村松と思われる男(L研関係の背の低い男)と歩いたことがある。その男は「この道は抜けられるかな」と言い、二人して五〇メートルくらい歩いたが、行き止まりで引き返したことがある。

2・8員面 日ははっきりしないが、八機付近の路地に一人で入ったことがある。この時のことかどうかわからないが、「同じ場所を単調に歩くな」と言われたことがある。

2・17員面 記憶ははっきりしないが八機周辺を歩いた記憶がある。

2・18員面 一〇月二四日に八機周辺に行ったかどうか思い出せない。同月二三日から同月三一日までの間の午後八時ころ、八機正門前あたりの小さな路地に入ったことがある。目的ははっきりしないが、単調に歩くとまずいと思ったのではないか。

2・21員面 一〇月二三日から同月末ころの間の夜、八機前都電通りで、L研の者と会ったことがある。自分は一人だった。L研の者とは立ち止って二、三言話して別れたが、内容はレポに関することだった。

2・22員面 一〇月二三日か二四日か、下見なのかレポなのかはっきりしないが、村松、前原、菊井のうちの一人と、暗くなってから八機の周囲をかなり時間をかけてぐるぐる回り、河田町に帰ったことがある。また、同月二四日のことか同月二一日のことかはっきりしないが、八機前の八機と反対側の道路を歩きながら、八機の様子を見るためという感じで八機正門の方をチラッと見たことがある。

2・28員面 一〇月二四日薄暗くなってから、もう一人の男(前原と思う。)と八機前の通りを歩き、八機正門前付近でL研の者(井上と思う。)と会った。その者は一人ではなかった。

3・3員面 一〇月二四日八機正門前を往復する形で二回位通った。相棒がいたのか一人だったのかはっきりしない。相棒がいたとすれば村松、菊井、前原、堀のうちの一名である。新宿方向から河田町方向に向かい八機正門前を少し通り過ぎた地点で井上と会い、自分と一緒だった男が井上にレポの状況を報告した。その後、河田町交差点少し手前の路地に一人で入った。

3・7員面 前記ウに記載したとおり(但し、同行した赤軍派の者を「梅内」とし、前原と一緒にいた者を「花園」とする。)

3・8検面 前記ウに記載したとおり。

以上のとおりであるが、右のような一貫性のない供述変遷の状況のほか、内藤自白によれば、内藤は機動隊に対する爆弾による攻撃という特異な状況に自らを置いていたのであるから、その際の自己の行動については、細部は格差、その大筋の記憶まで失ってしまうとは考え難いことに照らすと、右の供述経過を正確な記憶が次第に喚起されていった過程と見ることはできない。もとより、前記のとおり、真犯人が取調官の追及により秘匿していた事実を明らかにせざるを得なくなったものと見ることもできようが、他方、内藤は、任意の取調段階から八・九機周辺を歩いた記憶がある旨供述しているところ(48・2・6員面及び2・8員面とも、八・九機事件のレポであることを強く窺わせる供述である。)、真実、同事件にレポ役として関与しながら、これを秘匿しようと考えていた場合には、取調の当初の段階から右のような供述態度に出ることは、供述者の心理として理解しがたく、その意味で、この見方には難点がある。

(ウ) レポの同行者

レポの同行者についても、内藤の供述は以下のとおり著しい変遷を重ねる。

48・2・22員面 村松、前原、菊井のうちの一人(ただし、一〇月二三日か同月二四日のことかははっきりしないとする。)

2・28員面 前原と思う。

3・3員面 相棒がいたのか一人だったのかはっきりしない。相棒がいたとすれば、村松、菊井、前原、堀のうちの一人。

3・7員面 梅内

3・8検面 赤軍派の者(比較的背の低い男)

3・9実況見分立会時 梅内((員)小池勝48・3・12実三三一三九)

3・10検面 (3・8検面を訂正することはない旨供述)

4・2Ⅰ員面 花園

前記のとおり、八・九機事件遂行時のレポは、内藤にとって極めて特異な体験であったはずであるばかりか、レポの際の同行者の有無及び同行者が誰であったかなどの点は、特に記憶に残りやすい事柄であると思われる。なかでも、同行者の有無についてまで記憶が消失するようなことは、通常考え難いところである。また、レポの事実を自白したのに、同行者についてのみ、その有無ないし氏名をことさらに秘匿し、あるいは曖昧にしなければならない特段の理由も見当たらない。従って、この点に関する供述に右のような著しい変遷が見られること自体、甚だ不自然であると思われる上、その変遷の経過には、右に見たとおり、何らの脈絡も認められず、正確な記憶が次第に喚起され、若しくは追及によって真相が逐次解明されて行った過程とは到底考えられない。殊に、昭和四八年三月七日以降の供述変遷の状況は、内藤が、取調官の追及の仕方によって、たやすくこれに迎合し、供述を変更したのではないかとの疑問を抱かせるものである。

これらの点を考えあわせると、レポ同行者に関する内藤自白に真実性を認めることは困難である。

オ 前原自白と内藤自白との相互矛盾

更に、前原及び内藤の効果測定及びレポに関する前記各自白には、次のような相互矛盾ないし不自然な点が見られる。

前記のとおり、前原は、爆弾投てきの効果測定の際内藤に会った旨供述し、内藤も、レポの際前原に会った旨供述しているところ、出会った場所についての両名の供述が全く異なる。すなわち、前原は内藤とどこで出会ったか記憶はないと述べるものの、当時の自己の行動を、河田町交差点から少し八機の方へ向かって歩いて行き、また戻って来て河田町電停付近に立っていたというのであるから、前原が内藤に出会った場所は、論理的に、河田町電停付近と同電停から少し八機方向に歩いて行ったその間ということになるのに対し、内藤は八機前を過ぎ、余丁町電停付近で前原外一名に会ったというのであって、両者の述べる場所は、八機正門をはさみ、全く正反対の側に位置し、その間の距離も少なくとも三〇〇メートル近く離れているのであって、両者間の供述が大幅に食い違っていることは明らかである。

ところで、内藤は、取調べに際し、当初前原と会ったことを述べず、昭和四八年三月七日に至って初めて供述しているのであるが(内藤48・3・7員面)、右供述の経緯につき、内藤は、公判廷において、「取調官から、都電通りを歩いているとき東大久保交差点付近で誰かに会ったことはないか、内藤に会ったと言っている者が確かにいると言われた。更に、大体、君はいままで歩いている間に何も連絡していないではないかとも追及され、当時、連絡役は前原、花園かもしれないと供述していたため、じゃあ、前原と花園に会ったかもしれないと認めた」旨弁解するところ(二八回内藤証言⑪二八四七)、内藤が同日に至って突然記憶を喚起することも不自然であることを考えると、右弁解を一概には排斥できず、取調官の右のような追及に合わせ、これに迎合して供述された可能性も否定できない。また、前原も当初内藤に会ったことを述べず、同月九日に至って初めて内藤と会ったかもしれない旨供述(前原48・3・9検面)しているところ、右の供述は、両名の起訴を目前に控え、内藤供述と前原供述をできる限り整合させるべく、同日取調官である濱田検事において、前記内藤48・3・7員面及び48・3・8検面に基づいて追及がなされた結果、前原がこれに合わせる供述をした結果である可能性が強いと思われる(前原48・3・9検面には、内藤との出会いの事実のほか、最終謀議段階における増渕の存在、犯行直前の喫茶店への集合、犯行前日の喫茶店謀議等、従前述べられていない事項が供述されており、かつその供述内容が内藤48・3・7員面及び48・3・8検面の供述内容とほぼ符合し、あるいは、漠然とではあるが符合するものであることに照らすと、取調官が右に述べたように両者の供述の整合を図る追及をしたことはほとんど疑いを容れない。)。

なお、両名が遭遇した地点に関する内藤及び前原の供述の不一致については、あるいは、記憶の混乱から、内藤が、前原と井上をとり違えて供述した可能性(すなわち、余丁町電停付近で会ったのは井上であり、八機正門から河田町電停寄りで会ったのが前原であったのが真相であるのにそれを逆に記憶していたとすること)も絶対的には否定できず、そう解し得るのならば、右供述の不一致についての疑問は一応解消される形になるけれども、更に、検討を進めると、前原は爆弾投てき予定時刻である午後七時の時点において、河田町電停付近に立っていた(前原の実況見分時の指示説明によれば、同地点は、新宿区河田町一七番地稲子啓親方前歩道上である。(員)大城戸留夫48・2・20実三三一二四)旨述べ、一方、内藤は、その時点には、河田町電停から八・九機方向に向かい最初の路地の入口付近に立っていた(内藤の実況見分時の指示説明によれば、同地点は、新宿区河田町一七番地有吉写真材料店前路上である。(員)小池勝48・3・12実三三一五一)旨述べるところ、右各実況見分調書によれば、両地点は極めて近接しており、その間には、酒店及び煙草店の商店二軒が存するだけであって、前原及び内藤が、右の時点において、互いの存在について認識しないのは不自然である。また、内藤は、午後七時五分過ぎころ、右地点を離れ、喫茶店に戻った旨述べるところ、その際の経路として内藤が述べるところに従えば、河田町電停付近に立っていた前原に出会うはずである。しかるに、前原、内藤のいずれも、このようなことを一切供述していないのであって、結局右両名の前記自白には大きな相互矛盾があることを認めざるを得ない。

(2) 犯行メンバー

ア 爆弾投てき班

前原及び内藤は、いずれも、八・九機事件の爆弾投てき班を「村松、井上及び堀」の三名である旨供述し、とくに前原は、犯行後、投てきの際の状況を井上から「自分が八機の反対側の路地から道路に出て様子を見たが、誰も警戒の者が気がつかなかったので、村松と堀に合図をし、二人が電柱の陰に行って投げこんだ。後は三人がばらばらになって駆け出して逃げた」と聞き、また村松からも「堀が隠すように爆弾を持ち、自分が導火線に火をつけてから、爆弾を受け取り、前に駆け出していって投げた。投げた後、追いかけられてまくのに苦心した」と聞いた旨具体的に述べるが(前原48・3・9検面)、既に第四章一1(一)(6)で述べたように、被告人及び共犯者とされる者の自白並びに真犯人と称する者の証言を除いた関係証拠によれば、本件爆弾の投てきに直接関与した犯人は、一名である可能性が高いところ、右のような、三名による犯行であることを内容とする井上、村松発言にも、この可能性を覆えすに足りるだけの確実性のある事項は何も含まれておらず、各発言の真実性は、むしろ疑わしいと言うべきである。

右のような爆弾投てき班の存在及びそのメンバーについては、前原が比較的早い段階(前原48・1・22員面参照)から「村松、井上及び堀」と一貫して自白しているのに対し、内藤は、取調当初から事前謀議の状況、レポ時の状況に関する供述はするものの、投てき班については全く述べず、昭和四八年三月七日に至って供述を始めた後も、その構成メンバーが次のとおり変遷する。

48・3・7員面 投てき班は村松、井上である。増渕、堀の役目は不明。

3・8検面 投てき班は村松、井上外一名(増渕であったと思うがはっきりしない。)。菊井、堀の役割は不明。

3・22員面 堀も投てきグループとして名が上ったのを思い出した。

4・2Ⅰ員面 投てきグループとして村松、井上、堀が指示された。

以上のとおりであるが、かかる重大事件において、投てき者のための「レポ」を担当したはずの者が、投てき者を知らないとすることには根本的な疑問があるし、また、内藤は、同月三日にはそれまで否認していた八・九機事件における爆弾投てきに対する認識を自白するに至っており、その時点において供述していた内容に照らすと、投てき班についても、供述するのが自然であるのに、何ら述べず、同月七日に至り突然「村松、井上」と、さらに同月二二日には「堀」を付け加えて供述するが、いずれも、その供述の経過からみて正確な記憶が次第に喚起されていった過程と見ることは出来ず(いずれも思い出したきっかけについては何ら供述されていない。)、かえって内藤の取調官である田村巡査部長が、内藤の取調に先立ち、前原48・1・22員面及び48・1・31員面を閲読していること(一三四回田村証言二四〇二九。なお、48・1・22員面は八・九機事件について赤軍派二名の関与の点を除き、投てき班の構成メンバーはもとより、ほぼその全容について自白した内容のものであり、48・1・31員面は、赤軍派二名の関与を供述したものである。)に照らすと、田村が前原の自白を基に、内藤に対して追及をし、結果的に内藤がこれに迎合して前記のような供述をした疑いがある。この点につき、内藤が、「投てき班については三月に入ってからずっと追及されたが、イメージがつかめず、わからないと答えていた。そのうち、他の者の役割分担を考えれば投てき役は村松、井上しか残っていないではないかと言われ、そうかもしれないと認めた。堀については、捜査の中盤から追及され、面識が余りなかったので、いたかいないかあいまいに返答していたが、最後には、いたかもしれない旨認めた」と供述する(二一回内藤証言⑨二一四二、二六回内藤証言⑩二六二五ないし二六三三等)ところは、排斥し難いものを含む。

イ 菊井の参加の有無

(ア) 内藤の八・九機事件に対する菊井の参加の有無についての供述は、曖昧で、かつ、変遷を重ねているが、最終的には、「犯行前日の事前謀議で菊井に対して何か役が割り振られた(但し、事前謀議に参加したとは述べない。)。犯行当日、爆弾投てき直後、集合すべき喫茶店に行ったところ、菊井がいた」旨述べ(内藤48・3・8検面)、更に「犯行当日、実行直前に喫茶店に集合したが、菊井も井上らと来た」旨(内藤48・4・2員面)あるいは「一一月七日ころ、菊井と雑談している際、菊井から八機の時は大分焦ったなあ、恐しかったろうなどといわれた」旨(内藤48・4・5員面)述べるなど、菊井の参加を強く窺わせる供述をしている。

しかし、菊井の参加については、前原は自白においても明確に否定し、また菊井も参加しなかった旨証言しており(九五回菊井証言一三四五八、九七回同一三七五七等)、かつ、内藤も、菊井の具体的役割について全く述べていないことに照らすと、菊井の参加をいう内藤供述の真実性には多大の疑問があり、後述のように(3(三)(3))、内藤が、菊井と若松食堂で食事をしたことがあるなどの断片的な記憶を無理やりに結びつけて虚構の供述をした可能性がある。

(イ) 一方、前原は、菊井が参加しなかったことは一貫して述べるものの、参加しなかった理由ないし経緯、特に菊井に対する事前の連絡の有無については供述が変遷する。そして、この点に関する前原の最終的な自白は、「一〇月二三日河田町アジトに井上といると、村松が現れ、内藤と菊井を集めておけと指示した。内藤がひょっこり現れたので、内藤に菊井を呼んでくるよう依頼したところ、しばらくして内藤は戻って来たが、『菊井は行く必要がないと言って来ない』とのことだった。そのため、井上と二人で不思議に思い、菊井の噂をした」というものであるが(前原48・3・9検面)、他方、内藤は、前原から右のような依頼を受けたことを全く述べておらず、また、菊井も、参加しなかったのは増渕批判をしたため排除された結果であって、事件の翌日、新聞記事を見た後、前原からはじめて話を聞き自分が除外されたことに立腹したなどと供述し(九五回菊井証言一三四六二、九部57・9・2菊井証言、二六九六〇、二六九六三、二六九六六)、前原の前記供述と一致しない。

以上のように、前原と内藤の菊井の参加の有無について言及した自白には黙過できない不自然さと相互不一致が存する。

(3) 使用された爆弾の特徴

ア 導火線の長さと先端の形状

八・九機事件に使用されたピース缶爆弾は、既に認定したとおり(第四章一4(三))、導火線の長さ(全長約九・五センチメートル、缶体の外に出ている部分は約六・三センチメートル)が中野坂上事件のピース缶爆弾三個のそれ(一二・五センチメートル、一三センチメートル、一二・五センチメートルと、九・五センチメートル、八・五センチメートル、七・五センチメートル)に比べて短く、かつ、その先端の形状も後者のそれがいずれもほぐされているのに対し、斜めに切られている点で異なっている。そこで、検察官が主張し、前原らが捜査段階において述べるように本件ピース缶爆弾が中野坂上から持ち帰られたものであるとするならば、持ち帰り後、本件関係者らのうちの誰かによって導火線の先端部が切断されたことになると思われるのであるが、前原自白にも、内藤自白にも、この点に触れた供述はなく、そのことは、本件の爆弾が佐古と井上によって持ち帰られたものである蓋然性を減殺し、ひいて被告人らと本件犯行との結び付きを一段と希薄にするものといえよう。

イ 燃焼実験との関係

なお、前原は、本件謀議の際の導火線燃焼実験に使用した導火線は、中野坂上から持ち帰ったピース缶爆弾二個のうち一個の導火線を引き抜いたか切り取って使用したと供述(前原48・2・10員面)しているが、他方、実験に使用した導火線の長さを一二~三センチメートルと述べ(前原48・1・22員面、48・2・16検面。なお48・2・11員面参照)、内藤も一〇センチメートル余りと供述(内藤48・3・8検面)しているから、佐古らが持ち帰ったという爆弾が、中野坂上事件のものと同種であったとする限り、これから右の長さの導火線を切り取ったものが八・九機事件の爆弾でありえないことはおのずから明らかであって、前原の右供述が八・九機事件の爆弾の導火線が切り縮められていることに対応するものでないこともまた多言を要しないであろう。さらに付言すると、増渕及び村松の各自白にもこの点に触れた部分はないのである。

(三) 事件当日における犯行前後の行動状況

本件犯行当日の行動状況に関して、前原自白中には、前原が犯行前に犯行現場付近の下見に赴いたとする点があるほか、前原、内藤各自白に、犯行の直前及び直後に共犯者らがそれぞれ現場付近の喫茶店に集合したとする部分があるのであるが、いずれも問題を含むので、以下、順次検討する。

(1) 下見

ア 前原自白の概要

前原は、昭和四八年二月一六日、「犯行当日の午後三時ころ井上と二人で河田町アジトを出て下見に出かけた。八機正門やその付近の警備状況を注意して見て回った。八機前の道路を隔てた向い側の裏路地等も見て回った。一時間位下見をしてから河田町アジトに戻った」旨供述し(前原48・2・16検面)、翌一七日右下見の経路等を明らかにするため、現場へ実況見分に赴いたが、その際指示したところによると、下見の経路は、河田町アジトを出て、フジテレビ前通りを右折して河田町交差点方面に向かい、途中新宿区市谷河田町一六東京電力河田町変電所角を左折して住吉町商店街に向かい、同区住吉町二三近藤商店角を右折し、更に同区市谷台九深井医院角を左折した上地獄坂通りに出て右折し、その後同通りを抜弁天交差点まで至り、同交差点を右折して若松通りに入り、その後厳島神社付近の路地に入ったりした後、同通りの八機反対側道路を河田町交差点方向に向かい、八機前を通過し、同区市谷河田町一八東京都中央児童相談所角を右折、同町一七先を左折し、同番地所在新宿区検察庁角を右折してフジテレビ前通りに至り河田町アジトに戻るというものである((員)大城戸留夫48・2・20実三三一一三)。

イ 経路

ところで、右下見の経路は、八機正門前及びその付近の警備状況の把握というその目的に照らすと、時間的にも距離的にも迂遠で無駄の多いものである。すなわち、フジテレビ前通り東京電力河田町変電所角を左折してから抜弁天交差点に至るまでの道程が前記下見の目的にほとんど資するものでないことは明らかであり、かつ、下見に同行した井上は、爆弾投てき役の一員とされており、投てき後の逃走経路を確認する必要があるところ、両名の下見はいわば現場付近の大通りばかりを歩いており、逃走経路たるべき路地や脇道の状況を確認した形跡がない。このような不自然さは、「下見」そのものの実在にかなりの疑問を投げかけるものといってよいであろう。

ウ 八・九機の警備状況

この点について、前原は、「八機正門前に二名、八機前道路歩道上に二名、その道路反対側に一名、それぞれ機動隊員が立哨していた」旨供述し(前原48・2・11員面)、かつ、前記二月一七日の実況見分の際にも、「八機正門の両側に各一名、正門に向って右側歩道上に二名、さらに若松通りの八機正門反対側歩道上角(新宿区余丁町一〇五神原修方前歩道上角。同実況見分調書添付「前原、井上が下見したコース状況表(第一)」中の地点をいう。)に一名、機動隊員が立っていた」旨右供述に見合う指示、説明を行っているところ、前原は、前記48・2・16検面においては、「(下見の際)河田町電停方向には交番があることを知っていたので、投げこんだ後、逃げる方向としては、東大久保電停方向か裏路地を通って余丁町方向に逃げるのがよいと思った」旨供述しているのであるが、これによれば、前原は、逃走方向を考えるに当たり、下見の際現認したはずの機動隊員の立哨位置を考慮にいれているとは思われず(特に、前記地点の機動隊員の存在が、投てき後、河田町交差点方向への逃走を断念する最大の理由となるはずである。)、従って下見に関する一連の供述の間に不自然な抵触があることになるのである。このような抵触は、結局、「下見」に関する右各供述が現実体験に基づくものではなく、想像の産物である可能性が大きいことを意味するもののように思われる。

(2) 犯行直前の喫茶店集合

ア 前原、内藤自白の概要

犯行直前の行動状況について、前原は、「河田町アジトで最終的な打合せをした後、増渕と赤軍派の者二名が出発した。その際、赤軍派二名と喫茶店で落ち合うよう打合せた。その後、村松、堀、井上が出た後、自分と内藤も河田町アジトを出発し、赤軍派と落ち合う約束の河田町交差点近くの喫茶店に行った。同店には増渕もおり、自分と内藤は、増渕から具体的任務の内容について指示を受けた。村松、井上、堀は来ていなかった。増渕、内藤らが出ていった後、午後六時四〇分ころ、赤軍派の者一名と同店を出発した」と供述し(前原48・3・9検面)、内藤は、「河田町アジトで最終的な役割分担を確認した後、午後六時ころ、二、三のグループに分かれ、同アジトを出た。自分は前原と一緒に出て、前原の案内で河田町電停方向へ向かい、途中の喫茶店に入った。同店には、河田町アジトにいた者が全員集まった。自分は増渕からレポについて指示を受けた後、赤軍派の者一名と同店を出発した」旨供述する(内藤48・3・8検面)。

イ 疑問点

しかしながら、両名の右供述には次のような疑問がある。

(ア) 集合者の不一致

喫茶店に集合した者について、前原は、投てき班の村松、堀、井上は来なかったと述べるのに対し、内藤は犯行に関与した者全員が集まったと述べ、両者の供述が一致しない。

(イ) 喫茶店集合の必要性

前原、内藤の両名とも河田町アジトにおいて最終的な打合せをしたというのであるから、更に犯行直前に喫茶店に集合する必要性は乏しい(両名とも、増渕から効果測定あるいはレポについて具体的指示を受けたと供述するが、河田町アジト出発前に指示を受ければ足りる。)。かえって、犯行直前に現場近くの喫茶店に集合し、同店から順次出発するなどというのは、事件後、同店の従業員あるいは他の客らに不審を抱かせる一因ともなりかねず(とくに、後述のように、内藤自白によれば、犯行直後にも再び同店に集まったというのであり、右のような危険性を倍加させることになりかねない。)、その意味で、犯行直前に喫茶店に集合したというのはやや不自然である。

(ウ) 供述経過

ところで、右犯行直前の喫茶店への集合は、両名の当初の供述には出ておらず、内藤が、48・3・3員面において、「河田町アジトを出て、直接八機に向かわず、一旦喫茶店に集合し、そこからレポには出たような気がする」と供述したのが初めで、内藤は更に48・3・7員面及び48・3・8検面で前記アのように供述するに至り、また、前原は、48・3・9検面において突然前記アのような供述をしたのである。

そこで、右供述の経過について検討すると、まず、犯行直前に共犯者らが喫茶店に集合したこと自体は、それまでの両名の供述内容からして別段秘匿しておく必要性があったとは思われず、当初の供述にこの点が出てこなかったことが、両名のことさらな隠し立てによるものとは考えられない。また右のような供述の経過自体からみて、両名がいずれもこの点に関する記憶を消失していたところ、自然のなりゆきで想起し、供述したものと解することも甚だ困難である。このような供述をした理由について、内藤は、公判廷で、「取調官から佐古の下宿をわいわい出て行くはずがない。どこかに集まったんじゃないか、喫茶店を使ったんじゃないかとさかんに追及された」あるいは、「ほかのメンバーも喫茶店を使っていると言っていると追及された」と供述するが(二八回内藤証言⑪二七九六、二七八二、二六回同⑩二五七二等)、増渕が48・2・18員面において、内藤らに先立ち、「村松に、八機前の通りの喫茶店を出撃拠点にして出発するように指示した」旨供述していることをも併せ考えると、内藤の右供述は一概には排斥できず、取調官である田村巡査部長が、増渕自白を基に、犯行前の喫茶店集合について追及した結果、内藤がこれに迎合して虚偽の供述をしたものではないかとの疑いを払拭できない。

また、前原の48・3・9検面における前記供述は、内藤自白と整合させるべく、取調官の濱田検事が、内藤の48・3・7員面及び48・3・8検面供述に基づき前原を追及したところ、前原がこれに合わせて虚偽の供述をした可能性が強い。すなわち、内藤は48・3・7員面において、右喫茶店を「河田町交差点近くのフジテレビ前通りのフジテレビと反対側の店」と述べ、その位置を図示していたが、同月九日実況見分に立ち合った結果、右供述した地点には喫茶店がないことが判明し、付近を検索して、若松通りに面した喫茶店であったと供述を訂正しているところ(内藤48・3・9員面、(員)小池勝48・3・12実三三一三九)、前原は、同日(すなわち内藤の右実況見分当日)、濱田検事に対し、右の喫茶店集合の件を初めて供述し、かつ、その所在位置を前記内藤48・3・7員面添付の図面と同じ場所に図示しているのである。この点につき、前原は、公判段階で、「濱田検事から、内藤が『増渕はすぐ近くの河田町の通りにある喫茶店にいた』と言っていると言われ、喫茶店の場所まで図示して見せられた。その場所には喫茶店があるという記憶もなかったし、おかしいと思ったが、最終的にはその筋書きを認めた」旨弁解するが(七四回前原供述八八八二)、右両名の供述内容、供述の経過からみて、右の弁解は大筋において信用してもよいように思われる。

(3) 犯行直後の喫茶店集合

ア 前原、内藤自白の概要

犯行直後の喫茶店への集合に関し、前原は、「都電に乗って、八機前を通過した後、東大久保で下車し、午後七時四〇分か五〇分ころ、事件後集合することになっていたその付近の喫茶店に赤軍派の者一名と行った。同店では井上、内藤に会った。増渕がいたかどうかはわからない。村松、堀は来なかった。」と述べ(前原48・3・9検面)、内藤は、「午後七時から五分位過ぎても何も変わった様子がないので、レポ出発前に集合した喫茶店に戻った。同店には菊井がいた。前原もいたが、自分より早く戻っていたか断言は出来ない。その後、井上、増渕が来た。村松、堀は来ていない」と述べる(内藤48・3・8検面)。

イ 疑問点

両名の右供述については、次のような疑問がある。

(ア) 看過し難い不一致

犯行直後集合した喫茶店について、内藤は犯行直前に集合した喫茶店と同一の喫茶店であった旨述べるのに対し、前原は右の喫茶店とは異なる東大久保付近の喫茶店と述べるほか、犯行直後喫茶店に来たものとして、内藤は菊井を述べるが前原は述べない。

両名の自白が同一の実在する事象についての共通の体験を真摯に再現するものであるならば、このような不一致はありえないと考えられ、看過できないところである。

(イ) 前原自白の推測的性格

前原の犯行直後の行動状況に関する供述の変遷状況は、前記(二)(1)イ(ア)のとおりであるが、その内、前原が48・2・26検面において、「どこかの喫茶店で皆が集まり、それから河田町に帰ったと思う。これだけ大胆なことをやりながら総括もせず、バラバラに別れてしまうはずがない」と供述しているのは注目に値する。すなわち、前原は、この時点において、理屈の問題として、犯行直後の集合場所の存在を考えているのであって、これは、この点に関するそれ以前の断定的供述はもとより、その後の断定的供述も前原自身の確たる記憶に基づかないものである可能性を示唆するものであるといえよう。

(四) 犯行前日の謀議の状況

(1) 謀議の場所等

ア 内藤自白の変遷

犯行前日の謀議の場所及び謀議の状況に関する内藤の供述はかなりの変遷を示すが、これを概観すると次のとおりである。

48・2・6員面 河田町アジトに村松、前原、井上外二名位(一人は菊井と思う)と集まり、村松が機動隊を攻撃しようとの話を始めた。「八機が手薄だ」「正門のところに何か投げこみ、注意を引きつけてその隙に横の方から侵入する」などの話も出、村松が略図のようなものを書いた。増渕はいなかったと思う。誰かから「明日町田か高野を連れて来い」と言われた。

2・8員面 河田町アジトで八機襲撃の話が出た際のメンバーは前回どおり。増渕はいなかったと思う。「明日高野か町田を連れて来い」と言ったのは村松か誰かだった。

2・18員面 河田町アジトで、村松が、八機の地図を書き、「八機の正門のところに何か投げ、注意を引きつけて八機の中に侵入する」という話をしだす。何を投げるか具体的には聞いていないが、ジュース(火炎瓶の意)と思う。その際、話し合ったメンバーは従前どおり。帰り際に村松から「高野か町田を連れてこれないか」ときかれた。

2・24員面 河田町アジトで前原、井上といると村松が来た。村松から八機襲撃の話が出た。村松は略図を書いて一気に説明した。その際、「これからは爆弾等を使用する時代だ」などと話す者がおり、それが増渕だったと思う。

2・28員面 河田町アジトに前原、井上(あと一名いたかもしれない。)といると村松が来て、八機の略図を書き、「正門に何か投げ注意を引きつけ横の方から侵入する」という話をした。侵入は感違いかもしれない。その際、爆弾闘争の話があったが、増渕からだと思う。その後増渕が各自の任務を決めた。帰り際、増渕から、「明日町田か高野を連れてきてくれ」と言われた。

3・7員面 午後四時か五時、喫茶店に増渕、前原、井上、梅内、花園と集まり、増渕から八機を爆弾で襲撃する話が出された。午後六時か七時ころ、河田町アジトに前原、井上と三人で戻っていると、村松が来て、略図を書いて八機襲撃計画を説明した。その後増渕が少し遅れてやってきて各自の任務を決めた。

3・8検面 午後四時ころ、喫茶店に増渕、前原、井上、初対面の赤軍派の男二名と集まり、増渕から爆弾による機動隊攻撃が提案された。午後六時ころ、前原、井上と三人で河田町アジトに戻っていると村松がやってきて、村松が中心となって話した結果八機襲撃が確定した。八機横の路地から攻撃することに決まったと思うが、それが正門に投てきするとどの段階で変更になったのか記憶がない。増渕がいつ来たかははっきりしないが、その後の各自の役割を決定する段階では来ており、増渕がこれを行った。

イ 前原の供述経過

これに対し、前原の供述は、当初の自白以来、おおむね、「夜、河田町アジトに増渕、村松、井上、内藤と自分が集まり、増渕から爆弾闘争の提起があり、一〇・二一夜佐古らが持ち帰ったピース缶爆弾を用いて八機を攻撃することになった。その後増渕を中心に各自の任務が決定した」との趣旨で一貫していたが、48・3・9の検面に至り、「夜の謀議に先立って、午後五時三〇分から午後八時までの間に、喫茶店で増渕からピース缶爆弾による機動隊攻撃の提起があり皆賛成した。どういう経緯でどのようなメンバーが集まったかは思い出せない」旨述べ、突如喫茶店における謀議を供述している。

ウ 検察官の主張

ところで、検察官の犯行前日の謀議場所に関する主張は、「一〇月二三日午後まず喫茶店エイトで増渕、井上、前原、内藤らが第八・九機動隊事件の謀議をし、次いで同日夜河田町アジトにおいて増渕、村松、井上、前原、内藤らが再び謀議を行った」というもので(論告要旨一三三三五二六)、右主張は、内藤の前記最終的自白及びこれにほぼ符合する前原の最終的自白に依拠するものと見られる。

エ 疑問点

しかし、内藤及び前原の喫茶店謀議に関する各自白には、次のような疑問がある。

(ア) 不自然な内藤の供述経過

内藤のこの点に関する供述は、前記のとおりかなり変遷しているが、まず、内藤には、喫茶店謀議を秘匿しておかなければならなかった理由は見あたらず、従って、内藤がことさらに隠し立てをし、あるいは言を左右にした結果、このような変遷が生じたものとは認められない。連続的に謀議が行われたことから、内藤が喫茶店における謀議の存在を忘失し、河田町アジトにおける謀議と一体化させて記憶していたということも可能性としてなくはないが、48・3・7員面に至って、突然その記憶が喚起されたというのも、それまでの供述状況に照らし不自然である。

(イ) 前原三・九供述の唐突さ

また、前原も48・3・9検面に至って突然喫茶店謀議を述べるが、その供述内容は、八・九機事件に関する他の供述事項に比べ余りにも茫漠としており、かつ、にわかにそのような供述をした理由も述べられておらず、真実の記憶を喚起しての供述とみることは到底できない。

(ウ) 村松、増渕の供述状況

他方、村松及び増渕は、内藤及び前原に先立って、次のように犯行前日の喫茶店謀議につき供述する。

48・2・22検面 村松 喫茶店(エイトと思う。)で増渕と会った。他にも誰かいたかもしれない。八機の話が出たかもしれない。

3・1員面 増渕 喫茶店ミナミに国井、井上、菊井、前原らと集まり、自分が八機攻撃を提案し、全員が賛成した。

(エ) おのずからなる誘導の疑い

以上の諸点に照らすと、内藤の前記喫茶店謀議に関する供述は、取調官が村松ないし増渕のこの点に関する自白に基づき、追及した結果、内藤がこれに合わせて述べたものである可能性がある。また、前原のこの点に関する供述は、起訴を控え、内藤自白との整合性を重視していた濱田検事によって追及された結果、前原が迎合して漠然とした認め方をした形跡が強い。

(2) 謀議の内容

ア 「投てき班」

前原及び内藤が、三名の「爆弾投てき班」が犯行を実行したと供述する点についての疑問は(二)(2)アのとおりである。

イ 「横からの攻撃」

八・九機に対する攻撃方法について、内藤の自白には、「横の方からの侵入」ないし「横からの攻撃」に強く固執する傾向が見られる((四)(1)ア参照)。内藤の攻撃方法に関する最終的な自白は、前記のように「八機横の路地から攻撃することに決まったと思うが、それが正門に投てきするという方法にどの段階で変更になったのか記憶がない。」というものであるが(内藤48・3・8検面八項)、前原は、「横からの攻撃」については一切述べず、一貫して、謀議段階以来「正門前の道路端から正門に向かって投てきする」旨の攻撃方法について述べているのであって、右供述内容の不一致は看過し得ないものを含む。なお、この点に関し、後記3(三)(1)カ並びに同(2)及び(5)参照。

ウ 爆弾入手経路

八・九機事件に使用する爆弾について、内藤は、犯行前日の喫茶店における謀議の際、「一〇・二一闘争では赤軍派が増渕を通してL研と東薬大で一緒に爆弾を作ったが失敗した。その時の爆弾をL研に持って来て明日使う。」と聞いた旨供述する(内藤48・3・7員面。但し、48・3・8検面は右の供述を微妙にぼかし、必ずしも東薬大で作られた爆弾を使用する意味とばかりはとれないよう録取されている。)が、一〇月二一日東薬大において製造された爆弾は鉄パイプ爆弾であって、右の爆弾の入手経路に関する供述は客観的事実に明らかに反する。もっとも、この点については、内藤が、ピース缶爆弾の製造に関与していることを秘匿するため、ことさらに虚偽の供述をした可能性も否定できない(但し、検察官の主張によるときは、内藤が佐古らによるピース缶爆弾の持ち帰りを知らないことが前提になる。)。

エ 河田町アジトでの爆弾の目撃

前原は、河田町における謀議の際、押入れからピース缶爆弾二個を取り出し、その場にいた者に見せた旨述べるのに対し、内藤はこの点を供述しない。48・3・3員面において、爆弾投てきの認識について自白した以上、謀議の際、ピース缶爆弾を目撃したことを内藤が秘匿しなければならない理由はないはずであるのに、その後も内藤がこのことを供述していないのはやや不自然である。

(3) 増渕の参加の有無

前原は、自白の当初から、八・九機への爆弾攻撃を提起したのは増渕である旨一貫して供述し、内藤も、最終的にはほぼ同様の供述をするに至る(内藤48・3・7員面。なお、48・3・8検面には、機動隊に対する爆弾攻撃は喫茶店で増渕が提起したが、最終的に八・九機に確定したのは、河田町アジトにおいて村松を中心に攻撃方法を検討したときであるとされ、従前の内藤供述と決定的な食い違いが生じないよう配慮された供述記載となっている。)。

しかし、内藤は、前記(四)(1)アに見たように、当初は「村松から八・九機への攻撃が提起されたもので、増渕はいなかったと思う」と述べ、あるいは「八機襲撃の話が出た際、増渕はいなかったと思う」と述べていたものである。増渕は、内藤の属する東薬大社研にも頻繁に出入りして指導するなど、内藤にとって、村松、前原、井上に比し、より接触の多い人物であり、増渕が他の者に先立って、最初に八・九機に対する爆弾攻撃(あるいは機動隊に対する爆弾攻撃)を提起したのであれば、これを内藤が忘失し、村松と混同するということは考え難い。また、内藤が、増渕だけを特にかばわなければならない理由の存在を窺わせるような事情も何ら存しない。従って、内藤の供述の右変遷はいささか不自然である。

この点に関し、内藤が、公判廷で、「逮捕されて少したってから、増渕の存在に関しての取調べがすごくきびしくなり、取調官のほうから、こんな相談をするのに増渕がいないはずがないと追及された。任意の段階から逮捕されて少しのちまで、増渕はいなかったと言っていたので、後から来たんじゃないかという形の供述になった」などと弁解するところは(二六回内藤証言⑩二五三二、二五三五)、一概に排斥できない。

(4) 導火線燃焼実験

ア 前原、内藤自白の概要

前原及び内藤は、犯行前日の夜河田町アジトで八・九機攻撃の謀議をした際、導火線の燃焼速度を測る実験をした旨供述する(前原48・1・22員面、48・2・2検面等、内藤48・2・24員面、48・3・8検面等)。

イ 疑問点

しかしながら、右の各供述には次のような疑問がある。

(ア) 実験の繰返し

佐古、前原及び村松の各自白によると、増渕らは、ピース缶爆弾の製造謀議の際にも、導火線の燃焼実験を行ったとされており、そうだとすると、増渕らは再び同様の実験を行ったことになり、やや不自然の感を免れ得ない。

検察官は、この点について「被告人らがピース缶爆弾を製造したときは、直接被告人らが自らこれに点火・使用するかどうか決めていなかったので、導火線の燃焼実験も、一般的に導火線をどの程度の長さにすれば良いかの観点で行い、その結果にしたがって製造したものと認められる。ところが、その後、右爆弾を被告人ら自ら点火・投てきすることに決したところから、導火線の燃焼速度を的確には握することが犯行の成否にとどまらず、自己らの安全にかかる切実な問題となったのであるから再度念を入れて実験するのは誠に自然な心理であり、かつ、当然の行動というべきである」と主張する(論告要旨一三四三三五八六)。

しかし、ピース缶爆弾の製造に当たっては、導火線に点火後どの程度の時間で爆発するかは重大な吟味事項の一であり(特に、被告人らの自白によれば、ピース缶爆弾は完成されたものとして、すなわち導火線の装着も終えた形で、赤軍派に交付されたというのであるから、爆発に至るまでの所要時間は、その際、当然伝達されるべき事柄である。)、その意味で導火線の燃焼実験は慎重に行われ、その結果に基づいて導火線の長さが決定されたはずであり、そうだとすると、八・九機事件の謀議に際し、再度導火線の燃焼実験をする必要性はやはり乏しいといわざるを得ず、検察官の右主張はさまで説得的ではない。なお、前原はこの点につき、製造の際は導火線が使用可能かどうかを知るため、八・九機攻撃の謀議の際は、導火線の燃焼速度を計測するため実験したとの説明をする(前原48・4・6検面)のであるが、その趣旨は分明を欠き、むしろ単なる辻褄合わせの観を呈するといってよいであろう。

(イ) 火吹き

福山仁証言(一二回福山証言⑥一二六九、一二八九)によると、導火線に点火して、燃焼させた場合、その火が端末まで達すると、端末から炎が吹き出すが、右火吹きの強さはJIS規格により五〇ミリメートル離れた別の導火線に点火させるものであることが必要であるとされているのであって、真実導火線を燃焼させたことがあるならば、右火吹きの現象は、誠に印象的なものとして記憶に残存すると考えられるのに、前原、内藤とも、この火吹き現象について述べるところが全くないのは極めて不自然である。のみならず、内藤は、導火線の燃焼実験の最初の自白において、誰かが和紙をよりあわせたようなひも状のものの端をぶら下げる形で持ち、下から火をつけたなどと、線香花火の点火を思わせるようなイメージの供述をしているが(内藤48・2・24員面)、そのような燃やし方をすれば炎が導火線の末端から上方に吹き出て危険なことは言うまでもなく、これが現実体験に基づく供述でないことを窺わせる。

(ウ) 燃え方

前原は、八・九機事件のピース缶爆弾の写真((員)大友宗弘44・10・25写報一四八三三)の呈示を受け、「導火線の長さが四、五センチメートルのように見えるが、投てき前は六、七センチメートルだったと思う。点火したことにより短かくなったのではないか」と供述するところ(前原48・2・15員面)、導火線はこれを点火・燃焼させた場合、中の芯薬(黒色火薬)だけが燃えるのであって、被覆線自体は燃焼せず、従って、導火線を燃焼させた前後において、導火線の外形的な長さには別段変化はないのであるから、前原の右供述は、導火線の燃焼を目撃した者の供述としては不可解なものとしなければならない。

(五) 関連事項

(1) 前原八・九機発言(菊井証言と佐古供述)

ア 菊井証言

菊井は、「一〇月二五日前原が若松町アジトに訪ねて来たので、八・九機事件を報じる当日の新聞記事を示したところ、前原から『これは俺達がやったんだ。増渕の指示で坂上で残った爆弾を使った。村松が投げて、井上も自分もやった。自分は見張等をやった。赤軍派の奴も一緒だった』と聞いた」旨供述し(九五回菊井証言一三四五七、九部57・9・2菊井証言二六九六四)前原の捜査段階における供述にも、場所は河田町アジトと異なるものの、同日朝同アジトに来た菊井と新聞記事を見た際、八・九機事件への関与を話した旨菊井の右供述にほぼ符合するとみてよいものがある(前原48・1・22員面、48・1・23検面)。

しかしながら、アメリカ文化センター事件の章でも検討したように、菊井の公判廷証言、ことにピース缶爆弾製造に関する証言については、後記のように多大の疑問が存し、その信用性をにわかには首肯しがたいところ、特段の事情がない限り、菊井の八・九機事件に関する前記証言も、これと一体のものとしてその信用性を判断すべきものである。

ところで、菊井は、昭和四八年三月段階において、ピース缶爆弾製造の嫌疑で取調を受けた際、「前原からと思うが、一〇・二一の後日、『一〇・二一に爆弾が手に入った』旨聞いた。その後、誰に聞いたかは忘れたが、この爆弾は八・九機に使われたらしいことを聞いた」(菊井48・3・16員面一四八九二、一四八九九)、「一〇・二四の翌日くらい、新聞で知った八・九機事件を、ちょうど宮里荘(若松町アジト)に来ていた前原に話したところ、自分がやったというような意味の話を聞かされた」(菊井48・3・28員面五項。但し、署名押印は拒否されている。)旨、ほぼ前記公判廷証言に符合する供述をしており、一見昭和四八年三月段階から一貫して前原八・九機発言を述べているという特段の事情があるものとして、その信用性を肯定してもよいかのごとくである。しかし、他面、菊井は、一〇一回公判で、右48・3・28員面の作成状況につき、「(製造事件による勾留中の)取調べの中で、八・九機事件について追及を受け、前原が事件の翌日菊井に会って、八・九機事件は俺たちがやったと話した旨供述していると取調官に言われた。取調官とのやりとりの中で、うっかり口をすべらせてそれを認め、調書にされたが、署名指印すると、これが証拠になって他の被疑者に迷惑がかかると考え、署名指印をしなかった。取調官の言ったことは、あるいは事実であろうかとも思ったが、ひょっとするとまだそこまでは自供していなくて、かまでもかけられているのではないかとも思った」旨証言しているのであり(一四三四三)、更に、後記第八章三5(二)(8)ウ(キ)のとおり、当時、菊井は全般的に前原自白を基に取調官から追及を受けていたこと及び前記のとおり既にその時点においては右前原八・九機発言に関する前原自白がなされていたことをも考えあわせると、菊井の捜査段階における右供述も、前原自白に合わせる形で追及の鉾先をかわした結果である可能性が強い(菊井は、公判廷において、昭和四八年の取調においては、自分から供述した事柄はなく、供述したところは、すべて、自分より前に逮捕された者たちの供述に基づいて追及された結果である旨証言するが((一〇一回菊井証言一四三四一、九七回同一三七二五等))、このことも、右可能性を裏付けるものと言えよう。)。してみると、菊井証言(あるいは捜査段階における供述)が、前原八・九機発言について、前原自白と符合するのは、当然であって、その点を前原自白の真実性との関係で重視するのは相当でない。

以上のとおり、結局、菊井の前原八・九機発言についての証言(供述)は、前原の八・九機事件に対する自白を補強ないし補完するものとは認め難いものである。

イ 佐古供述

佐古は、48・1・17員面において、「一〇月二八日再び上京し、翌二九日河田町アジトに行くと、前原がおり、前原に一〇・二一に持ち帰った爆弾二個の行方を尋ねると、八・九機の方を指して『爆弾の一発は花園に言われ、俺と青山でやったんだ。やった時職質されそうになり、近くに住んでいる村松も職質されたりした』旨話してくれた」と供述しており、佐古の右供述が前記のとおり、前原自白の引き金になったのであるが、佐古の右供述には次のような疑問がある(佐古の右員面は、三二八条書面及び佐古の供述経過を明らかにする証拠物として取調べたものであるが、その点はひとまず措く。)。

(ア) 佐古供述によれば、前原発言は、八・九機事件が、花園の指揮の下、前原及び井上の計三名で敢行されたとの趣旨のものであり、特に村松は事件に無関係であるのに職務質問を受けたというものであって、内容的に前原自白と大きく相違しており、その真実性が疑わしい。

(イ) 佐古の右前原八・九機発言は、佐古の検面調書には録取されていない。佐古のこの点に関する供述は、有力な傍証になり得るものであることを考えると、佐古が信用できる供述をしているのに、検察官が、調書録取の段階で、ことさらにこの点を落とした調書を作成する理由は見当たらないから、既にその段階で検察官もこれを信用しなかったものと考えてよいであろう。

(ウ) 佐古供述は、「一〇・二一ピース缶爆弾持ち帰り」を大前提にした供述であるところ、「一〇・二一ピース缶爆弾持ち帰り」については、前記第六章二2(三)(1)に検討したとおり、その実在に疑問がある。

以上の諸点を総合すると、佐古の右供述は、前原の昭和四八年一月一六日の佐古による「一〇・二一ピース缶爆弾持ち帰り」に関する供述に基づき、翌一七日佐古を追及した結果、佐古からも同旨の供述を引き出すのに成功した取調官が、アメリカ文化センターに使用された爆弾以外のいま一つの爆弾の使用先として、未解決事件の一であった八・九機事件を挙げ、「前原が使用先について何か言っていなかったか」という形で更に追及したところ、佐古がこれに迎合したものである可能性がすこぶる強い。

(2) 増渕及び内藤のアリバイ

弁護人は、増渕及び内藤は、八・九機事件の発生した一〇月二四日夕刻から午後一〇時ころにかけて、同月二〇日東薬大において、東薬大社研の者らが製造し、同月二三日及び二四日の各早朝に、同大学から平野の下宿に運び込んであった火炎瓶七、八〇本を、町田敏之らとともに、同下宿から渋谷区本町所在の江口・前林のアパートに運びこんでいたのであるから、八・九機事件についてアリバイがあると主張する(最終弁論三二八三三九五三)。

そこで検討すると、平野供述(一四六回平野供述二五六八八、一四七回同二五七三八、二五七五二等)、増渕証言(三五回、三七回、四三回増渕証言⑭三七九五、三九〇二、三九一〇、⑯四四二七、四四三七、一五三回同三一〇四〇等)、町田敏之証言(東京高裁52・7・13町田敏之証言二七二九六)及び長谷川幸子証言(東京高裁52・11・10長谷川幸子証言二三六二〇)は一応弁護人の主張に沿うかの如くである。

しかしながら、右の各供述のほか、本件に現われた関係各証拠を総合すると、増渕らが、同年一〇月下旬のある一日の夕方から夜間にかけて、二回にわたり、火炎瓶数十本を平野の下宿(糠信荘)から江口・前林のアパートまで搬出したことは認めることができるものの、右の搬出が同月二四日であったと一義的に確定できるわけではなく、これをもって直ちに八・九機事件の完全なアリバイとすることはできない。すなわち、この点に関し、平野、増渕及び町田の他の機会における供述を見ると、平野は八部内藤公判に証人として出廷した際、「東薬大から自分の下宿の部屋に火炎瓶を運んだのは二回であり、一〇月二四日及び二五日の両日である」「一日位自分の部屋に置いて、一、二日あとに江口のところに運んだと思う」旨証言し(八部九回平野証言二七一三七、二七一四〇。なお、平野は、同公判において、右の点の証言後、弁護人から、更に、「証人によっては、学校から運び出した日に江口方に運んだという人もいるので記憶を明確にして欲しいのですが、江口方に運んだのはいつですか」と問われ、「大学から持って来て一旦自分の下宿に置き、二四日の夜に江口の所に持っていったような気もする。明確な記憶ではないが、時間的にはそのくらいかなと思っている」旨証言しているが、右弁護人の発問等に照らし、その時点において新たに記憶を喚起し、前述の証言を訂正したものとは認められない。)、増渕も、捜査段階においては、「一〇月二四日ころ、火炎瓶を平野方から江口方に運んだことがある」旨必ずしも同月二四日と限局した供述はしておらず(増渕48・1・22員面)、また、町田も、前記証言の直前、内藤の弁護人である堀弁護士に送った手紙においては、右江口方への火炎瓶の運搬の日時を「一〇月二二日の数日後の夜」とし、また、参考人として事情を聴取された際にも「一〇月末ころ、江口方に火炎瓶を運んだ」旨供述している(町田48・4・11員面二七三六三)のであって、いずれも火炎瓶搬出の日に関し、前記各供述と必ずしも符合せず、また、右の火炎瓶を江口方に運搬した当時者の一人である内藤は、任意の事情聴取の段階において、「一〇月二二日に平野方において、平野、石本、町田、高野と火炎瓶の処置について相談し、その結果、同月二三日から三日間にわたり、火炎瓶を大学から平野方へ搬出した」旨供述し(内藤48・1・12員面、48・2・6員面)、八・九機事件で逮捕後も右供述を維持し(内藤48・2・18員面)、更に、八部公判廷でも、その旨の供述をしている外(八部三回内藤供述一七一三〇)、当部公判廷においても「同月二三日から火炎瓶を大学から運び出した。三日位かかったかもしれない。その後江口のアパートに運んでいる」旨供述しているのである(二〇回内藤証言⑧二〇五四、二〇七四、二〇九六等)。

更に、弁護人が、これらの証拠に比べ、客観的で信用性が大きいと主張する前記長谷川証言にも以下のような疑問がある。すなわち、長谷川証言の内容は、大要、

「自分は、昭和四四年当時白百合女子大学に在学していたが、同年一〇月二四日夕方ころ、大学を出て、先輩の前林則子に同行して、同女の下宿まで行った。着いたときは、同女の同居人である江口はいなかった。着いて間もなく、増渕ら五、六人の男が突然室内に入って来たが、雰囲気から追われているように感じた。増渕らは黒い鞄を持っていたが、その個数は覚えておらず、また、その際、鞄の中味を出したことはない。男達がいた時間は三〇分位で、自分は一時間位おり、相前後して帰った。その日が同月二四日であることは当時自分がつけていた日記によって明らかになった」というもので、増渕のアリバイの成立を強く窺わせるものではあるが、他方、同証言によると、右日記は、昭和四三年一一月二四日から昭和四四年一一月一〇日まで、二〇歳を前にして、いわば青春の記念として書き付けられたものというのであって、換言すれば同女には日記の習慣が長年あったわけではなく、同女が日記を付けていたのは、証言当時(昭和五一年一一月一〇日)まで右の期間だけであったことになるほか、右日記は、小型のノートブックを利用したものであるが、毎日必ず書きつけたものではなく、何事か変わったことがあった度に書きつけたというものであって、その記載は右の期間を通して全体でも二十数丁に過ぎないものであるのに、右日記中に昭和四四年一〇月二四日の増渕らのアリバイに関する記載が存する(なお、日記中には、更に、同年一一月一日すなわちアメリカ文化センター事件当日の夜も増渕らに会った旨の記載も存する。)のはいささか僥倖に過ぎる感を免れ得ず、かつ、右日記中の肝心の同年一〇月二四日分から同月二七日分までの四日間については、同月二七日から始まり同月二四日に至るといういわば時間的に遡る形で記載されているところ、その理由について、同女は、「同月二七日に思い出して、それ以前四日分の記載をしたものである」旨述べるが、右日記のその余の記載部分にはそのような書かれ方がされた箇所がないことに照らすと、その記載状況にはやや疑問もないではないなど、右日記の記載内容の正確性について若干の疑点が存する。更に、その供述内容についてみても、火炎瓶を江口のアパートに搬入した一回目の状況につき、増渕、内藤及び町田の述べるところは、黒鞄三ないし四個を持ち込み、火炎瓶を右鞄から取り出して押入内に隠匿したというものであるが(仮に、長谷川が増渕らによる火炎瓶搬入の際、江口のアパートに居合わせたとすると、時間的に考えても、弁護人が主張するように、一回目の搬入であるとすべきものである。)、この点に関する長谷川証言は、「増渕らは黒い鞄を持って来たが、それは小さいものであった。増渕らは、三〇分位在室し、自分と前後して帰ったが、その間鞄から火炎瓶を取り出すのは見たことがない」というものであって、その目撃状況に関する供述は、増渕らの供述と大きく食い違う内容といわざるを得ない。同女にとって、右のような状況の下で突然火炎瓶が運びこまれるなどは、特異な体験であって、事柄の性質上強く記銘されるべきものであることを考えると、右の供述の食い違いは、同女の記憶の変容というだけでは説明がつかず、結局、同女が目撃したと供述する前記状況は、前記火炎瓶搬入時以外の状況である可能性が極めて高いとしなければならない(付言するに、長谷川証言は、増渕らが帰った後、同女が江口・前林アパートを退出したとのニュアンスが強いものであるが、同女が増渕らに先立って退出した可能性を全面的に否定するものともいえず、そうであるならば、増渕らが、長谷川の存在を邪魔と考え、同女が帰った後、鞄から火炎瓶を取り出したということもあり得よう。しかし、そのような場合には、その旨当該状況を述べるのが自然であるのに、増渕ら火炎瓶搬入に関わった者のうち、そのような供述をする者はいないのであって、結局、右の可能性も否定的にとらえざるを得ない。)。

なお、弁護人は、右長谷川証言が信用できる根拠として、同女が、翌日の状況として述べるところが、同月二五日の天候あるいは新聞記事等の客観的状況と符合することを挙げるが、右の点に関する同女の証言は、明らかに弁護人の誘導的尋問の結果であり、にわかには措信し難いものである。

以上検討してきたように、一〇月二四日夕刻から夜にかけての増渕及び内藤のアリバイに関する弁護人の主張は、首肯できない。

(3) 「一〇・二一爆弾持ち帰り」

八・九機事件に使用された爆弾は、前述のとおり、佐古及び井上が一〇月二一日夜中野坂上で入手し、河田町アジトに持ち帰ったものとされているが、そもそもそのような事実があったのかどうかについて、第六章二2(三)(1)参照。

3  内藤自白の信用性

(一) 捜査段階の自白

内藤の捜査段階における自白は、前記のとおり、事件への関与について全面的に否認するのでもなく、曖昧な供述に終始した挙句、次第に具体的かつ詳細な供述をするに至ったものであるが、その最終的自白についても、既に検討してきたように多くの疑問点が存し、その供述過程は総じて記憶を喚起して供述したものとは認め難く、また、内藤がことさらに犯行への関与を秘匿していたものでもなく、結局内藤が取調官の追及に迎合して供述されたものである可能性が極めて強いのであって、その信用性には多大の疑問があり、かつ、後記のとおり前原、村松及び増渕の各自白もそれぞれ信用性に乏しく、これを補強ないし補完するに足りない。

(二) 公判段階の自白

内藤の八部公判廷における八・九機事件への関与を認める旨の供述も、基本的には右捜査段階の自白の延長線上に位置するものであり、捜査段階の供述に前述のような疑義が存する以上、いわば一連のものとしてその信用性には疑いを投げかけざるを得ない。

検察官は、公判廷供述であることを強調するが(論告要旨八二三三五六〇)、真犯人でなくても公判廷において罪責を認める供述をすることがないではないことは、我々が日常、裁判に携わるにあたって経験するところであり、これを絶対視することはできない。

(三) 自白の要因

以下、内藤がかかる自白をするに至った要因について検討する。

(1) 供述の特徴

まず、内藤の供述の経過、供述内容には次のような特徴が認められる。

ア 任意取調べ段階

任意取調べの段階では、河田町アジトにおける八・九機襲撃の話し合いの状況についてかなり具体的に述べるが、八・九機周辺における行動については、断片的な記憶らしきものを述べるだけで、右話し合いと関連づけて供述するものではないこと

イ 逮捕後48・2・24員面まで

八・九機事件による逮捕後48・2・24員面ころまでの供述については、同事件への関与をあやふやに認めつつ、河田町話し合いの翌日八・九機周辺を歩いた旨右話し合いと関連づけて述べるようになったが、その内容は、まことに曖昧かつ茫漠として理解し難く、具体的な事件への関わりを持った者の供述とは到底思われないようなものであること

ウ 二月二五日以後

内藤は、八部第三回公判において、「最初の自供から調べの一〇日位までは本当に自分の記憶をたどりたどりやってきた。ところが、急に、こんな調書では話にならん、反省していない、と取調官が言い出し、結局その後は、取調官がヒントのようなことを言うと、そうなのかな、それでいいと思って供述するようになった」と供述(八部内藤供述一七一四五)するところ、取調官である田村巡査部長も「昭和四八年二月二五、六日ころ、管理官から、内藤の供述はよくわからんから、もうちょっとしっかり調べてくれと指示され、その後追及の語調が多少強くなった」旨右内藤の供述を裏付ける趣旨の証言をしており(九部一九五回田村証言一九一三六)、現にその後の供述は自白としての体を成すようになり、48・3・7員面及び48・3・8検面の最終的自白に至ること

エ 八部公判段階における後退

内藤の八部第三回公判における供述(一七〇八三、一七一一五)は、基本的に八・九機事件への関与は認めるけれども、その内容は捜査段階における最終的自白からは相当後退しており、任意取調べの段階の供述に近づいていること

オ 当部公判段階

内藤の当部公判廷における供述は、任意取調べ段階の供述とほとんど同様であること

カ 「横からの攻撃」と菊井の関与

公判廷における供述を含めて、内藤の供述経過をみると、河田町アジトにおける八・九機襲撃の話し合いが、村松の主導において行われたこと、八機襲撃方法についての「横の方からの侵入」あるいは「横からの攻撃」及び八機襲撃に際しての菊井の関与等について相当固執していること

キ 迎合的態度等

内藤の供述態度には、2(一)(4)に述べたように、顕著な迎合的傾向その他の問題があること

以上である。

(2) 別の八・九機攻撃計画

他方、既に認定したように(第四章二3(一))、村松及び前原については、九月三〇日早大ブントの者らと八・九機に対する火炎瓶による攻撃を計画したが、結局挫折したことがあったことに照らし、このほかにも、その当時、L研の者らが集まり村松が中心になって、八・九機を攻撃目標とする話し合いがなされた可能性がある(現に増渕、井上は、公判廷において、村松がそのような話をしていたことを肯定するほか、前原もその可能性を示唆する供述をする。三九回増渕証言⑮四二〇三、一五三回同三一〇五八、一四五回井上供述二五四九九、二五五四九、六〇回前原供述六七六六、六一回同六九三二、九部一五三回前原証言三一一三六、一五五回前原供述三二七四九)。

(3) 友人方訪問及び菊井との夕食

内藤には、昭和四四年当時、若松町に住む友人(内藤48・2・21員面によればその氏名は西村忠雄である。)がいて、同人を訪ねる際に八・九機付近を歩いたことがあり、また同年一〇月ころの夜、菊井と八・九機近くの若松食堂で夕食をとったことがあるが、その際、同食堂のテレビで、「何とか邦画劇場」という時代劇をやっていたということである(二〇回内藤供述⑧二〇六二、二〇六八、二〇九九、八部六回内藤供述三三三五四、東京高裁(内藤)九回内藤供述三三四四二、内藤48・2・6員面、48・2・18員面、48・2・21員面等)。

(4) 記憶喚起の努力

内藤には、任意取調べの段階で、自ら進んで出頭し、取調官である田村巡査部長に面接したり、あるいは、取調の翌日自ら八・九機付近に赴いて周辺を見て廻り、その結果を取調官に述べるなど、捜査に協力しようという態度が見受けられる。もとより、このような態度は、捜査の進展状況を探り、あるいはことさらに現場近くまで行くポーズをとって取調官の印象をよくし、逮捕を免れようとの動機に出たものとも見られなくもないが、他方、その迎合的で弱気な性格を反映して、警察官が追及する以上、なにがしかの事実があったのではないかとの気持に陥り、必死に記憶喚起を図ろうとしたものである可能性も否定できない。

(5) まとめ

以上の諸点を総合して考察するときは、昭和四四年一〇月ころ、河田町アジト等において、村松が、前原、井上らに対し、八・九機を火炎瓶で攻撃し、横から侵入するという内容の計画を提起したことがあり、内藤もその場に居合わせたが、右計画は結局実行されるには至らなかった事実及び内藤が、そのころ、河田町アジト、若松町アジトあるいは前記若松町の友人方に赴いた際、八・九機付近を歩いたり、菊井と若松食堂で食事をした事実があり、右のような事実を断片的に記憶していた内藤が、昭和四八年二月に至り、取調官から八・九機事件を追及され、前原らが同事件を認め、内藤の名前も出している旨聞かされ、いわゆる東薬大事件における鉄パイプ爆弾製造に増渕らが関与している旨信じていたこともあって、同人らが八・九機事件の犯人であると思い込み、かつ、内藤自身、村松らと八・九機の攻撃について話し合った前記断片的記憶もあって、自己の同事件に対する関与の有無についても半信半疑の状態になり(爆弾事件への関与という非日常的な事柄について、かかる記憶の混乱が生ずることは、通常考え難いが、内藤のように主体性が乏しく、特異な迎合的性格の持主の場合には、極めて例外的に、そのようなこともあり得ないではないと考える。)、その後厳しい追及が続くうちに同事件を前記のような断片的な記憶に結びつけ、これを増幅し、取調官の追及に合わせた供述をした可能性が否定できない。

この間の供述の経緯のほか、八部公判の当初において事実を認めるに至った心情について、内藤は、要旨、

「(任意の)事情聴取の時は、関与しているという記憶はなかったが、思いがけず逮捕され、取調官から、他の連中の供述からみて内藤が関与したことは間違いないというようなことをにおわせられ、一方、自分にも断片的な記憶があったため、ひょっとしたら本当は関与していて、それを忘れているのではないかと思いこんでいった。一方には、本当にやったのかなという気持もあった。自分の公判が始まった段階では、やったのかもしれないという気持の方が強くなっていたことと、公判で事件に関与した記憶がないなどと言えば、反省してないと思われ、重い刑になるのではないかと恐れたため(事実を認めた)」

などと弁解するのであるが(二七回内藤証言⑩二六九五)、上述した諸点に照らし、右弁解はたやすく排斥することはできないように思われる。

4  前原自白の信用性

前原の自白に対しても、以上詳述して来たようにその供述の相当部分につき、多くの疑問点が指摘されるほか、前記2(一)(3)のとおり、その信用性については、取調べの経緯に鑑み、特に慎重な検討が必要であること等を考えると、結局、前原の八・九機事件の自白の信用性には、疑問が残らざるを得ず、内藤、増渕及び村松の各自白並びに前原八・九機発言に関する前記菊井証言及び佐古供述も、その信用性を補強ないし補完するものとはいえない。

前原の右自白は、アメリカ文化センター事件に関する自白同様(第六章二3(二)(2))、取調官の追及に迎合してなされたものと考えるべきであろう。

三 村松の自白

1  自白の経緯と内容

(一) 村松は、昭和四八年二月一二日八・九機事件により逮捕され、当初否認したものの、同月一四日自白し、同月二二日再び否認に転じたが、同年三月三日あらためて自白するに至ったものである。

(二) 村松の八・九機事件に関する最終的な自白は、大要、

「一〇月二三日増渕から電話連絡を受け、喫茶店エイトに行くと、増渕、前原、井上外一名(内藤であったかもしれない。)がおり、増渕から河田町アジトに爆弾が入ったので八機を攻撃することに決めた旨の話がなされた。八機付近の地理を説明しろと言われ、自分が説明した。同日夜増渕の指示どおり河田町アジトに赴くと、増渕、前原、井上、内藤が既に来ており、八機の攻撃方法について話しあった結果、翌日話を更に詰めるということになったが、その時点では、翌日決行という話も、決行時の役割分担の話もなかった。翌二四日午後一時ころ河田町アジトに行き、増渕の指示で堀を近くの駅に迎えに行って同アジトまで連れ戻った後、午後三時ころ、再び増渕に指示され、堀と二人で八機周辺の下見をし、その結果を増渕に報告した。午後四時ころ、当夜八機に爆弾を投てきすることに決し、増渕が各自の任務分担を決めて行った。その時点では、増渕、前原、井上、内藤、堀、自分の計六人がいた。当初投てき班として『村松、井上、前原』と言われたが前原も自分も断った。増渕は、前原に菊井を呼んで来るよう指示し、前原は出かけたが、三〇分位して一人で戻って来た。増渕は、その後一人で外出し、戻ってくると自分に木村コーヒー店に行って連絡が入るのを受けるよう指示したので、午後六時ころ、同アジトを出て同コーヒー店に行った。同店には午後七時三〇分ころまでいたが、その間前原から電話があり、また堀も顔を出した。その後、住吉町アジトに戻った後、石井とテレビを見ていると八機の件がスポットニュースで放送された。午後一〇時ころ、増渕が来て、爆弾が不発だったことを知った」

というものである(村松48・3・5検面)。

右に見るとおり、その内容は、事件前日の謀議の内容、犯行時の村松自身の行動等、重要な事項について、前原及び内藤の各自白と大きく相違するものであり、特に、村松自身の犯行時の行動として木村コーヒー店で待機していた旨述べるところは、そもそも右の待機が、八・九機事件の遂行にどのような意味をもつものであるのか判然とせず、更に、村松の自白に従えば、爆弾投てきが誰によってなされたのかも不明である(もっとも村松48・3・3員面では増渕であることを示唆している。)など、八・九機事件という具体的事件に関与した者の供述としては不自然な内容となっている(なお、再否認前の自白においては、自己の役割を結果確認役とし、投てき班を菊井、井上とするが、いずれにせよ、前原及び内藤の各自白と食い違う内容である。)。

2  考察

以上のような供述の内容、供述の経緯の外、村松の公判廷における供述を総合すると、村松の八・九機事件に関する自白は、アメリカ文化センター事件に関する自白と同じく、否認を続ければ、かえって自己に不利益になると考え、事件への荷担は認めつつ、専ら増渕が主導的であって、自己の関与は従たるものに過ぎないと強調しようとの動機に出たもので、真実に反する可能性が高い。

それ故、村松の本件自白の信用性には多大の疑問があるといわざるを得ない。

四 増渕の自白

1  八・九機事件の自白

増渕は、昭和四八年二月一一日八・九機事件について事件の実行を指示した旨自白し、翌一二日逮捕され、以後事前謀議の状況等具体的な供述をするに至ったものである。

2  自白の概要

増渕の最終的自白は、大要、

「一〇月二三日河田町アジトか住吉町アジトで菊井に会った際、同人から、一〇・二一闘争後井上がピース缶爆弾二個を河田町アジトに持ち帰った旨聞き、直ちに爆弾闘争を決定し、前原か村松にL研メンバーをミナミに集合させるよう指示して、同日午後四時ころ、ミナミに菊井、前原、国井、井上、自分が集った。石井も来たかもしれない。村松はいなかった。自分が、入手したピース缶爆弾で八機を攻撃することを提起し、全員が賛成したので、八機の下見を指示し、自分も同店を出て八機の裏を回る形で下見をした。下見後喫茶店にいた者全員が住吉町アジトか河田町アジトに集合し、自分がもっぱら指示する形で『明日夕方実行する。爆弾は正門に向かって投げることとし、投てき役は村松と菊井、他の者はその前後のレポとする。実行前の集合場所は河田町アジトとする』旨打合せをした。同夜、内藤、堀にも電話連絡し、八・九機事件への参加を依頼し了承を得た。同月二四日午後四時ころ、住吉町アジトに行き、村松、石井、前田と会い、村松に打合せの結果を話して了承を得た上、実行前に一旦八機斜め向かいの喫茶店に入り、そこから出発するよう指示した。村松は午後六時か六時三〇分ころ、住吉町アジトを出発した。自分は住吉町アジトで待っていたが、午後八時か九時ころ菊井が来て失敗だった旨報告を受けた。なお、当日河田町アジトか住吉町アジトかで導火線の燃焼時間を計測するため、燃焼実験を行っている。ピース缶爆弾は、当日夜までに見ているかもしれないがよく思い出せない。」

というものである(増渕48・3・2検面)。

3  問題点

そこで、検討すると、増渕の右自白内容は、重要かつ多くの点において、前原、内藤及び村松の前記各自白あるいは菊井証言と異なるほか、不自然、不合理な内容を含むものである。以下、概観する。

(一) 前日の喫茶店謀議

事件前日の喫茶店謀議について、喫茶店の店名(ミナミと供述)と参加メンバー(「増渕、菊井、前原、井上、国井」と供述)が、内藤(エイトにおいて「増渕、前原、井上、内藤、赤軍派の者二名」が参加と供述)及び村松(エイトにおいて「増渕、前原、井上、村松外一名」が参加と供述)と相違し、また菊井が参加したと述べる点で菊井証言とも異なる(前原の自白は、喫茶店名、参加メンバーを具体的に供述せず、増渕の自白と相違するのかどうかは明らかでない。)。

また、増渕は、右謀議後、直ちに八・九機を全員が下見した旨供述するが、前原、内藤及び村松は、下見は事件当日であった旨述べ、供述が食い違う。なお、増渕は、右下見の状況につき、八・九機裏側を回る形で下見した旨供述し、その経路を図示するが(増渕48・3・1員面添付図面)、八・九機裏側には増渕が図示するような道路は存在せず、増渕が述べる経路に従って下見をすることは不可能である。

(二) 前日のアジト謀議

事件前日のアジトにおける謀議について、住吉町アジトであった可能性を述べる点及び参加メンバーの点(前述のミナミのメンバーと同じと供述)で前原、内藤及び村松の各自白(いずれも河田町アジトにおいて、「増渕、村松、前原、井上、内藤」が参加と供述)と異なり、菊井の参加を認める点で菊井証言とも相違する。

また、謀議内容に関連して、爆弾投てき役として村松及び菊井を指示したと述べるが、前原及び内藤の各自白(いずれも投てき班は「村松、堀、井上」と供述)と相違し(村松が事件前日の謀議において、かかる任務分担がなかった旨供述するのは前記のとおり。)、また爆弾投てき後の効果測定役の存在を述べず、かつ、赤軍派との連絡について述べない点で前原の自白と異なる。

(三) 事件当日の行動

事件当日の行動として、増渕自身は住吉町アジトに待機し、村松に実行方を指示した旨自白するが、前原、内藤、村松の各自白と異なる。また、事件後、同アジトにおいて、菊井から八・九機事件につき結果報告を受けた旨供述するが、菊井証言はこれを否定する。

(四) 導火線燃焼実験

増渕は導火線燃焼実験を事件当日河田町アジト又は住吉町アジトで行ったとするが、前原及び内藤は、事件の前日河田町アジトで行ったというのであって、相違する(村松が導火線燃焼実験について供述していないのは前記のとおり)。なお、導火線燃焼実験については前記二2(四)(4)の疑問がある。

4  供述経過

ところで、増渕の供述経過をいま少し詳しくみると、増渕は当初八・九機事件を否認していたが、昭和四八年二月一一日「喫茶店で村松か菊井から電話連絡を受けた際ピース缶爆弾を入手した旨聞き、同人に爆弾投てきを指示した」旨の自白をし(増渕48・2・11員面)、その後「一〇月一八日ころ、L研で八・九機への爆弾攻撃を計画したが中止したことがあり、同月二三日喫茶店で村松から電話連絡を受けた際、ピース缶爆弾の入手を聞いてあらためて八・九機への爆弾攻撃を決意し、同人にその旨指示し、翌二四日住吉町アジトにおいて、更に同人に最終的指示を行い八・九機事件を実行させた」旨供述(増渕48・2・18員面、48・2・21検面)した後、前記2の供述(一〇月二一日以前の八・九機爆弾攻撃については述べない。)に至るのである。

5  考察

増渕の右の供述経過は、その供述内容の変転振りに照らし、到底正確な記憶が次第に喚起されていった過程と見ることは出来ず、また前原、内藤らとの前記のような供述の不一致あるいは供述内容の不自然さが記憶の変容ないし混同によるものとも解し難く、増渕自白の信用性は大きいと言えない。また、これらの点については、増渕が捜査を攪乱しあるいは将来公判で争う余地を残すため、ことさらに虚偽事実を混入させて供述した可能性も否定できないが、それならば、なおのことその供述に信を措くことはできないとしなければならない。

以上の諸点に加え、増渕の取調官が、増渕の供述態度について、述べている点(前記第六章四2)をも総合して考察すると、検察官も主張するように、増渕の自白の信用性にはそれ自体多大の疑問があり、到底前原、内藤及び村松の各自白を補強ないし補完するには足りないものである。

なお、昭和四四年一〇月二四日の増渕アリバイについては前記二2(五)(2)参照。

五 むすび

以上見て来たとおり、検察官においても信用性が乏しいとする村松及び増渕の各自白はもとより、一見十分な信用性を具備するかの如き内藤自白及び相当に信用すべきもののように見えなくもない前原自白も、すべて、その自白が真実を伝えるものであるかどうかにつき多大の疑問を抱かせる数多くの問題点を含み、しかもこれらが各自白の根幹に触れる部分に存するのであって、このような自白をもって、本件公訴事実(八・九機事件)と、その犯人とされている被告人村松、同井上及び同前原との結びつきを示す確証とすることはできない。

第八章当裁判所の判断(その五)

―ピース缶爆弾製造事件―

一 はじめに

1  自白の存在

ピース缶爆弾製造事件(以下、本章において単に「本件」ということがある。)については、前原及び村松の捜査段階における各自白のほか、佐古、内藤、増渕、石井及び江口の捜査段階における各自白、並びに九四回ないし一〇一回菊井証言、九部57・9・2菊井証言、一五六回菊井証言、八部一回及び三回内藤供述及び二部七回石井供述(以上いずれも自白)があり、そのうち捜査段階における供述経過の概要は次に述べるとおりであるが、各自白の信用性については、これを肯定すべきものとするような数々の状況も存する一方、疑問点も少なくなく、十分な吟味を必要とする。二以下において検討する。

2  捜査段階における自白の概況(菊井を除く)

菊井を除くその余の者について、捜査段階における自白の主要な節目をみると、次のとおりである。

日時(昭和年月日)   供述の主体と概要

47・11・18 佐古 時期は不明であるが、村松からピース缶爆弾を製造したと聞いたことがある旨のメモを作成

48・2・12 佐古 自白

増渕 ピース缶爆弾は村松が河田町アジトで製造した旨供述

2・18 増渕 前田(祐一)の依頼を受け、村松に指示してピース缶爆弾を製造させた旨供述

3・5ころ 前原 自白

3・7ころ 村松 自白

3・10 内藤 自白

3・18 (石井、江口、前林、堀がピース缶爆弾製造事件で逮捕)

石井 否認

3・14 (増渕が同事件で逮捕)

江口 否認

増渕 否認

内藤 否認に転ずる。

3・16 江口 自白

3・19 内藤 再自白

3・20 石井 佐古から指示され、河田町アジト周辺をレポした旨供述

3・22 増渕 自白

4・1 石井 自白

二 各自白の信用性に関する肯定的事情

右の各自白の信用性を肯定する方向に働く諸事情として、以下の事実を指摘することができる。

1  菊井証言

菊井は、公判廷において、弁護人の強力な反対尋問による吟味を受けながら、一貫して菊井自身を含む被告人らL研メンバーが中心となって、本件ピース缶爆弾を製造した旨証言しているところ、その証言内容は具体的かつ詳細であって、証言態度も一応迫真性を感じさせ得るもののように見受けられる。

2  佐古、前原、内藤自白の具体性

佐古、前原及び内藤の各自白はその内容が具体的かつ詳細である。

3  佐古、内藤自白の時期(即日自白)

佐古及び内藤はピース缶爆弾の製造について、本格的な取調が開始されたその日のうちにいずれも自白している(佐古については昭和四八年二月一二日、一一五回佐古供述④九一〇、九部二〇〇回好永証言二〇一九八等。内藤については同年三月一〇日、二三回、二九回内藤証言⑨二二三四、⑪二九五七、九部一九五回田村証言一九一八四等)。

4  佐古、前原、内藤自白の一貫性

佐古及び前原は、同事件について自白して以後、捜査段階においては一貫して自白を維持し、内藤は自白後一旦「製造した旨の自白は幻想だった」旨否認に転じたものの、再自白してからは一貫して自白を維持し、自己の公判の段階に至っても、論告、求刑を受けるまで、自白を維持していた。

5  石井自白の維持

石井は、公判の段階に至っても自白を維持し、有罪判決が確定しており、更に、当部及び九部において証人として出廷し、弁護人から後記三2(四)(1)のような自己のアリバイを指摘されて後も、なお、河田町アジト周辺でレポをしたことは間違いない旨の供述を維持している。

6  増渕、村松、江口の概括的自認

増渕及び村松も、結論的には事件への関与を認め、江口も極めて概括的ながら自白している。

7  まとめ

これらの諸点に照らせば、被告人らの前記各自白は、細部はともかく、本件ピース缶爆弾を製造したこと自体については、信用性を肯定してもよいように思われる。

三 各自白の信用性に関する疑問点

しかしながら、他方、アメリカ文化センター事件に関する佐古、前原、村松及び増渕の各自白並びに八・九機事件に関する前原、内藤、村松及び増渕の各自白については、前述のとおりその信用性に多大の疑問があるところ、本件の各自白は、前記「自白の概況」から知られるように、右両事件に関する各自白よりも後の時点でなされたものである。このことは、本件の各自白の信用性を判断するにあたっては一段と慎重な態度が必要であることを意味するというべきであろう。そこで、右の各自白の内容を子細に検討し、あるいは逐一比較してみると、供述内容に軽視できない不合理な点あるいは不自然な供述の変遷があり、また重要な事項について相互に齟齬矛盾するなどの点が見られるのであって、その信用性については、結局、アメリカ文化センター事件及び八・九機事件の場合と同様、否定的に解さざるを得ないのである。

以下、謀議、製造日時(謀議日時を含む)、製造参加者、爆弾材料及び使用器具、製造の実行、完成品の処分の順で判断を示す。

1  謀議

(一) 自白の概要

被告人ら及び共犯者とされる者らの自白の内容は、大要、次のとおりである。

(1) 佐古

一〇月一〇日後で、余り日が経過していないころ、若松町アジトに前原、菊井、井上、自分らが集まった際、「これからは他のセクトに武器の調達をたよらず、自分達で武器を作ろう」という話が出た。

同月一四日か一五日の午後八時ころ、赤軍派とともに村松、前原、菊井、国井、井上、平野、自分が早稲田大学正門に結集し、機動隊を攻撃しようとしたが、赤軍派が用意する予定の火炎瓶が届かず、失敗に帰した。

翌日の午前中、若松町アジトに増渕、村松、前原、井上、菊井、国井、石井、自分が集まった際、ピース缶爆弾製造の話が出たが、どこまで具体的に話されたかはっきりしない。

同日午後ころ、住吉町アジトに増渕、村松、前原、石井、自分が集まり(菊井、国井、井上についてははっきりしない。)、その際に決定されたことと思うが、ピース缶爆弾の製造を翌日河田町アジトで行うこと、爆弾材料集めについての任務分担(ダイナマイト、雷管、導火線については、村松、菊井が早稲田アジトに取りに行き、ピース缶については既に各アジトに若干集められてはいたが、不足分を井上、国井が立大、早大方面に行き、前原、自分が東薬大方面に行き集めてくるとの内容)、その日のうちに爆弾材料を河田町アジトに搬入することが決められた。増渕が「爆弾の製造方法については江口に任せてあり、江口は明日来ることになっている。雷管が一〇本位しかないので、雷管の数だけ一応爆弾を作る」と話し、ダイナマイト、導火線、雷管、薬品等の性質について説明した。村松が爆弾の中にパチンコ玉を入れることを提案し、前原と自分がパチンコ玉を調達することになったと思う。その後、導火線の燃焼速度を計測したが、マッチでは中々火がつかなかったのでガスコンロで点火した。製造の際の任務分担(薬品の調合は増渕、江口、堀、ダイナマイトのピース缶への充填は村松、菊井、レポは国井、井上、石井、自分はレポの中継、部屋の管理、製造の簡単な作業を担当するとの内容)を、その際、増渕が中心となって決定した(以上、佐古48・4・17検面、3・26Ⅰ検面、3・30Ⅰ検面)。

但し、製造日前日の若松町アジトでの謀議は、河田町アジトであった可能性もある。なお、ミナミで爆弾製造の謀議をしたことはない(佐古48・4・2検面)。

(2) 前原

一〇月一二日から一四日にかけて、L研メンバーが集まった際、雑談の中で、今までの方法では闘争に限界がある、自分達で爆弾を作って、武装闘争に入ろうという話があった。

同月一五日昼ころ、誰かからの連絡で、佐古、菊井とともに住吉町アジトに行くと、増渕、村松、井上、石井も集まり、増渕から今後の爆弾闘争の必要性について説明があり、これまで赤軍派に武器を頼って失敗した、これからは自分達で武器を製造する、材料は調達済みである旨の話がされ、村松が整理ダンスの引き出しからダイナマイト、導火線、雷管を出して見せ、どこからか盗んで来たような話をした。増渕からピース缶爆弾の製造方法について説明があり、爆弾製造の道具のうちハンマー、ドライバー等は河田町にあるものを利用し、その他のものは江口が用意する旨の説明があり、また爆弾材料については、塩素酸カリウムを東薬大社研の者を介して入手し、パチンコ玉は佐古と自分が分担して集め、ピース缶は皆で手分けして集めることになった。そして、ピース缶爆弾の製造は、二日くらい後に河田町アジトで行うことが決定された。その後、導火線が使用可能かどうかを見るため導火線の燃焼実験を行ったが、マッチでは点火できず、ガスココンロで点火した(以上、前原48・3・16検面、48・3・28検面、48・4・6検面等)。

右の話し合いをしたのは、自分の記憶では住吉町アジトであるが、河田町アジトであった可能性もある。ミナミで相談したことはない。若松町アジトでもそのころ大勢集まり相談したことはない(前原48・4・1検面)。

なお、ピース缶爆弾製造の具体的日時、場所、製造時の各人の役割等が最終的に決まったのは、右のとおり住吉町に集合した際であるが、これより前に、増渕あたりからピース缶爆弾製造について話があったような気もする。しかし、その具体的な場所、その際のメンバーについては思い出せない(前原48・4・18検面)。

(3) 村松

一〇月一四日ころの午後三時か四時ころ、増渕に呼び出され、ミナミに行ったところ、増渕、堀、井上、前原がいた(佐古もいたかもしれない。)。増渕から指示され、井上と早稲田アジトに行き、花園から新聞紙に包まれたもの(縦一〇センチメートルくらい、横二〇センチメートルくらい、厚さ四センチメートルくらいのもの)をやばいものであると言われて受け取り、ミナミに戻って増渕に手渡した。その後河田町アジトに向かい、増渕、堀、前原、井上、佐古、自分の計六名で、右の包みを開けると、中にはダイナマイト二〇ないし三〇本位、雷管何個か、長さ一メートル余の導火線が入っており、その際、増渕から「これでピース缶爆弾を製造する。一〇・二一に赤軍派が武装蜂起する武器として使用する。L研は赤軍派から爆弾を製造せよとの指示があった。赤軍派の者が明日取りに来るから急がなければならない」旨説明があり、井上に対しパチンコ玉の購入を、前原に対しガムテープの購入を、村松に対し紙火薬の購入をそれぞれ指示した(佐古に対しても指示があったが何であったか覚えていない。)。自分ら四名は、それぞれ指示されたものを購入するため、同アジトを出、自分は新宿三丁目付近のおもちゃ屋で紙火薬一箱を買い、再び同アジトに戻ると、増渕、佐古、前原がおり、紙火薬を増渕に渡した。そのうち、自分が同月一二日に住吉町の風雅荘(住吉町アジト)に引越した旨話すと、皆で行こうということになり、河田町アジトを出て午後七時ころ住吉町アジトに着いた。部屋には石井がいた。同アジトで、増渕が、導火線の長さを決めるため、実際に導火線を燃やして時間を測ると言い出し、増渕が持って来た導火線を使って燃焼速度を計測した。導火線はマッチで点火しようとしたが点火できず、ガスコンロで点火した(村松48・3・24検面)。

(4) 増渕

一〇月一六日ころの午後四時ころ、ミナミに村松、井上、自分が集まった際、村松から「赤軍派から一〇・二一闘争に使う爆弾を作るよう言って来た」旨の報告を受け、直ちにその場で爆弾を製造しようと決め、村松、井上にダイナマイト等の爆弾材料を早稲田アジトに取りに行かせるとともに、翌一七日ころの正午ころ河田町アジトに集合するよう指示した。その後、自分は内藤、堀、江口に電話し、翌一七日正午ころ河田町アジトに集まるよう指示した(増渕48・3・23検面)。

(5) 内藤、石井、江口

なお、本件の共犯者とされる者らのうち、自白のある内藤、石井及び江口は、いずれも製造謀議への参加を供述していない。

(6) 菊井証言

これに対し、この点に関する菊井証言は次のとおりである。

一〇月一一日から一八日までの間のある日、若松町アジトの黒板に「何時にミナミに来い」との連絡が書かれていたので、その日の午後一時か二時ころ、ミナミに出かけた。ミナミには、自分のほか、増渕、村松、佐古、前原、国井、江口、井上が集まった。そのほか、内藤か平野のどちらかがいたが、どちらかというと内藤の記憶が強い。また、堀及び前林もいたように思うが断定はできない。堀、前林と思われる者のほかにも何人かいた。席上、増渕から、「一〇・二一に赤軍派がいわゆる東京戦争をその武装蜂起の一環としてやるが、L研もそれに共闘することとし、一〇・二一用の武器として爆弾を製造する。爆弾はピースの空き缶にダイナマイトを入れて作るものである。日時はいついつに河田町アジトで製造するので集まるように」との話があり、その場で、村松、前原ともう一名くらいに対し、爆弾材料を早稲田アジトに取りに行き、河田町アジトに持って来るように、佐古と前原に対し、パチンコ玉を入手するように、自分を含め各人に対しピースの空き缶を持ってくるように、それぞれ指示がなされた。増渕の話に対して異議を唱える者は一人もいなかった。

村松、前原は、右の指示を受けて早稲田アジトに向かった。自分は増渕から話を聞いた後、ミナミを出て帰ったが、増渕、佐古、国井、井上、江口と平野か内藤と思われる者は残った。自分が帰るのと同じころに帰ったものもいると思う(九四回菊井証言一三三六三、九部57・9・2菊井証言二六八九二、一五六回菊井証言三二八六九等)。

(二) 謀議の日時

この点については、後述の製造日時についての検討において併せて述べる。

(三) 謀議の場所及び参加者

(1) 供述の不一致

被告人ら及び共犯者とされる者らのこの点に関する供述は前記(一)のとおりで、摘録すると次のようになる。

ア 佐古 若松町アジト(河田町アジトだったかもしれない。参加メンバーは増渕、村松、前原、井上、菊井、国井、石井、佐古)及び住吉町アジト(参加メンバーは増渕、村松、前原、石井、佐古)

イ 前原 住吉町アジトで、増渕、村松、井上、石井、佐古、菊井、前原

ウ 村松 河田町アジトで、増渕、堀、前原、井上、佐古、村松

エ 増渕 ミナミで、増渕、村松、井上

オ 菊井 ミナミで、十数名。増渕、村松、佐古、前原、国井、江口、井上、菊井、内藤か平野のうちどちらか(内藤の可能性が高い。)、堀、前林もいたように思うが断言できない。

カ 内藤、石井及び江口がこの点につき供述していないことは前述のとおりである。

本件犯行についての謀議の場所及び参加者に関し、これに参加したとされる者らの供述が、このように一致せず、区々に分かれていることは、同一の事柄を経験したはずの者らの供述としてはまことに不自然であるといわざるを得ない。

(2) 検察官の主張

検察官は、この点につき、論告において、「村松、前原、井上、江口、佐古、菊井、国井らは、喫茶店ミナミ、河田町アジト等において、増渕から、数回にわたり、ピース缶爆弾の製造を提唱され、これに賛同したものである」と主張した上(論告要旨九三三五二四)、被告人らの前記供述の不一致について、「本件は、平素から親交のあったメンバーが集った機会に爆弾闘争を謀議し、爆弾製造の準備を進め、製造に及んだもので、メンバーの集合という事象自体は、ごく日常的なこととして当時しばしば行われていたことであるから、集合の都度の参加者や集合の日時等については、いかに真実を供述しようと努めても容易に記憶がよみがえらず、あるいは混同を生じるといった事態も生じ易いのである」(論告要旨二五三五五三二)、「被告人らは場所をかえて何回も謀議を行っているのであるから、この点について菊井証言と佐古らの自白に相違が存しても、それぞれの供述の信用性を損うものではない」(論告要旨七三三三五五六)旨主張し、菊井の証言中には、当時のL研の状況として、「増渕君は、何か事をやるときには、自分の側近であった村松君とか割と仲の良かった佐古君とかそういう人達を集めて、事前に、方針を下ろす前に、打合せをしてみたり根回ししたりしてやるくせがあった。だから私がミナミでピース缶爆弾製造の話を聞く前に、中には事前にそういう話を別の場所で聞いた人もいるかもしれないし、今何か実験というようなことを言われたけれども、そういうことを別の場所で何人かのメンバーで事前にやっておったかもしれません」と述べる(九四回菊井証言一三三七二)など、検察官の右主張に符合するような趣のものもある。

しかしながら、検察官の右主張には以下のような疑問があり、にわかには首肯することが出来ない。

ア 複数謀議説

ピース缶爆弾の製造に向けての謀議が、場所を変え、時を変えて何度か行われた可能性は否定できないけれども、佐古が述べる若松町アジトあるいは住吉町アジトにおける謀議、前原が述べる住吉町アジトにおける謀議、村松が述べる河田町アジトにおける謀議、更に菊井が述べるミナミにおける謀議は、いずれも右謀議場所において、増渕からピース缶爆弾を製造する旨の提起があり、その際、製造の日時、場所が決められるとともに、爆弾材料調達についての任務分担の指示を受けたというものであって、同じような内容の謀議が何度も繰り返されるというのは、何としても不自然である。

イ ミナミ最終謀議説

菊井証言によれば、ミナミに集合した者は十数名であり、更にはミナミにおける謀議が、製造メンバーとして予定されていたほとんどの者を前にした最終的な謀議であって、佐古あるいは前原が供述する若松町アジトあるいは住吉町アジトにおける謀議は、菊井が述べるように、増渕と増渕の側近によるいわば予備の打合せの段階にとどまるものであることも考えられないではなく、佐古及び前原には、右予備の段階での打合せが強く印象に残ったため、ミナミにおける謀議についての記憶が著しく希薄化し、若松町あるいは住吉町アジトにおける謀議に融合一体化してしまったということもあり得るかもしれない。しかしながら、最終的な謀議である以上、真にそれが存在したのであれば、ミナミにおける謀議は参加者にはやはりそのようなものとして特に銘記されるはずと思われ、少なくとも完全にこれを忘失することは考えられず、従って、ミナミでの謀議の有無について取調官から追及を受ければ、容易にその存在を思い出して然るべきであるのに、右両名は、その旨の追及を受けてもこれを否定しているのである(佐古48・4・2検面、前原48・4・1検面。なお、この点に関する取調官の右両名に対する追及は、増渕がミナミにおける謀議を述べ((増渕48・3・22員面、48・3・23検面))、また、村松も、ミナミにおいて増渕から爆弾材料の入手方を指示された旨供述している((村松48・3・8員面、48・3・24検面等))ところから、それら供述の信用性を判断するために確認的に行われたものと考えられる。)。佐古及び前原が、右追及に対し、ことさらにミナミ謀議を秘匿したということも考えられないではないが、当時、右両名は既に本件爆弾の製造を認め、かつ、そのための謀議に参加していたことも認めていたのであって、その一過程に過ぎないミナミ謀議をこのように隠し立てする必要性に乏しいと解されることに照らせば、そのことは否定すべきであろう。

また、両名が、「ミナミ」謀議を故意に「若松町アジトあるいは住吉町アジト」での謀議と置き換えて供述している可能性もあるけれども、ミナミ謀議を否定し、若松町アジトあるいは住吉町アジトにおける謀議を固執することによって、将来、公判段階で、例えば、客観的証拠による若松町あるいは住吉町アジト謀議の不可能性の立証等製造事件に関する決定的な反証を提出し得るというのであれば格別、現段階に至ってもそのような主張、立証はなされていないことに照らすと、その可能性は極めて少ないとしなければならない。

ウ 増渕、村松自白と菊井証言

増渕はミナミで謀議した旨供述するが、参加メンバーは増渕、村松、井上の三人であって、菊井の名を挙げず、かつ、謀議内容も村松から赤軍派からの爆弾製造の指示を聞いたというものであって、いずれも菊井証言と大きく異なる。

また、村松は、前記のとおり、河田町アジトにおける謀議に先立ち、増渕からミナミに呼び出され、増渕の指示で井上と二人で早稲田アジトに爆弾材料を取りに行った旨述べ、菊井証言に見合うかの如き供述をしているが、他方、その際ミナミに居合わせたメンバーとして述べるところは菊井証言と相違し、かつ、ミナミにおいては爆弾製造の謀議をしていない旨供述するのである。

増渕及び村松とも、右の各供述の内容に照らし、記憶の混同があるとは考えられず、いずれも菊井証言と同一の事柄を述べているものとは解し難い。いずれにせよ、アメリカ文化センター事件及び八・九機事件の項で検討してきたように、その供述態度に照らし、佐古及び前原に比べ、自白の信用性が低いと認められ、また検察官もそのように評価する増渕及び村松だけがミナミの名を挙げるのはいささか奇妙である。

(3) 菊井証言の問題点

更に、菊井証言については、以上の諸点のほか、次のような問題がある。

ア 喫茶店での謀議

菊井証言は、ミナミにおいて、十数名の者が集合して、製造の謀議をしたというものであるが、謀議の内容が爆弾製造という厳に隠密のうちに行われなければならない性質のものであることを考えると、謀議場所としてのミナミは、平素顧客の少ない喫茶店であることを考慮しても、周囲に声が聞こえる虞があり、いかにも不向きであるといわざるを得ず、その点でやや不自然の感を免れない。

菊井は、この点につき、「ミナミを選んだのは増渕であり、その理由は増渕に聞かないと分らないが、自分としては、ミナミというのは、L研がよく使っておって、誰でも知っているということで集まりやすい、爆弾製造の話をすると言っても、若い学生みたいな自分らが集まって一緒にお茶を飲みながら楽しくだべっている風をよそおえば、別に客に怪しまれない、客たちも話している方に聞き耳を立てているわけじゃないし、特に危険はないと思う」(九部57・9・2菊井証言二六八九九)、「事実、私達の朝霞自衛隊襲撃事件も、在日米軍三四空軍グラントハイツ襲撃事件も、警視庁北沢署七軒町派出所襲撃事件も、謀議はすべて喫茶店を利用して行った、別に喫茶店で話がしにくいとか全くできないということはない」旨(九四回菊井証言一三三七〇)述べているが(もっとも、後者の証言内容については、弁護人から追及され、「(朝霞事件等について)非常に重要な聞かれるとやばい話は密室、人のいないところでやった。しかし、それ以外の通常のことは喫茶店でも話している」((九六回菊井証言一三六〇〇))、「すべて(喫茶店を利用した)というのはちょっと間違いね、ホテルの部屋も使ってますからね、公園も使ってますから」((九六回菊井証言一三六〇四))と証言を後退させている。)、ごく小人数であれば格別、十数名という多人数で、かつ、そのメンバーの中には爆弾製造について初めて聞く者も含まれており(現に菊井はその旨証言する。)、場合によってはこれらの者が思いがけない反応を示す虞もないではないことを考えると、菊井証言の右部分が十分に説得的であるとは言い難い。

イ ミナミ店内の状況

(員)石垣顯48・1・25検証三三二四八及び56・6・9南君枝証言二二三六五を総合すると、昭和四四年一〇月当時のミナミの店内の状況は次のとおりであったと認められる。すなわち、入口を入って左側(東側)にレジが、店内奥にカウンターがあり、ほぼ中央に店内を東西に仕切る形で衝立が立てられていたが、テーブル及び椅子の配置状況は、東側から順次、東側壁沿いに四人掛け用のボックス(テーブルと椅子。以下同じ)が四個、通路をはさんで右衝立の東側に二人掛け用のボックスが四個、右衝立の西側に四人掛け用のボックスが三個、更に通路をはさんで西側壁沿いにソファ及びテーブルがそれぞれ配置されていたことが認められる。

ところで、菊井は、ミナミで謀議した際の座席の状況を、第一〇〇回公判においては第一図(一四二九二)のように、第一五六回公判においては第二図(三三〇〇〇、三二八七九)のようにそれぞれ図示し、「四人掛け用のテーブルと二人掛け用のテーブルを並べ」(一五六回菊井証言三二九〇四)、「その周辺に坐った」(一〇〇回菊井証言一四一七二)旨証言するところ、菊井証言によれば、その場にいた人数は少なくとも一一名以上であったのであるから、五脚以上の椅子を別のテーブルから移動させなければならないが、店内の広さに照らし、そもそも菊井が図示するような形で一一名以上の座席が作り得るかどうかも疑問である。いずれにせよ、右のような座席を狭い店内で作り、一一名以上の者が集まることとなればいやが上にも相当程度同店の従業員、顧客等の注意を惹くことになり、「何気ない風を装って飲物を飲んだりしながら若い連中が集まって雑談しているというふうにしゃべった」(九四回菊井証言一三三六八)という状況とはやや異なったものになりかねず、その意味で謀議の場としては一層適さないように思われる。

第一図

第ニ図

また、菊井は、前記のとおり、謀議の際の座席の状況を、当初第一図のように図示していたところ、第一五六回公判において、当裁判所の補充尋問で、衝立の有無を問われた後第二図を図示したものであるが、右両図を比べると、一見して第一図の方が、座席の状況が東側壁寄りに描かれている。菊井はこの点を指摘され、「第一図、第二図とも趣旨としては同じことを書いた」「(第二図も)仕切りと書いた部分より着席位置は左に書いているわけである。趣旨としては、自分としては入口を入って左寄りの席ということである」旨述べるが(一五六回菊井証言三二八七八)、他方、第一〇〇回公判においては「(東側の)壁と机の間にも人がおったんでしょう」との弁護人の質問に対し、「それははっきりしない」と答え、更に「おったかもわからない」との質問に「はい」と答えるなど(一四一七二)、第一図に図示したテーブルが壁際であることを当然の前提とした応答をしているのであって、座席の状況に関し、その証言が動揺していることは認めざるを得ず、このことも右菊井証言の信用性に疑問を投げかけるものである。

ウ 記憶保持の可能性

菊井は、ミナミ謀議に参加したメンバーについて前記(1)オのとおり供述するが、体験後、既に一〇年を経過したはずの時点での証言であり、謀議の際の各人の具体的言動あるいは坐った位置等と結びつけられていない限り、一般的に参加メンバーに関する記憶の保持は難しいのではないかと考えられること(菊井証言において、具体的言動等と結びつけられて供述されている者は、増渕、村松、前原及び江口の四名に過ぎない。但し、江口の参加を述べる点については、後記エのような疑問がある。)、現に、時期的に右謀議の直前ころの出来事である一〇月九日の巣鴨駅前派出所、池袋警察署襲撃未遂事件(同事件は、菊井証言によれば、菊井と村松が火炎瓶投てき役として指名されたというものであって、菊井にとって、爆弾製造にも比肩すべき重大なものであったというべきである。)に参加したL研メンバーについては、「増渕利行君、私、村松和行君、そのほかにL研のメンバーが何人かいたような記憶がありますが、それが具体的に誰だったかは記憶が薄れて確答できません」「果たしてそれが前原君か佐古君だったのか断言はできませんが、とにかく、L研のメンバーがいたことは間違いありません」とやや曖昧な供述をしていることに照らすと、右(1)オの供述は、少しく詳細に過ぎ、不自然である。もっとも、謀議時に比べれば、爆弾製造時に参加していたか否かは、事柄の性質上(例えば共犯者意識を強く感じるであろう。)、飛躍的に印象深いことであり、記憶に残りやすいと考えられ、製造時に参加していたことから遡って、謀議にも参加していたのではないかと推測した上でその点の証言をすることはあり得るし、その場合には、右に述べたような記憶の保持の困難さはさまで問題とならないと解されるが、菊井は証言にあたってそのような形の供述をするのでなく、かえって、謀議時と製造時の参加メンバーを画然と区別して供述している(例えば九四回一三三七四)のであり、その他菊井証言に対する右のような疑問を解消すべき根拠も特に見あたらない。

エ 江口参加に関する供述の変遷

ミナミ謀議への江口の参加の有無に関する菊井証言には不自然な変遷がみられる。

すなわち、菊井は、第九四回公判においては、江口が参加していたかどうかはわからない旨述べながら(一三三六四)、その後江口が参加していた旨供述するに至っているところ(一〇〇回一四一六八、一四二九二、九部57・9・2二六九〇八、二七〇二五等)、その経緯につき、「(第九四回公判が)終わった後、自分としても、色々考えてみて、記憶喚起してみて、それで江口さんがいたと記憶が呼び戻って来たんで、次の法廷で聞かれたときに言ったと、そういうことだと思う」「自分としても誰と誰がいたかということは大切なことなので、一生懸命考えてみて、それで呼び戻って来たということだと思う」と述べるのである(九部57・9・2二六九一〇)。しかしながら、事件後一〇年余を経過した時点において、何らの手掛かりもなく(菊井はそのような手掛かりの存在については述べない。)、いったん忘失していた江口の存在のみならず、謀議の際江口が坐っていた位置についてまで正確な記憶を喚起するというようなことは通常あり得ないことと思われるし、更に菊井は昭和五四年六月一四日ころから同年七月一〇日にかけて、連日のように、検察官からピース缶爆弾事件について事情聴取を受けていたのであって(当然のことながら、ミナミ謀議の際の江口の参加の有無についても事情を聴取されているはずである。)、仮に、記憶が喚起され得るものならば、むしろ、その段階でされるのが自然ではないかと考えられるのである。そして、これらの諸点を考えると、菊井の右証言の信用性には少なからぬ疑問が残るとしなければならない。

なお、弁護人は、菊井の内藤、平野及び堀の各参加の有無に関する証言にも不自然な変遷がみられると主張するが(最終弁論四八九三四〇三七)、内藤、平野の参加の有無に関しては、取り上げるべきほどの不自然さは認められず、また、堀の参加の有無については、第九四回公判で「堀がいた」と供述しながら(九四回一三三六四)その後「堀がいたかは断言できない」と述べるに至っているが(一〇〇回一四一七一、一〇一回一四三五九、九部57・9・2二六九一一)、菊井が、第九四回公判において、製造時のメンバーとして、堀については断言できないと供述(九四回一三三七三等)しているところからすると、同公判において堀が謀議に参加した旨の供述は、菊井が弁明するように(一〇一回一四三五九、九部57・9・2二六九一一)、言い間違いである(菊井の弁解は「記憶違い」というものであるが、「言い間違い」の趣旨と認めて差支えなかろう。)可能性が強く、不自然な変遷であるとは認め難い。

オ ミナミ出発時の状況

ミナミから村松らが爆弾材料入手に出発した時点、菊井が同店を出る際の状況についての証言が不自然な動揺を示す。すなわち、菊井は、第九四回公判においては、増渕の話があった後、村松や前原が早稲田アジトに爆弾材料を取りに行き、それから皆三々五々ミナミを出て行った記憶がある旨述べていたが(一三三七三)、九部57・9・2期日外尋問においては、「増渕の話の途中で、村松らが爆弾材料を取りに行った。自分は増渕の話の後、他の者より早くミナミを出た。一緒のころ出た者もいる。ミナミに残ったのは、増渕、佐古、国井、井上、江口と平野か内藤と思われる者らと思う」旨供述し(二六八九七)、第一五六回公判では、「増渕の指示が全部終わる前に村松らは出た。その後、増渕の話が終わったので、まだ何人か残っていたが、自分はミナミを出た。(三々五々解散したという風にも述べているが、と尋問され)そこは必ずしも今ははっきりしない」旨述べるに至っているのである。

特に、九部57・9・2期日外尋問における証言を前提にすると、村松及び前原と早稲田アジトに爆弾材料を取りに行ったとされる一ないし二名の者及び菊井と同じころ帰ったとされる者は、結局、堀と思われるが断定できない男及び前林と思われるが断定できない女並びに菊井がミナミ謀議に参加したとする十数名のうち特定を全くしていない人物ということになるが、爆弾材料の入手とか菊井と同じころミナミを出るとか、同店に残った者に比べ、目立った行動をしている点に着目すると、これらの者の方が印象に残りやすいと思われるのに、かえって特定が不十分に終わっている点は不自然というべきである。

カ まとめ

以上アないしオの諸点のほか、前記(2)のウ(増渕、村松供述と菊井証言)をも併せ考えると本件謀議の場所及び参加者に関する菊井証言の信用性は低いとするほかはない。

(4) 佐古、前原自白の変遷

謀議場所に関する佐古の供述は次のとおり変遷する。

48・2・13員面 早大正門前集結(機動隊襲撃計画の失敗、以下同じ)の当日か翌日の午前中、右について総括した際、謀議をしたと述べるが、謀議場所については具体的に述べない。

2・15Ⅰ員面 早大正門前集結に対する総括で爆弾製造について意見統一後、更に住吉町アジトで謀議

3・9Ⅰ員面 早大正門前集結後若松町アジトで総括し、その際増渕から爆弾製造の提起、翌日(製造の前日)午前中若松町アジトで爆弾製造の日時、場所、爆弾材料の入手方法について謀議し、午後住吉町アジトで謀議

3・26Ⅰ検面 同右

3・30Ⅰ検面 早大正門前集結の翌日(製造の前日)、若松町アジトで増渕から一〇・二一の赤軍派の新宿署襲撃用の武器としての爆弾製造の提起があり、全員賛成した(早大正門前集結当夜の総括が消える。)。

4・2検面 製造の前日に謀議を若松町アジトでしている記憶であるが、河田町アジトで謀議をしたのかもしれない。

4・17検面 若松町アジトでした謀議内容はその後住吉町アジトでの謀議と混同しているかもしれない、若松町アジトでもピース缶爆弾を作ろうという話が出た記憶はあるが、どこまで具体的に出たかはっきりしないと述べた後、よく考えてみると、爆弾製造の日時、場所や製造時の具体的な任務分担を決めたのは住吉町アジトであったと思う旨供述

以上のとおり、佐古のこの点に関する供述は、当初若松町アジトにおいて、謀議の主たる部分がなされたというものであったが、最終的には、若松町アジトではどこまで具体的に話されたかはっきりしない、住吉町アジトで具体的な話がされたと供述するに至るところ、佐古の最終供述である48・4・17検面は、住吉町アジトで爆弾材料入手の任務をその場に居合わせない者にまで分担させていることになる(ダイナマイト等の入手につき菊井、ピース缶の入手につき国井、井上)という不合理な内容を含み、また従前佐古がピース缶を東薬大で入手し、河田町アジトに戻ってから住吉町アジトに行ったことははっきりと記憶していると述べているのに(48・4・2検面)、この点を実質的に変更するについて何らの理由も述べられておらず、右の供述経過を正しい記憶が次第に喚起されていった過程とみることはできない。特に佐古48・4・17検面は、その供述内容に鑑み、ピース缶爆弾製造事件の起訴を目前に控え、前原自白(前原は、当時、謀議は住吉町アジトだけであった旨述べていたものである。)との食い違いの程度を弱めるため、取調官が佐古を追及し、佐古がこれに迎合して供述した結果である疑いが非常に濃厚である。

また、同様に、前原は、48・3・9員面以降一貫して、住吉町アジトで謀議をした旨供述していたところ、48・4・18検面に至り、突然、「住吉町アジトにおける謀議の前にも、別の機会に、増渕あたりからピース缶爆弾を作るについて話があったような気もする。しかし、具体的にどこでどのようなメンバーが集まったかは思い出せない」旨述べるが、これも記憶を喚起したとするには余りにも抽象的に過ぎ、むしろ佐古48・4・17検面を受け、取調官において、佐古自白に近づけるべく追及した結果、前原が迎合したものとの蓋然性が極めて高い(ちなみに、佐古48・4・17検面及び前原48・4・18検面は同一の検察官によって録取されたものである。)。

(四) 製造の契機(「早大正門前集結」と佐古自白)

(1) 佐古自白

佐古は、当初、ピース缶爆弾を製造するに至った直接の契機として、「一〇月一四日か一五日ころの夜八時ころ、赤軍派とともに、L研メンバー六名位と東薬大社研の平野が早大正門前に集結し、機動隊を攻撃しようとしたが、赤軍派が用意する予定の火炎瓶が届かず、失敗に帰した」ことを挙げ、「その夜、若松町アジトに集まり、増渕を交えて総括した結果、赤軍派に武器を頼っていては闘い抜けない、爆弾材料は入手済みであるので爆弾を作ろうとの提起がなされ、翌日の若松町アジト及び住吉町アジト謀議を経て製造に至った」と供述していた(48・3・9Ⅰ員面、48・3・26Ⅰ検面。なお48・2・13員面、48・2・15Ⅰ員面参照)。

佐古のこの点に関する供述は、前述(三)(4)のようにその後やや不自然な変遷を重ね、早大正門前での集結と爆弾製造との結びつきが次第に薄められるに至る。

もっとも、このような傾向は検面調書についてのみ見られるのであって、48・4・12員面では、「東京戦争に入るに(際し)当初早稲田大学正門前に集結し、赤軍の武器を待ち、機動隊攻撃をやろうとしたが、武器が来ないことから、私達L研が爆弾製造に踏み切った」旨供述し、早大正門前集結が爆弾製造に至る大きな契機であることをなお認めている。

また、特に、48・4・17検面においては、早大正門前集結の件と謀議との関係が録取されておらず、その辺りを曖昧にする余地を残した調書になっているが、これは、佐古を除いては早大正門前集結を供述する者がなく、かつ、現実にピース缶爆弾が一〇・二一闘争時赤軍派によって使用されているところ、早大正門前集結の失敗により、L研が赤軍派に頼らずに爆弾を製造しようということになったとの佐古自白は、ニュアンス的にL研自体が爆弾を使用するとの色彩が強いことから、その点を整合させるべく佐古を追及したものの、佐古が右供述を撤回しないため、ことさらに早大正門前集結の件を除外して調書を録取した可能性がないではなく、そのために、佐古の最終的自白においては、爆弾製造に至る筋書きがかえってわかりにくいものとなっている。

しかし、いずれにせよ、右集結の翌日にピース缶爆弾製造につき具体的な謀議をしたとの点は何ら否定されておらず、その点の変動はないように思われ、佐古の自白によれば、右早大正門前集結が大きな節目となって製造謀議に至ったもの、すなわち、右集結と製造謀議とは極めて密接な関係にあるものと解してよい。

(2) 同旨供述の不存在

しかるに、前原、村松及び増渕の各自白には佐古が述べる右早大正門前集結の事実が述べられておらず、菊井もまたそのような事実は記憶がない旨証言するのである。佐古が供述するように製造に至る一つの節目として右早大正門前集結があり、これに連なる形で謀議があったのであれば、それは印象深いこととして記憶されやすいと思われ、仮にこれを忘失していたとしても、その点について追及を受ければ容易に記憶が喚起されるはずである。更に、菊井については、本件裁判における立場上、これを隠し立てする必要は全くない。また、前原、村松及び増渕については、その点を秘匿している可能性は考えられるものの、そのように断定すべき根拠はなく、かつ、同人らが基本的に爆弾の製造を認めている以上、その点だけの秘匿がどれほどの意味を持つか疑問である。

従って、これらの者の自白に、早大正門前集結の点に触れるところがない事実は軽視できない。なお、検察官は本件につき、右集結の点を主張していない。

(3) 評価

佐古は、ピース缶爆弾の製造を自白するに至るかなり以前から、右早大正門前集結の事実自体をメモに記載しているほか(佐古47・11・20~47・12・14メモ通し丁数三三、佐古47・12・8メモ通し丁数四三)、公判廷においても一貫して右事実を供述しており(四七回佐古供述⑰四九三〇は、右集結の事実自体を否定するものではなく、これが一〇月一五日の出来事であることを否定するものである。)、その供述態度等に照らし、記憶に反してことさらに虚偽を述べているものとは認め難いのであるが、右事実に触れず、あるいはこれを否定する前記各供述との対比上、この点に関する佐古供述を全面的に措信することはできない。可能性として考えられるのは、他の類似事実(例えば、九月三〇日の早大への集結、あるいは一〇月九日の巣鴨駅前派出所及び池袋警察署の襲撃未遂。前記第四章二3参照)との混同に基づく供述ということであるが、もしそうだとすると、そのことは、ひいて本件の謀議、更には製造の事実自体に関する佐古の自白の信用性にも疑いをさしはさませるものというべきであろう。

(五) 謀議の内容(製造目的と使用主体)

(1) L研用か赤軍派用か

ピース缶爆弾製造の目的について、佐古及び前原は、赤軍派の武器に依存して失敗したことから、L研自体で爆弾を作ろうということになったもので、いわばL研独自の爆弾製造であるという(その意味あいとしては、当然ながらL研が使用するという色彩が強く、供述調書中にはそれを明言するものもあるが、他方、佐古の供述には次に(2)で述べるように動揺が見られるほか、前原供述も、前原48・4・4員面では、赤軍派との一〇・二一闘争におけるL研の共闘方針は一〇月一八日ころ((すなわち、前原の自白によれば、時間的にはピース缶爆弾の製造後となる。))に決定されたとしながら、前原48・3・29員面及び同48・4・6検面では製造当日赤軍派の者が完成したピース缶爆弾の一部を河田町アジトから搬出したというなど、一貫しない点があることは注意を要する。)。

これに対し、増渕及び村松は、本件は、赤軍派の指示による爆弾製造であって、赤軍派の一〇・二一武装蜂起の武器として使用するものと述べ、菊井も、「赤軍派との共闘としての爆弾製造であり」(九部57・9・2菊井証言二六九一五)、「自分達が使うということまで考えていない、むしろ赤軍派が使用するという感じである」(一〇一回菊井証言一四四二八)と、増渕、村松に近い証言をし、佐古及び前原ら前記供述と大きく相違する。

爆弾製造の目的等については、事柄の重要性に鑑み、記憶の混乱する可能性が大きいとは考えられず、右のようにこの点に関する供述が大きく食い違うのは、各供述が真実の自白であるとすれば理解し難い。

(2) 佐古自白の変遷

佐古のこの点についての供述は次のように変遷する。

48・2・13員面 早大正門前集結の失敗に基づくL研独自の爆弾製造

2・15Ⅰ員面 同右。但し、爆弾が出来上がったら一応赤軍派に渡しておく旨謀議。

3・9Ⅰ員面 早大正門前集結の失敗に基づくL研独自の爆弾製造。完成した爆弾は一応赤軍派に渡しておく旨謀議。更に、謀議の過程においては、今後は製造する者と使用する者を分けていく必要がある、東薬大の連中に製造させ、我々が使用しようとの話も出る。

3・9Ⅱ員面 完成した爆弾は赤軍派に渡すという話が謀議の段階で出ていた。

3・26Ⅰ検面 早大正門前集結の失敗に基づくL研独自の爆弾製造。製造後、増渕が新宿署を襲撃する兵士に渡すといって、爆弾を河田町アジトから搬出した。

3・30Ⅰ検面 一〇・二一の赤軍派の新宿署襲撃に使用する武器としての爆弾製造。

4・12員面 早大正門前集結の失敗に基づくL研独自の爆弾製造。

4・17検面 爆弾製造の謀議以前に、他セクトの武器に頼らず、L研で武器を作ろうとの話が出ていた。爆弾製造作業がほぼ終わったころ、増渕と思うが、爆弾は一〇・二一東京大戦争に向けて使うものであり、ある程度は赤軍派に手渡して赤軍派が使う旨発言した。赤軍派にある程度渡すという話を事前に聞いていたかどうかは忘れた(謀議時点における爆弾製造の目的は、供述自体からは判然としないものになっている。)。

以上のとおり、佐古の爆弾製造の目的に関する供述は、48・3・26Ⅰ検面までは比較的一貫していたとみられるものの、48・3・30Ⅰ検面では赤軍派のための爆弾製造である旨一転し、その後48・4・12員面において再び48・3・26Ⅰ検面以前の供述に復した上、48・4・17検面で極めて曖昧なものに三転しているのであって、かかる供述の変遷、ことに検面調書の変遷については、前記(四)(1)で触れたとおり、取調官である検察官が早大正門前集結の失敗と爆弾製造との関連を弱めるべく追及した結果である可能性が強い。いずれにせよ、右のような供述の変遷は、極めて不自然であって、到底真実の記憶を次第に喚起していった過程とみることはできない。

(六) 導火線燃焼実験

(1) 関連自白の概要

佐古及び前原は、住吉町アジトにおける謀議の際、導火線の燃焼実験を行った旨供述し、村松は、河田町アジトにおける謀議後、住吉町アジトにおいて導火線の燃焼実験を行った旨述べるのに対し、増渕はこの点について供述せず、菊井は、製造のための実験などには関与していないので知らない旨証言する(佐古48・3・26Ⅰ検面、2・15Ⅰ員面、3・9Ⅰ員面、前原48・3・9員面、3・11員面、3・16検面、3・28検面等。村松48・3・18員面、3・24検面等。九四回菊井証言一三三七一等)。

増渕は故意に秘匿している可能性を否定できず、また右の燃焼実験が菊井不在のまま行われた可能性があるので(現に、佐古及び村松は菊井が同席したとは述べない。)、増渕及び菊井がこの点を述べないからといって、増渕自白自体の信用性についてはともかく、これを佐古、前原及び村松の右自白の信用性についての疑問点とすることはできない。

(2) 風雅荘のガスコンロ

ところで、佐古、前原及び村松の導火線燃焼実験に関する自白によれば、実験の際、導火線に点火するには、住吉町アジト(風雅荘二階A号室)のガスコンロの火を使用したというのであるが、弁護人らは、村松が、東京都小金井市所在のさくら荘から新宿区住吉町所在の風雅荘二階A号室に引越したのは一〇月一二日で、引越し直後の同月一四日ころ、風雅荘にガスコンロはなかった(仮に村松らが引越し後にガスコンロを購入したとしても、少なくとも一四日ころ既にガスコンロが購入されていたことを証する証拠はない。)のであるから、右実験に関する各自白はいずれも虚偽である旨主張する(最終弁論九四一三四〇三六)ので、この点について検討する。

ア 引越しの日

さくら荘の貸室領収証一冊(符五六)及び貸室等賃借契約書一通(符五七)によれば、さくら荘の家賃支払方法に関する約定は、毎月末日までに翌月分を支払うというものであるところ、村松、石井が同荘の家賃を支払ったのは九月分までであり、一〇月分の家賃については日割支払いもなされていないこと、同荘の家主である土屋テツ子は、右貸室領収証の呈示を受けた上、「村松らの転居は、九月末か、一〇月に入ってもせいぜい二、三日のうちである」旨証言していること(九部一七四回土屋証言一五九一九)、普通預金払戻請求書一通(符四八)及び住所変更届一通(符五〇)によれば、石井は九月二九日に平和相互銀行東小金井支店の同女名義の普通預金口座から現金四万円を払戻しており、一〇月九日には同銀行新宿支店に、さくら荘から風雅荘への住居変更を届け出ていること、右引越しにあたっては、石井の実父石井靖男が勤務先の布佐農協(千葉県習志野市所在)のトラックを運転して荷物の運搬をしたと認められるところ(一七回石井証言⑦一七三〇等)、石井靖男記載にかかるノート一冊(符五一)によれば、同人が九月末から一〇月中旬までの間に右農協の仕事をしなかった日は、九月二八日(日曜日)、一〇月一日(水曜日)から同月五日(日曜日)まで、同月一〇日(金曜日、体育の日)及び同月一二日(日曜日)であること、村松らの引越しの当日は小金井市内は小雨模様であったと認められるところ(九部一七四回土屋証言二五九一九、一五九二二、一七回石井証言⑦一七四〇、九部一八〇回石井証言一一五七七等)、東京管区気象台観測所のうち同市に最も近接した府中観測所の観測結果によれば、九月二六日から一〇月一二日までの間に降雨量が記録されているのは九月三〇日、一〇月一日、同月八日及び同月九日の四日であって、同月一二日には降雨がなかったこと(東京管区気象台長54・10・20回答一四六六三~一四六七〇)、佐古は、立大ホテル研究会から金庫を窃取した直後、その日に右金庫を住吉町アジトに運びこんだ旨供述しているところ(一二四回佐古供述⑥一四〇九)、右窃盗に対応する被害届(大津留博由44・10・6被害二四八一八)記載の被害年月日が一〇月四日から同月六日までの間となっており、これと佐古が犯行日は日曜日であったとする供述によって、右金庫窃盗は同月五日であると認められること、石井の右引越日時に関する証言は混乱を極めているが、その証言中には、引越しの理由について、村松が法大内でリンチを受け、さくら荘にそのまま居住してテロられることを恐れたからと述べるものがあるところ(一七回石井証言⑦一七二五)、村松が法大内で増渕、国井とともにプロレタリア軍団等により負傷させられたのは同年九月二五日ころと認められること(ポケット新日記((符一一二))、一五七回国井啓子証言三三〇二三、三三〇三四、八五回、一五四回村松供述一一二八一、一一二八四、三二四七二、一五五回前原供述三二七三二等)、更に、村松は、一〇月一二日に引越した旨弁護人の主張に沿う供述をなし、その根拠として、引越すこととしたのは、巣鴨駅前派出所、池袋警察署襲撃未遂事件に関連して今井誠が逮捕されたことからさくら荘への警察による捜索を恐れたからであると述べるところ(八五回村松供述一一二七八等)、石井はそのような理由で引越したものではない旨明確に証言し(一七回石井証言⑦一七二六)、また、今井逮捕は同月九日午後五時ころであったこと((員)高橋正一58・4・20報三三三〇二)に照らすと、これに起因する引越しが同月一二日に完了するというのは余りにも順調に過ぎて不自然である(石井は風雅荘を見つけてから引越すまでしばらく間があったとも述べる。一七回石井証言⑦一七二八)ことを総合して勘案すれば、村松、石井がさくら荘から風雅荘へ転居したのは、同年一〇月一日であったと認めるのが相当である。

イ ガスコンロの存否

風雅荘の各室には都市ガスの配管がなされており、室内で炊事ができるような流し台等の設備があったことが認められる(51・9・2北川隆志証言⑰四七三一、51・9・2検証⑰四七三五)。石井は、風雅荘ではガス釜のほかにガスコンロがあった旨認めながら(九部一八〇回石井証言一五五七八、一五六五八、一五六六〇、一五六六八等)、他方、風雅荘で自炊し始めたのはガスコンロを購入して以後のことで、その購入日時は一〇月二一日前後あるいはそれ以後のことである旨弁護人の主張に沿う証言をするが(一八回石井証言⑧一八六四)、後者の点については、石井48・3・18員面(三二八条書面)における「ガスコンロ、ガス釜は引越時買ったり、村松の実家から持って来た」旨の供述と矛盾する。

また、村松の母村松節子は、一〇月一六日に都市ガス用のガス炊飯器(ガスター)を府中市新町の自宅付近で購入し、同月一九日これを風雅荘に持ち込んでいるが、この点に関する証人尋問の際、この炊飯器を持参した時、風雅荘には、そのほかに何かガス器具があったかとの弁護人の問に対し、「はっきりした記憶はないが、生活をしていたのだから、お茶をわかしたりする器具はあったと思う、ないということはないと思う」などと答えている(六〇回村松節子証言六七四四)。少なくとも、同女が、村松らは白湯も沸かせない生活をしていたという印象は持っていなかったと見てよいであろう。同女のいう「お茶をわかしたりする器具」が、当時よく用いられていた電気式のポットでなく、ガスコンロであるかどうかは、証言自体からは明確でないが、弁護人の質問は、二度にわたり「ガス器具」の有無を問うものであったから、同女もガスコンロを念頭に置いていたものとして差支えないと考えられる(もっとも村松は、公判廷において、当時電気ポットがあった旨述べる。七九回村松供述一〇五三三、九部一七三回村松証言三二三五五。しかし、石井は電気ポットについて触れるところがない。)。

そして、一般論としても、検察官の主張するように、当時同棲生活をしていた村松と石井が、入居後約半月もの間、生活必需品といってよいガスコンロなしに、まさに白湯も沸かせないような生活をしていたとは考え難い(論告要旨九四三三五六六)。

もちろん、村松節子が、前記のように、都市ガス用炊飯器を風雅荘に持ち込んだことは、村松らが既に都市ガス用ガスコンロを使用していたことと何ら矛盾するものではない。

以上の諸点に鑑みるときは、村松らは、右風雅荘への引越しと同時に、若しくはその直後に、都市ガス用のガスコンロを入手して使用していた公算が大きく、少なくとも、右ガスコンロの不存在をもって導火線実験の不存在の根拠とすることは著しく困難であるというべきである。

ウ まとめ

右の次第で、弁護人の主張するような点に基づいて導火線燃焼実験を虚偽とすることはできない。

(3) 問題点

しかしながら、右燃焼実験に関する佐古、前原及び村松の各自白については、以下のような問題点がある。

ア 相互矛盾

導火線燃焼実験をした時間帯について、佐古及び前原が昼間と供述するのに対し、村松は夜であったと述べる。村松は、河田町アジトへ爆弾材料を搬入後、住吉町アジトに赴き右実験をしたとしており、その点では佐古の中間自白とほぼ符合するが、佐古の最終自白及び前原自白と一致せず、かつ、村松は住吉町アジトで謀議をしていないとする点で、佐古及び前原と大きく相違する。

参加メンバーについて、佐古及び村松は一致するが、前原は、菊井を加える。

実験の方法につき、点火役を、佐古は佐古自身、村松及び前原はいずれも村松、前原と述べる。

また、使用した導火線の長さについて、佐古及び前原は一〇センチメートル位と述べるのに対し、村松は一〇センチメートル位、七センチメートル位、五センチメートル位の三種類と供述する。

これらの供述の相違は、各人の記憶の混乱によるものとも考えられないではないが、それにしても同一の事象についての真摯で正確な自白というには余りにも食い違う点が多く、不自然さを免れないように思われる。

イ 実験の繰返し

前原は、住吉町アジトにおける導火線燃焼実験後、更に八・九機事件謀議時河田町アジトにおいて再び同様の実験を行ったと供述するが、この点に関する疑問は、八・九機事件の項(第七章二2(四)(4)イ(ア))で述べたとおりである。

ウ 火吹き

導火線の燃焼状況として、八・九機事件の項で述べた火吹き現象(第七章二2(四)(4)イ(イ))に関し、佐古、前原、村松とも供述しないのは、燃焼目撃者の供述としてまことに不自然である。

(七) 「謀議」自白検討の結論

以上検討して来たように、本件謀議に関する各自白は、いくつもの重要な点につき、相互に著しい不一致を示しており、検察官がその信用性を高く評価し、各自白の中でも基本的地位にあるといってよい佐古及び前原の各自白並びに菊井証言の間でさえその不一致は顕著であるばかりでなく、右佐古、前原、菊井の各供述は、その内容に看過し難い不合理な部分を含み、また供述経過にも不自然と思われる大きな変遷が認められるのであって、同一の犯行の謀議に関するものであるはずの各供述がこの程度にまで区々に分かれ、あるいは不合理な点、不自然さを含むことは、各自白の信用性を著しく減殺し、ひいて供述の対象である謀議の存在自体について強い疑いを抱かせるものである。

2  製造日時(謀議日時を含む)

(一) 自白の概要

製造日時及び謀議日時に関する被告人ら及び共犯者とされる者らの自白は以下のとおりである。

佐古 一五日か一六日ころ謀議し、翌一六日か一七日ころの午後一時ころから午後五時ころにかけて製造

前原 一五日ころ謀議し、一、二日後の一六日か一七日ころの昼ころから午後五時ころにかけて製造

村松 一四日ころ謀議し、翌一五日の午後一時ころから午後四時にかけて製造

増渕 一六日に謀議し、翌一七日正午過ぎころから午後五時ころにかけて製造

内藤 謀議には不参加。一五日か一六日午後二時ころから製造、終わったときは薄暗くなっていた。

石井 謀議には不参加。製造は一七日か一八日と思うが根拠はない。一六日だったかもしれない。昼過ぎから午後五時半から六時ころにかけてであった。

江口 謀議については述べない。二一日の直前ころの夜製造

これに対し、菊井証言は、「謀議、製造とも一一日から一九日までの間である(製造時間は、午後一時又は二時ころから夕方午後四時又は五時ころまでである。)」というのであり(九四回菊井証言一三三六三、一三三七二、九五回同一三四三〇、一〇〇回同一四一七五、九部57・9・2同二六九五五)、謀議日と製造日との関係については、後記(二)(2)のとおり動揺を示すが、最終的には、「謀議の当日に製造したということはないが、製造が謀議の日の翌日なのか翌々日なのか断言はできない。とにかく謀議をしたその直後ころということしか言えない。製造日が一一日に近いのか、二〇日に近いのかも言えない」というのである(一五六回菊井証言三二八八六、九部57・9・2同二七〇三〇等)。

(二) 菊井証言の問題点

(1) 曖昧さ

爆弾製造日に関する菊井証言を今少し詳しく引用すると次のとおりである。すなわち、

「自分達が河田町アジトにおいてピース缶爆弾を製造したのは一〇月中旬である。自分は、同月九日には、巣鴨駅前派出所及び池袋警察署襲撃未遂事件に、翌一〇日は明治公園における羽田闘争記念集会に各参加し、同月二〇日には、佐古、村松及び花園と一〇・二一闘争用のトラック窃盗に赴いているが、同月一〇日以前には爆弾製造という話は出ておらず、また、製造は、ミナミ謀議の翌日以降であるから、製造日は同月一二日から同月一九日までの間の一日である。同月一一日と同月二〇日のどちらに近い方かはわからない」

というものであって、被告人らあるいは他の共犯者とされる者らの供述に比べ、日時の特定が抽象的で曖昧である(なお、菊井は、第一五六回公判において、一〇月二三日ころ菊井が赴いたとする平野の下宿につき、その所在をいつころ知ったかとの当裁判所の補充尋問に関連して、「爆弾製造したころは、もう分かっていたはずです」と証言するところ(三二九三四)、平野が同月二二日ころ居住していた糖信荘の一室に引越したのは、後記のとおり、同月一四日であって、右菊井証言が信用できるものであるとすれば、爆弾製造日は同月一四日以降――京都地方公安調査局事件との関連を考えると同月一四日又は同月一五日――ということになるが、右証言は、爆弾製造との関連で十分な吟味をされているものとは言い難く、右証言部分をこの関係であまり重視することは適当ではないと思われる。)。

しかし、事は、爆弾の製造という、菊井自身にとっても初めての極めて特異な体験であることを考えると、強く印象されていて然るべき出来事であり、しかも、製造前後のころ、菊井には、菊井自身も証言するように、同月九日の巣鴨駅前派出所等襲撃未遂、同月二〇日のトラック窃盗、同月二一日の一〇・二一闘争等、記憶を喚起するための手掛かりとなるべき印象的な事件があったことに照らすと、製造日に関する菊井の右証言は曖昧に過ぎ、不自然の嫌いがないではない。

もとより、菊井証言は、事件後一〇年近くを経過した時点でなされたものであり、一般的には、一〇年の歳月の経過は、相当程度の記憶の希薄化ないし消失を招くには十分であって、その意味では、右証言の曖昧さをもってその信用性に疑問を呈するのは酷であり、適当ではないとの見解も考えられよう。

しかし、菊井は、昭和五四年に至って初めてピース缶爆弾製造事件につき記憶の喚起を求められたものではない。昭和四八年三月一六日同事件で逮捕された菊井は、当時本件への関与の有無につき取調を受けており(その上、菊井は、その前年である昭和四七年の終わりころ、ピース缶爆弾製造事件に関連して、捜査機関から事情を聴取されたことがある旨証言する。九六回一三五六八、九七回一三七六四)、また、被告人らの起訴以後も、被告人らあるいは弁護人ないし被告人らの救援団体等から、度々公判の経過等が知らされるとともに、昭和四八年段階の取調状況の報告を求められ、あるいは江口から本件ピース缶爆弾事件の検察官冒頭陳述を抜き書きした手紙を受け取るなどし、菊井においてもこれらにいちいち応答するなどしており、その間、ピース缶爆弾事件について、記憶を呼び戻す機会は比較的多かったと認められる。更に、菊井は、昭和五四年六月一三日岡山刑務所から中野刑務所に移監されて以来、少なくとも同年七月一〇日までの間、ピース缶爆弾製造事件について、東京地検長山検事から連日のように事情を聴取されているのであるが、その際、記憶喚起のため、同検事からは、被告人らあるいは共犯者とされる者らの捜査段階における供述もヒントとして呈示されたであろうことは察するに難くなく、そのようなことを手掛りとして、当時、本件に関する記憶が大いに更新されたであろうと考えてよい。

以上のような菊井の本件証言に至る経緯に加え、現に製造日以外の点、例えば製造参加メンバー等については記憶を喚起したとしてすこぶる詳細な供述をしていることに照らすと、菊井が昭和四六年一二月以降昭和五二年六月までの間、いわゆる朝霞自衛隊襲撃等事件(強盗殺人等被告事件)の被告人として、第一審の浦和地裁、第二審の東京高裁において公判審理を受けていたのであって、自己の公判対策に忙殺されていたとする点を考慮しても、少なくとも、弁護人が主張するように、本件爆弾製造の日が、一〇・二一闘争に近い日であったのか、あるいは同月九日の巣鴨駅前派出所及び池袋警察署襲撃未遂若しくは同月一〇日の明治公園における羽田闘争二周年記念集会に近い日であったのかという程度のことは想起できてもおかしくないのではなかろうかと思われ、このような区別すらできないという菊井証言の曖昧さは不審である。

(2) 変遷と動揺

製造日と謀議日の関係について菊井証言は、次のように変遷する。

九四回(54・10・23) 製造は、ミナミ謀議の当日ではない。それから二日も三日もたってから(爆弾を)作ったということもない。翌日だと思う。(一三三七二)

九九回(55・1・30) 弁護人からの「前日ミナミで指示を受けて、次の日に河田町のアジトでピース缶爆弾を作るということで集まったわけですね」との質問を「はい」と肯定し、引き続く弁護人の「そうすると指示を受けた翌日に集まったわけですね」との念押しの質問に対しても「はい」と肯定。(一四〇六三)

一〇〇回(55・3・6) 謀議の翌日ころ製造した。謀議の翌日とは断言できない。(謀議の日と製造の日は)非常に近かった気がするけれども、何日も後に離れて、例えば、一週間とか一〇日とか離れて製造の日があったという記憶はなく、割と近い日で、翌日ころだったのではないかという趣旨で言っている。(一四一七六、一四一八二)

九部57・9・2    証言を訂正することになるかもしれないが、(製造が謀議の)翌日と言われてもちょっとよくわからない。一日か二日かずれておったかもしれない。(謀議の際)明日来いと言われたのか、あさって来いと言われたかははっきりしない。五日も離れていることはないと思う。割と接近していたと思う。(二六九〇二)

一五六回(58・3・29) 謀議をした翌日なのか翌々日なのか断言できないけれども、とにかく謀議をしたその直後ころとしか言えない。(三二八八六)

右証言の推移をみるに、当初の証言は、製造日を謀議日の翌日であると断定するかの如きものであったのに、第一〇〇回公判以後の証言は、そのニュアンスをできるだけ弱めようとするものであることは否定できない。第一〇〇回公判において証言が動揺し始めたのは、第九六回公判において、弁護人から喫茶店で爆弾製造の謀議ができるのかとの質問を受け、これに対し、「土曜日の新宿という盛り場で、客が満員の喫茶店で殺害してでもとるというような謀議ができるかどうかという問題と平日の河田町の客もおらんようながらんとした喫茶店とは明らかに条件が違う」、「平日というのは、別に日曜日じゃないという記憶があるからである」と証言したことがあり(一三六〇五。もっとも「平日」という点は、その直後に撤回する旨証言している。)、これを受けて、弁護人が、ミナミは日曜祝日休業である旨告知した上、製造謀議の日を特定すべく質問した段階であって、このような経緯の外、前項(1)で述べたような事情を総合すると、菊井は謀議日ないし製造日について、ことさらに特定することを避けて証言しているのではないかとの疑いが払拭できない(なお、菊井は、第九八回公判において、一〇月中旬ころは、既に共青同赤軍派に加盟し、同派幹部の花園と行動を共にしていたと証言したこと((一三九〇五。但し、速記録一三九〇三丁に昭和四五年とあるのは明らかに言い間違いである。))に鑑み、第一五六回公判において、当裁判所が、製造日をより特定させるべく、同月中旬の赤軍派幹部の堂山道生及び高原浩之の逮捕と爆弾製造の時間的先後関係について質問したのに対しても、少しく考えるのでもなく、簡単に「わかりません」と供述するなど((三二八六八))、製造日の特定に向けての記憶喚起に努める真摯さが見受けられない証言態度であったことを付記する。)。

弁護人は、右のような供述の変遷は「菊井が、自らの証言内容が妥当する範囲をできうる限り広く、他の客観的事実と符合する可能性をできるだけ大きくしておこうとしたことによるものである」と主張するのであるが(最終弁論四二五三四〇〇三)、もっともな点があるといえよう。

(三) 京都地方公安調査局事件との関係

前記第四章一3(一)のとおり、一〇月一七日午後一一時三〇分ころ、京都府京都市東山区所在の京都地方公安調査局において、大村寿雄らによってピース缶爆弾一個が投てきされ、爆発しているところ、既に認定したように、右ピース缶爆弾は、八・九機事件、中野坂上事件等のその余のピース缶爆弾と区別すべき根拠がなく、本件公訴事実のとおり、被告人らがピース缶爆弾十数個を製造したものという以上は、右ピース缶爆弾もまた、本件製造にかかるものの一部であると推認するのが合理的であるとしなければならない。

ところで、京都地方公安調査局事件のピース缶爆弾は、右大村によって、投てきの一日ないし三日前(すなわち同月一四日ないし同月一六日)の夕方京都市東山区本町五丁目所在の杉本嘉男方に搬入された二個のうちの一個であると認められ、遅くとも同月一六日夕方までには同人方に搬入されていたとしなければならない。そして、本件被告人ら及び菊井を含む共犯者とされる者らの各供述によれば、河田町アジトにおける爆弾製造は、いずれもおおむね昼過ぎから夕方にかけてというのであるから、東京都新宿区河田町所在の河田町アジトと京都市東山区本町所在の杉本方との地理的関係、その間の交通手段を考慮にいれれば、製造日は、論理必然的に遅くとも同月一五日以前とならざるを得ず、同月一七日はもとより、同月一六日に製造された可能性はないと認めざるを得ない。更に、同人方への搬入日時は、前記のとおり、京都地方公安調査局事件の二日前あるいは三日前であった可能性も相当程度認められ、仮にそうであるとすると、製造日は更に遡り、同月一四日以前あるいは一三日以前ということになる(この点に関し、検察官は、冒頭陳述において、被告人らによって製造日の午後五時ころまでに十数個のピース缶爆弾が製造された旨主張しているところ、のちに、これは該十数個のピース缶爆弾が午後五時ころ同時に完成したとの趣旨ではない旨釈明し((第八一回公判。一〇七九五))、製造日の午後五時ころ以前に河田町アジトから搬出されたピース缶爆弾が存在する余地を示唆するが、被告人らあるいは菊井を含む共犯者とされる者らのうち、製造作業終了前に爆弾の一部が河田町アジトから搬出された旨供述する者は皆無である。)。

しかるに、被告人らの前記各自白のうち、右認定にさまで矛盾しないのは菊井及び村松のものに過ぎず、その余の者らの供述は(製造日を「ころ」と幅を持たせている者もいるけれども、その点を考慮しても)、右認定事実にやや符合しない傾きを免れ得ず、製造を自白した八名のうち、六名もの者が揃ってそのような供述をしていることは、製造に関する各自白の信用性に大きな疑問を投げかけるものである。

(四) 石井、江口及び平野アリバイ

(1) 石井アリバイ

弁護人は、本件爆弾製造の日に、昼すぎから夕方まで河田町アジト付近で見張り役を担当したとされる石井は、検察官がピース缶爆弾の製造日として主張する一〇月九日から同月一六日までのうち、同月九日及び同月一三日から同月一六日までの午後少なくとも五時までは、東京都台東区所在、国鉄浅草橋近くにある東京プラスチック会館三階の日本プラスチック玩具工業協同組合に臨時雇用者として勤務していたのであるから、石井にはその限りでアリバイがある旨主張するので(最終弁論二七七三三九二七)、判断を示す。

ア 出金伝票と領収書

同組合の昭和四四年九月及び一〇月の伝票、領収証等綴二冊(符一及び二)中には、石井のアルバイト関係の出金伝票及び領収書各七通が存在するが、その内容は次表のとおりであり、各番号の出金伝票と領収書が対応するものであることは一見して明らかである。なお、備考欄に、関係各証拠によって誤記と推認される点を付記する。

石井のアルバイト関係の出金伝票及び領収書記載内容一覧表

(凡例    は出金伝票、    は領収書、   @は単価)

番号

の別

作成日付

(昭和年月日)

金額

(円)

明細

につき承認印

会計印の有無

につき

領収印の有無

備考

44・9・6

二四〇〇

アルバイト料9/5、6分

@一二〇〇

44・9・6

二四〇〇

アルバイト料

44・9・16

七二〇〇

9/8~9/13アルバイト料

44・9・18

七二〇〇

9/8~9/13アルバイト料

44・9・20

六〇〇〇

アルバイト料9/16~20

@一二〇〇

44・9・20

六〇〇〇

アルバイト料9/16~20

44・9・29

三六〇〇

アルバイト料9/21~9/27

@一二〇〇 三日間

9/21とあるのは

9/22の誤記と認

める。

44・9・27

三六〇〇

アルバイト料9/21~9/27

44・10・4

四二〇〇

アルバイト料

@一二〇〇×三・五

44・10・4

四二〇〇

アルバイト料9/27~10/4

9/27とあるのは

9/29の誤記と認

める。

44・10・11

六九一〇

アルバイト料四・五×

@一二〇〇(五四〇〇)

〃  残業一八八×八

(一五一〇)

44・10・11

六九一〇

アルバイト料

44・10・18

七二〇〇

アルバイト料10/11~18

10/11とあるのは

10/13の誤記と認

める。

44・10・18

七二〇〇

アルバイト料10/11~10/18

そして、一一一回牧野伸一証言一六九九八、一一三回同一七二七四、九部二六五回藤川高証言二七九七三及び九部二二六回深江玲子証言二七八二九によれば、右各出金伝票及び領収書は、同組合の業務の通常の過程で作成されたものと認められる。その記載中には、アルバイト料の支払われるべき就労日の日付の誤記及び領収印もれがいくつか認められるものの、いずれも合理的な説明がつき(特に、昭和四四年一〇月一八日付の出金伝票及び領収書の明細に「アルバイト料10/11~」とあるのを「アルバイト料10/13~」の誤記と認めた理由については後記エ参照)、他に右伝票、領収書につき、偽造、変造を窺わせるような状況は存しない。更に、右伝票、領収書の内容は、前記各証言により、同じく同組合の業務の通常の過程で作成されたものと認められる同組合の昭和四四年度の元帳(符一一八)及び金銭出納帳(符一一九)の各記載にも正確に一致しており、虚偽の内容が記載されているものとは認められない。

イ 勤務時間

前記各証言並びに九部二六五回仁瓶五郎証言二七八九〇及び一七回石井証言⑦一七四三、九部一八〇回同一五五八二、一五六七一によれば、同組合の勤務時間は、平日が午前九時から午後五時までであり、牧野、仁瓶及び深江の各証言並びに後記の残業許可簿(符一一七)の記載によれば、昭和四四年度の土曜日については午後零時から残業扱いとされていること(同年六月一四日の深江については午後二時からとされているが、同日のその余の者については午後零時からとされており、かつ、右深江分も必ずしも午後零時からの残業扱いと矛盾するものではない。)に照らすと、土曜日の勤務時間は午前九時から午後零時までであったことが認められ、かつ、臨時雇用者の勤務時間につき、別の取扱いがなされていたとすべき証拠はない。土曜日における従業員の勤務時間に関する藤川証言及び石井証言のうち右認定に反する部分は措信し難く、採用できない。

なお、前記出金伝票及び領収書、職員賃金書類(符一二〇)及び牧野証言によれば、石井のアルバイト料は週給七二〇〇円(一日当たり一二〇〇円)であり、土曜日は正午まで勤務すれば一日分のアルバイト料が支払われたものと認められる。石井証言のうち右認定に反する部分は措信し難い。

ウ 「アルバイト料〇・五日分」の意味

前記出金伝票及び領収書の記載のうち、「アルバイト料〇・五日分」の意味について、牧野証言によれば、原則として平日の午後のみ勤務した場合の計算方法と認められるが、同証言は、平日の午前中勤務、午後早退という場合についても〇・五日分として計算支払いすることを絶対的に否定するものではない(一一一回牧野証言一七〇五一)。

エ 休日出勤の有無

日曜及び祝日のアルバイトの出勤の有無については、牧野がその可能性を否定しているほか(一一一回牧野証言一七〇四九、一一三回同一七三四五)、石井も日曜日と祭日には出なかったように思う、出た記憶はない旨証言しているところ(九部一八〇回石井証言一五六八六)、牧野証言によれば、同組合では、休日出勤の場合、五割増しの賃金が支払われる扱いであったと認められるが(一七三四五)、前記出金伝票及び領収書にはそのような形でアルバイト料が支払われた形跡はなく、また、同組合の残業許可簿(符一一七)にも、昭和四四年九月及び一〇月に休日出勤があったとの記載はない(ちなみに、右残業許可簿には、昭和四三年七月から昭和四七年九月までの約四年間分が記載されているが、そのうち休日出勤は僅か三件に過ぎない。)。

なお、右残業許可簿の記載について一言すると、その記載状況は一見乱雑なようではあるが、一一一回牧野証言一七〇三八、一七〇五八、九部二六五回藤川証言二七九九九及び九部二六五回仁瓶証言二七九一〇によれば、右残業許可簿は、同組合の業務の通常の過程で作成されたものと認められるほか、石井に関する前記昭和四四年一〇月一一日付出金伝票中の「アルバイト料一八八×八」との記載は、右残業許可簿の石井の残業状況についての記載(「同年九月一一日午後五時から午後六時まで」「同月一二日午後五時から午後八時まで」「同年九月一一日午後五時から午後八時三〇分まで」)に符合する(以上合計七時間三〇分が、残業手当の計算上、端数切り上げで八時間とされたものと推認される。)と認められ、更に、右残業許可簿に記載された当時の同組合の職員の残業時間と、前記元帳及び金銭出納帳に記載された同組合において職員に支払われた各月の残業手当の金額とは、次のとおり符合しており、その間に矛盾はないから、右残業許可簿の記載は正確なものと認めて差支えない。すなわち、昭和四四年度(昭和四四年四月一日から昭和四五年三月三一日まで)について残業許可簿に記載された職員の残業時間数と元帳、金銭出納帳に記載された各月の残業手当の額に基づき、各職員の一時間当たりの単価(前記石井に関する出金伝票及び領収書中の@に当たるものである。)を求めると、昭和四四年五月以前支払分については、仁瓶が二一九円、高井が一七五円、同年六月以後支払分については、仁瓶が二四五円、深江が二五二円、高井が一九八円、小幡が一六一円という統一性のある結果が得られる(同年六月以後支払分については、賃金の改定があったものと推認される。もっとも、同年七月分の残業手当は、残業許可簿以外の資料に基いて支出されているほか、昭和四五年二月分の残業手当については、五円の計算ミスがあったものと推認される。)。もし、右残業許可簿が改ざんされ、真実に反しているならば、他の帳簿との間に食い違いを生じこのように整った単価を見出すことはできないはずである。

以上述べたところによれば、石井が昭和四四年九月及び一〇月の日曜、祝日に同組合に出勤したことはないものと認められる。

そして、このことはまた、さきにアで触れた昭和四四年一〇月一八日付の出金伝票及び領収書の明細に「アルバイト料10/11~」とあるのは、同月一二日が日曜日であった関係上、「アルバイト料10/13~」の誤記であると認めるべき根拠ともなるのである。

オ 「抜け出し」の可能性

次に、石井が、勤務時間中、職員に気づかれることなく同組合事務所あるいは同組合の展示会(見本市)会場(同年一〇月一三日から同月一五日にかけて、東京都大手町所在の産業会館において開催されたものと認められる。一一一回牧野証言一七〇〇五等)から抜け出して河田町アジトに赴き、爆弾製造作業中レポを行い、その後再び勤務に復した可能性の有無について検討すると、仮に石井が右のような行動をとったとすれば、それはすなわち巧妙なアリバイ工作として把握されるべきであって、石井には強く印象され、その点について記憶を喪失することは考え難いところ、石井は、ピース缶爆弾製造事件で起訴された後もアリバイがある旨主張せず、かつ、当部及び九部において証人として証言した際も、弁護人から同組合でのアルバイト勤務の事実を指摘され、アリバイがあるではないかと尋問されながら、なお、アルバイトをした日以外の日にレポをしたことがある旨述べているのであって(その理由については後記5(二)(8)オ(カ)参照)、石井が右のような形でアリバイ工作をしていたとみる余地はない。また、実際にも、同組合事務室の状況あるいは当時の同組合の繁忙状況、石井の勤務内容(一一一回牧野証言一七〇〇五)に照らし、そのようなことができるとは考え難い。

カ 預金払戻し

石井が作成したものと認められる昭和四四年一〇月一四日付、同月一六日付及び同月一七日付普通預金払戻請求書(符五二ないし五四)によれば、石井は同月一四日に平和相互銀行浅草橋支店から二〇〇〇円、同月一六日に同銀行八重洲口支店から三〇〇〇円(同月一六日付払戻請求書((符五三))は、テラー印を欠くが、八重洲口支店のものと認める。)、翌一七日に同銀行浅草橋支店から一五〇〇円を、それぞれ払い戻していることが認められるが、右浅草橋支店は国電浅草橋駅の近くにあり、また右八重洲口支店は前記産業会館近くにあり、いずれも、石井が同月一四日、同月一六日及び同月一七日に同組合でアルバイト勤務をしていたことに符合するものである(同月一六日については、前記展示会の跡始末のため右産業会館へ赴いたものと推認される。)。

キ まとめ

以上の諸点を総合すると、一〇月九日については、石井が午後早退したとの可能性を全面的には否定できないものの、同月一三日ないし一六日については、前記弁護人の主張はほとんど決定的に成立し、石井はこれらの日の昼過ぎころから午後五時ころまでに河田町アジト及びその周辺には赴いていないと認めるのが相当である。

(2) 江口アリバイ

弁護人は、江口が、一〇月当時、日曜と祝日を除く月曜日から土曜日までの午前一〇時から午後七時ころまで国立ガンセンター化学療法部実験化学療法研究室の研究員として勤務しており、特に同月九日及び同月一五日の両日については同研究室で動物実験に関与していたことが明らかであるから、河田町アジトで行われた本件に参加しているわけはないと主張するので(最終弁論三〇八三三九四三)、判断を示す。

江口は、同年一〇月当時自分は国立ガンセンターの研究所の臨時職員として動物実験をしていた旨証言するところ(三一回江口証言⑫三二〇七、三二六五)、大学ノート四冊(符一〇八)中、表紙に「4NQO及び4HAQOのEhrlich cell殺cell効果江口良子」との記載があるもの(右ノートの体裁及び後記川添証言により、同ノートは江口自身が記載しているものと認められる。)には、江口が同月九日及び同月一五日いずれも動物実験に従事していたと受け取れる記載が存する。そして、当時、前記研究室の室長であった川添豊の証言(九部二八三回川添証言二七六九〇)によれば、一〇月ころ、江口は、事実、同研究室の研究員として、右ノートの記載に見合う動物実験に従事しており、更に、右記載にかかる実験をするには相当長時間を要し、午前九時ないし一〇時に始めたとしても午後三時あるいはもっと遅くまでかかるものであるというのであるが、右ノート中の同月九日分には「5.00終了」との記載があり、また同月一五日分についても、右実験に関する時刻を表示したものと推認される「5.20-6.00」なる記載がある。また右川添証言及び九部二八五回庭山正一郎証言二七八〇二によれば、右ノート四冊は、昭和四五年二月ころ、江口が右研究室をやめるに際し、川添室長が申し出て江口から預ったもので、以後昭和五七年二月まで川添の手許に保管され、その後江口の弁護人である弁護士庭山正一郎が右ノートの存在を知り、右川添から借り受けて保管していたものであるが、その間右ノートに改ざんが加えられたことを疑わせる事情は何ら存しない。

以上の事実に照らすと、一〇月九日及び同月一五日には、弁護人の主張するとおり、江口は、右研究室で前記動物実験に従事していたのであって、検察官が冒頭陳述において爆弾製造時間と主張する正午過ぎころから午後五時ころまでの間に河田町アジトに赴いたことはあり得ないものと認められる。

しかしながら、右研究室の勤務形態については、江口が、「勤務時間は研究所なのでルーズであった」「個人の自由で帰りたいとき帰るというものであった」とも証言し(三一回江口証言⑫三二六六、三二六八)、また川添が「江口のような正式の公務員でないものについてガンセンターとして正規の出勤簿はなかった。自分に対する連絡だけで欠勤して差支えなかった」旨証言(九部二八三回川添証言二七七四五、二七七四七、二七七五三)しているところに照らすと、同月九日及び同月一六日を除くその余の同月中旬の日々については、江口が終日同研究室で勤務していたことを確認するに足りず、弁護人の前記主張は全面的には成立しない。

(3) 平野アリバイ

弁護人は、平野が、一〇月一四日午前中に従前の下宿先であった杉並区天沼の八田方から新宿区柏木の糠信荘に引越しをし、同日午後はその荷物整理をしていたことを前提として、平野には、少なくとも、この日についてはピース缶爆弾製造に関し明らかなアリバイがあると主張するので(最終弁論三一七三三九四七)、判断を示す。

一四六回平野供述二五六五九並びに平野44・12・10員面、平野正夫44・11・4員面二七二七二及び町田敏之48・4・11員面二七三六三等によれば、平野が、一〇月一四日午前中に、杉並区天沼所在の八田喜三郎方から新宿区《番地省略》所在の糠信荘二階の一室に、右町田の手伝いを得て、二人で引越したことは認められる。しかし、同日午後の行動については、平野は、同荘において荷物を整理していたと思う旨供述するけれども(一四六回平野供述二五六六二)、これを裏づけるに足りる他の証拠はない。

弁護人は、この点について、引越そのものは午前中であることを認めた上、糠信荘に荷物を放り出してそのまま河田町アジトに馳けつけるなどというのは不自然で、このような、大家から疑惑を抱かれかねない不用心な行動をわざわざとったとは考えられない旨主張するのであるが、そのような行動をとるということが全くあり得ないとも思われず、大家が疑惑を抱くということも、特段の事情がない限り、一般的には考え難いのではあるまいか。

そして、爆弾製造時間に関する検察官の主張が午後であることを考慮すると、結局、平野アリバイの主張は採用し難い。

(五) ミナミ及びエイトの休業日

検察官は、本件ピース缶爆弾製造の謀議は、ミナミにおいても行われたと主張し(論告要旨九三三五二四等)、前述のとおり、これに沿う菊井証言及び増渕自白並びにこれに近い内容の村松自白があるところ、増渕はミナミ謀議の翌日が、村松はミナミで爆弾材料入手の指示を受けた翌日が、それぞれ製造日である旨供述し、また、菊井の謀議日と製造日の関係についての証言は前記(二)(2)のとおり動揺するものの、少なくともミナミ謀議の当日は製造日ではない旨証言するので、ミナミの休業日を確定しておくことは、製造日を確定する上でも有益であると考えられる。

また、エイトについても、菊井は後に「レポ」の項(5(二)(8))で詳論するが、「製造日当日は石井がエイトに待機し、レポをしていた自分達からの連絡を待っていた」旨述べるなどエイトを利用したことを証言し、佐古及び石井の自白の中にも、製造日当日エイトを利用したとの供述があるので、エイトの休業日についても判断を示すこととする。

なお、弁護人は、関係証拠上、ミナミ及びエイトの休業日は、いずれも日曜、祝日であり、したがって、昭和四四年一〇月一〇日(体育の日)及び同月一二日(日曜日)は両店とも営業していなかったと主張している(最終弁論三〇二三三九四〇)。

(1) ミナミの休業日

ミナミの休業日に関する証人は、同店の経営者であった南君枝一人であり、同証人の証言は、大要、「ミナミは昭和四二年一〇月ころから昭和四四年一二月ころまで営業していた。開店当初は日曜、祝日も営業していたかもしれないが、繁華街でもなく、客が少ないので、その後日曜、祝日は休業していた。もっとも、日曜、祝日に店を開けたことがないかと聞かれると断言はできない」というものであるが(56・6・9南君枝証言二二三六五)、同証言を虚心に受けとめれば、他に有力な反証もない以上、ミナミは、昭和四四年一〇月当時、日曜、祝日が休業日であり、同月一〇日(体育の日)及び同月一二日(日曜日)には営業していなかった公算が極めて高いというべきである。

(2) エイトの休業日

エイトの経営者である斎藤都之及び同人の母である斎藤コウの各証言(56・6・9斎藤都之証言二二三四二、一二一回斎藤コウ証言二二三九八)によれば、エイトは昭和四四年五月八日開店し、当初は日曜、祝日も営業され、その後、原則として、日曜、祝日が休業となったものと認められるが、その時期については、斎藤都之が開店して一、二か月後というのに対し、斎藤コウは開店して約五か月後というのであって、コウ証言に従えば、同年一〇月中旬ころに日曜、祝日が休業日となっていたかは微妙である。更に、斎藤コウは、日曜、祝日を原則として休業としてから後も、自分や嫁(都之の妻)の体が空いている場合、近所で何か催し事がある場合あるいはフジテレビ関係者から依頼があったような場合は開店したと証言している。また、フジテレビのスタジオ照明を担当し、当時同店を利用していた川口祐司は、そのころのフジテレビの業務日誌から明らかな同月一〇日及び同月一二日の勤務状況に照らすと、両日とも同店で食事をした可能性が高いほか、一般に、日曜、祝日にフジテレビに出勤した際は斎藤都之に頼みこんで同店を開けてもらっており、そのような際には一般の客も入っていたのではないかと証言する(一二一回川口祐司証言二二四一四)。

このような諸事実を考えあわせると、弁護人の前記主張は必ずしも支持できず、かえって同月一〇日及び同月一二日にエイトが営業されていた可能性を完全には否定できない。

(六) 「製造日時」に関する結論

検察官は、本件ピース缶爆弾製造の日を、「昭和四四年一〇月中旬ころ」と主張し、これは、「同月九日から一六日までの間の一日」を指すものであると釈明している。

しかるに、さきに京都地方公安調査局事件との関係について述べたところ((三))によれば、そのうち、少なくとも一六日は除外すべきものであり、考え方によっては、一五日及び一四日をも除外しなければならないこととなる。

更に、石井アリバイの検討結果によれば、右の期間中、石井が昼すぎから夕方まで河田町アジト近辺で製造当日の「レポ」に従事できたのは、九日、一〇日、一一日、一二日の四日間に限られることとなり、製造参加者とされる江口のアリバイ(九日及び一五日)によって、右のうち、九日も除外しなければならない筋合いである。また、九日は、巣鴨駅前派出所及び池袋警察署襲撃のため、L研の者たちが巣鴨、池袋付近に参集していた日でもある(第四章二3(二))。

そして、検察官の依拠する菊井証言によれば、製造当日でなくその前日ないし五日前くらいに、ミナミで謀議が行われたというのであるから、このことを前提とすると、さきに見たとおり((五)(1))、ミナミは日曜と祝日は休業日であったと認められるから、一〇日(体育の日)の謀議はあり得ず一二日の日曜日の謀議もあり得ないこともちろんであるが、仮にあり得たとしても、その場合には製造日が存在しないこととなる。)、結局、謀議日として可能性のある日は一一日(土曜日)であり、製造日として可能性のある日は一二日(日曜日)のみということになるのである。

ところで製造日には、レポの中継点としてエイトを使用したとの菊井証言があるほか、他の自白にも当日におけるエイト使用を述べるものがあるのはさきに(五)で見たとおりであるから、エイトもこの一二日に休業していたとすれば(その可能性が全くないわけではないこと、さきに(五)(2)で述べたとおりである。)、もはや本件爆弾の製造日として認定することのできる日は残されないわけであるが、この点を別にしても、一一日の謀議、一二日の製造というのは、被告人ら及び共犯者とされる者らの自白とは大きく食い違うのであって、この事実は、右各自白の信用性に、重大な疑問を投げかけるものとしなければならない。

3  製造参加者

(一) 自白の概要

ピース缶爆弾の製造に参加した者に関して、被告人ら及び共犯者とされる者らの自白するところは、次のとおりである。

佐古 増渕、村松、佐古、前原、井上、平野、江口、前林、堀、内藤、菊井、国井、石井(48・3・26Ⅰ検面、48・3・30Ⅰ検面)

前原 増渕、村松、佐古、前原、井上、平野、江口、前林、菊井、石井。内藤、堀もいたと思うが、はっきりしない。国井、元山、富岡は参加せず。(48・3・28検面、48・4・6検面)

村松 増渕、村松、佐古、前原、井上、江口、前林、堀、内藤。国井もいたと思うが、はっきりしない。菊井、平野、石井はいなかったと思う。(48・3・24検面、48・4・11検面)

増渕 増渕、村松、佐古、前原、井上、江口、前林、堀、内藤、国井、石井。平野も参加したように思うが、はっきりしない。(48・3・23検面、48・4・14検面)

内藤 増渕、村松、佐古、前原、井上、平野、江口、前林、堀、内藤、菊井、国井、石井。富岡、元山については、はっきしない。(48・3・19検面、48・3・23検面、48・4・9検面)

石井 増渕、佐古、前原、井上、平野、江口、内藤、国井、石井、元山、富岡。村松は当日見ていない。堀、前林も見ていないが、参加していたかどうかはわからない。(48・4・3検面、48・4・13検面)

菊井証言 これらに対し、菊井証言は、「自分のほか、増渕、村松、佐古、前原、井上、平野、江口、内藤、国井、石井はいた。堀と思われる男及び前林と思われる女がいたが、いずれも堀あるいは前林と断言は出来ない。そのほかに、二、三名いたと思う。それらの者の中に、元山、富岡がいた可能性もある」というものである。(九四回菊井証言一三三七三、一三四一三、一〇〇回同一四二八七、九部57・9・2同二六九一七、二六九一一、一五六回同三二八八六等)

なお、以上を一覧表にすると、次のとおりである。

製造参加者に関する自白一覧表

凡例 ○(参加)、△(断定しないものの参加を肯定するニュアンスのもの)×(不参加を明言するもの)

参加メンバー

増渕

村松

佐古

前原

井上

平野

江口

前林

内藤

菊井

国井

石井

元山

富岡

その他

供述者

佐古

前原

×

×

×

村松

×

×

×

増渕

内藤

石井

×

菊井

2~3名あり

(二) 検察官の主張の問題点

検察官は、以上のような各自白を総合して、前記第二章二の3のとおり、本件ピース缶爆弾は、河田町アジトにおいて、増渕、村松、佐古、前原、井上、平野、江口、前林、堀、内藤、菊井、国井、石井らが、それぞれ作業を分担して製造したと主張するのであるが、以下に述べる諸点を考えると、検察官の主張するような事実関係は、現実にはあり得ないのではないかとの根本的な疑問を感ぜざるを得ない。

まず、事は、いわゆる「武装闘争」のための手製爆弾の製造という非合法行動であって、性質上、極秘裡に行われるべきものであることは言うまでもない。従って、これに参加させる者は、発覚を厳に防ぐためにも、秘密を漏らす虞のない、信頼のおける最小限度の者に限られるべきであろう。しかるに、首謀者とされる増渕らが、その当時、例えば内藤や石井に対して、それほどまでの信頼感を抱いていたとは甚だ考え難い。しかも、本件ピース缶爆弾は、比較的簡単な構造のものであるから、その製造工程が複雑であったはずはなく、右のような者まで参加させなければならないほどに多くの人数を必要としたとも考えられない。加えて、爆弾の製造場所と主張される河田町アジトは、独立家屋とか外部と遮断された堅固なアパートの一室とかでなく、単なる間借りであって、玄関を家主と共通にしており、その広さは四畳半と二畳の続き間で、当時、同アジトに置かれていた長机、本棚等の占めるスペースを除けば、実質は五・五畳程度に過ぎず、その上、家主の使用する部屋との境は壁一枚、一部は襖一枚で仕切られているだけであった((員)田村卓省48・1・23検証三三二〇一)。そして、検察官の主張するところによれば、そのような狭い場所に、製造作業開始前十数名の者が全員入り込んで増渕らの説明を受け、その後、屋外に出たというレポ担当者らを除いても、一〇名近くの者がそのまま残留し、右室内に裏返したパン運搬用の木箱や爆弾材料あるいは使用する器具等を置いて、薬品の調合、ピース缶への充填等の製造作業に従事したということになるのであるが、いかにも窮屈であって、果たして、そのような作業をするだけの余地があったかどうかすら心もとないように思われる。また、このような間借人の部屋に十数名の者が集合し、何名かの者が出たり入ったりするということになれば、当然家主の不審を招く虞が大である。

もし、真実このような形で本件犯行が実行されたのであれば、爆弾製造作業としては、余りにも密行性を欠いたやり方であり、非現実的なまでに安直な発想によるものとせざるを得ず、その場で発覚しなかったことが、むしろ奇異にすら思えるのである。

而して、右のような検察官の主張に対する疑問は、とりも直さず、その根拠となっている被告人ら及び菊井を含めた共犯者とされる者らの前記各自白の信用性に対し、重大な疑義を投げかけるものである。

(三) 各自白の問題点

製造参加者に関し、被告人ら及び菊井を含めた共犯者とされる者らが述べるところには、前記のとおり、相互に必ずしも一致しない点があるが、これらは時日の経過による記憶の希薄化ないし消失によるものと考える余地があるほか、故意にかばい立てしていることもあり得ないではない(例えば、石井及び村松が、いずれも相手の名を挙げないのは、昭和四四年一〇月当時同棲していたこともあって互いにかばいあっているとみられなくもない。)から、右不一致それ自体は、さまで重視すべきものではないと考えられる。

しかし、これらの自白を子細に検討するときは、その真実性に関して、以下のような問題点が見受けられるのである。

(1) 石井自白の問題点

石井が、菊井の名前を挙げず、他方、元山及び富岡両名の名前を挙げる点には看過しえない不自然さが存する。すなわち、菊井証言によれば、菊井は、製造時、石井を中継役としたレポを担当したというのであるから、石井にとって菊井の存在は他のメンバーに比べ比較的強く印象に残るはずであって、石井がこれを語らないのは記憶の消失によるとすることはいささか困難であり、他方、石井がその記憶に反し、菊井をかばってことさらに供述しなかったとすべき理由も見出すことができないのである。また、元山及び富岡の参加については、前記(一)のとおり、内藤及び菊井の曖昧な供述を除けば、これを裏付けるような供述がなく、しかも、石井が、元山及び富岡の遂行したレポの状況として述べるところには、後述(5(二)8オ)のように甚だ不自然、不合理な点が存在するのである。

(2) 平野及び内藤の参加状況

製造当日、平野及び内藤が河田町アジトに来た状況について、佐古、内藤、石井の各自白及び菊井証言が相互に著しい食い違いを示している。

ア 佐古、内藤、石井自白

佐古、内藤及び石井のこの点に関する供述は次のとおりである。

佐古 爆弾の製造を開始して一時間位して後、レポとの連絡のため、外に出たところ、パン屋のところ(48・4・1員面によればパン屋横の路地の中)で、平野と内藤が来るのに出会った。(48・3・30Ⅰ検面)

内藤 平野とともに河田町アジトに赴いたところ、同アジトに入る路地(48・4・2Ⅱ員面によれば、佐古の居室の東側窓付近)で菊井と国井に会い、同アジト入口付近(同員面によれば玄関前)で佐古に会った。その後、室内で増渕から説明があり、製造作業が始まった。(48・3・28検面、48・4・9検面)

石井 佐古の指示でパン屋の角に立ってレポをしていると、午後一時ころ増渕が来て、その後間もなく平野と内藤が来た。(48・4・3検面)

右に見るとおり、佐古及び内藤の供述は、二人が出会ったこと自体については一致しているものの、出会った場所及び出会った時点(すなわち製造作業の開始との時間的先後関係)が相違し(とくに後者が重要視される。)、また、内藤供述は、途中石井と出会ったとは述べない点で石井供述と食い違う(内藤は、河田町アジトに入ってから後、石井が室内に入ってきたと述べる。内藤48・3・28検面)。右三名の供述はいずれも具体的かつ明確であって、記憶の希薄化あるいは混同を思わせる表現は見られない。

イ 菊井証言

これに対し、菊井証言は、「河田町アジトで製造作業開始前、増渕から説明があった際、平野と内藤がいた。その後、レポに出た」というものであって、内藤らと河田町アジトに入る路地の付近で出会ったことを述べない点で内藤供述と相違し、また、製造開始前に内藤らが来ていた旨供述する点で佐古供述とも一致しない。

菊井は、内藤供述との相違を質され、「レポの途中、河田町アジトに戻った際、同アジトの玄関前で内藤と会っているが、(内藤は)その時のことを言っているのではないか」と述べるが(九部57・9・2二七〇四〇)、その際の状況として菊井の述べるところは内藤の前記供述と全く異なり、同一の事柄を供述したものとは到底見ることができない。

(3) 佐古自白の変遷

佐古の本件参加者に関する供述には、以下に述べるように不自然な変遷が見られる。

ア 供述状況

48・2・13員面 増渕、村松、佐古、前原、堀。井上、国井らはいたかもしれない。計五名(ないし七名位)。東薬大メンバーは意識が低いので除外した。

2・15Ⅰ員面 増渕、村松、佐古、前原、堀のほか石井が参加、計六名。

3・9Ⅱ員面 増渕、村松、佐古、前原、井上、江口、菊井、国井、石井。堀もいたかもしれない。計九名(ないし一〇名)。

3・26Ⅰ検面 増渕、村松、佐古、前原、井上、江口、堀、菊井、国井、石井の計一〇名。前林はわからない。

3・30Ⅰ検面 平野、内藤、前林も参加、計一三名。

4・1検面 同右

以上のとおり、佐古の供述する参加者は、後の供述になるに従い、次第に数を増し、当初五名(ないし七名位)と供述していたものが、最終的には一三名と約二倍に達しているのである。時日の経過による記憶の希薄化を十分に考慮しても、一三名のうち六名ないし八名もの存在を忘失し、また想起するというのはいかにも不自然であるばかりか、その想起の具体的なきっかけは明らかでなく、しかも例えば、最初、東薬大社研の者は除外されていた旨明言していたのに、後には、右除外理由に特に触れることもないまま右の者らの参加を供述するなど、右の供述の経過を、検察官が主張する(論告要旨四四三三五四一)ように、正しい記憶が次第に喚起されていった過程と見ることはできない。また、同じく検察官が主張するように、これを、当初佐古が隠し立てしていたところ、取調官の追及により隠し切れなくなったため、明らかにしていったものと見ることも困難である。佐古が自白を決意しながら、なお、当初供述しなかった者たちだけを特にかばい立てすべき理由が見当たらないからである。次項以下において、更に立ち入って検討する。

イ 平野及び内藤の参加

佐古は、前記のとおり、当初、東薬大社研メンバーは、L研メンバーに比べ、闘争意識が劣っており、製造メンバーに加えれば(秘密が)漏れる虞があったので除外した旨明確に述べていたのに(48・2・13員面)、48・3・30Ⅰ検面に至り、突然、平野及び内藤の参加を認め、両名が河田町アジトに現われた状況について具体的かつ詳細に供述するに至るのである。ところで、同検面によると、佐古は、平野の参加はともかく、内藤の参加については解せなかった旨供述しているのであって、内藤の河田町アジトへの出現、製造への参加が佐古にとって意外であり、その意味で印象的であったことが窺われるのである。その点を考えると、佐古は48・2・13員面で東薬大社研メンバーの参加の有無について供述した段階で(あるいは遅くとも、48・3・9Ⅰ員面において、東薬大社研メンバーの個々のメンバーにつき評価を試みている段階で)、平野及び内藤の参加を想起して然るべきであり、もし、佐古がその段階でも真実右両名の参加を想起していなかったのであれば、むしろ、右参加の事実自体の存在が疑わしいように思われる。逆に、佐古が、そのころ、右両名の参加を想起していながら、わざと隠していたと考えることは、佐古において、右両名をことさらにかばいだてしなければならない理由も見当たらないから困難である。

結局、佐古が48・3・30Ⅰ検面で、突然、右両名の参加を述べるのは、事実の自然な想起によるものではないかとの疑いを免れない。

ウ 堀の参加

佐古は、当初、堀が参加していた旨明言し、その理由につき、「爆弾の起爆力やダイナマイトの爆破力を高めるために堀の薬品の知識を利用しようと考えた」(48・2・13員面)とか、「雷管が不足していたので、雷管に代わるものを火薬や薬品でできないか、薬品の取扱いを知っている堀に相談しようと考えた」(48・2・15Ⅰ員面)と具体的に供述しながら、48・3・9Ⅰ、Ⅱ員面で薬品知識のある江口の参加を認めると、堀の参加が曖昧になり、48・3・26Ⅰ検面において、再び、堀は、増渕、江口と一緒に来て、江口とともに薬品の調合をしていた旨確言するのであって、右の供述の変遷もまた、かなり不自然な趣を呈するとしなければならない。

エ 前林の参加

前林については、当初、佐古はその参加を述べず、48・3・26Ⅰ検面においても、参加していたかどうかは思い出せない旨供述していたのに、48・3・30Ⅰ検面に至り、突然、前林は参加していた旨述べるのである。同検面において、佐古は、それまで前林の名前を挙げなかった理由につき、「前林が来たときの状況がはっきりしなかった上、爆弾の製造なので女性の名を挙げたくなかったし、自分自身前林に少し惚れていたところもあり、かばう気があったからである」旨供述するが、同検面においても、前林が河田町アジトに来た際の状況は依然として明確にはされておらず、また、女性であるからかばったという点は、同じく女性であるのに、江口、石井については、既にその名を挙げていたことと矛盾する。更に、前林に好意を持っていたためかばったという点については、佐古は、アメリカ文化センター事件に関し、設置すべき爆弾が江口方アパートから搬出され、佐古の運転する車両に積み込まれたと供述するに際し、江口に個人的好意を持っていたため、それまでこの事実を隠していた旨右と同様の弁解をしていたことがあるところ(48・2・17員面)、右搬出についての供述についてはその信用性に疑問があること(第六章二2(二)(2)エ参照)に照らすと、前林に対する好意に絡めて述べるところも必ずしも額面どおりには受け取り難く、結局、前林の名前を挙げなかった理由についての佐古の供述はあまり説得力のあるものとはいえない。

オ 佐古の弁解

以上のとおり、佐古の参加メンバーに関する供述の変遷は不自然であるとしなければならないが、佐古は、この点につき、「昭和四八年二月一二日から製造事件について追及を受け始めたが、当初、参加メンバーを増渕、村松、前原、堀と自分にしたのは、取調官から、河田町アジトで爆弾を製造したことを前提に、爆弾製造は性質上秘密に行われなければならないからL研の幹部だけでやったのだろうと言われ、増渕と村松の二人の名前をあげたところ、河田町アジトでやる以上、前原を入れないと前原が不審に思うだろうと言われ、前原についても認めた。その後、薬品の調合役が必要だと追及され、薬品に詳しいということで東薬大のメンバーを考えたが、当時東薬大のメンバーについては秘密が漏れるような意識の低い人間達であるという判断があったので、この者たちは参加しないだろうと思い、すると、当時薬品に少し詳しかったのは堀くらいかなと考え、堀の名を挙げた。これが当初の供述である。その後、同月一五日に、住吉町アジトにおける謀議を認めてしまったことから、同アジトに村松と同棲していた石井の参加も認めざるを得なくなってしまった。しかし、石井はとても爆弾製造をするようには思えなかったので、直接的な製造作業をしたことにはせず、レポくらいならやるかもしれないと考えて、その旨供述した。同年三月七日前後から、『爆弾製造に江口が関与していたらしい。江口の行動を前原はよく覚えているが、佐古はどうして覚えていないんだ。前原は国井とか井上とか菊井なんかも関わっていると言っている』旨、前原が右四名の参加を認めていると取調官から追及され、結局、右の四名についても認めた。取調官からは、二月段階の供述について、『でたらめなことを言いやがって』と言われた。江口の参加を認めてしまったため、堀の存在理由がわからなくなり、一時堀については、参加の有無がはっきりしないと述べたりしている。その後三月二七日ころ、神崎検事から、内藤の調書を示され、『内藤が自分も加わったという調書をこれだけ作っているのに、佐古はどうして覚えていないんだ。何故隠し立てするのか』と言われ、内藤がどうして参加しなければいけないのか一寸納得ができなかったが、内藤が自分でやったというのなら、自分には記憶はないけれども、やっているのかもしれないという気持になり、内藤の参加を認めた。また、内藤は平野と一緒に河田町アジトに行ったと言っていると言われ、平野についても認めた。更に、前林については、そのころ前林が参加したと言う者もいるぞと警察官から言われていたが、認めていなかったところ、同月三〇日に検事から『もう、他のほとんどの者が前林がいたと述べているのに、佐古が認めないのは何か理由があるのか』などと追及され、検事の心証があまりよくないという感じがしたので、認めておいた方がいいのではないかと判断して、前林の参加も認めた。当初、警察官は秘密保持の関係で製造参加者は小人数と言っていたが、人数が増えた段階では『増渕は、活動から逃れないようにするために、皆を爆弾に関わらせたんだ。増渕は汚ない野郎だ』などと説明していた」と述べる(五八回佐古供述六五四四、一一五回④九一五、九五三)。前原は、48・3・9員面においては、製造参加者として国井の名前は挙げていないなど、佐古の右弁解には客観的事実と相違する部分もないではないが、前記のような不自然な供述の変遷に照らし、これを一概には斥けることはできないように思われる。

(4) 内藤自白の動揺

内藤の製造参加者に関する供述は、石井、元山及び富岡について、不自然に動揺する。すなわち、内藤は、当初から、石井については参加していた旨明言し(48・3・10員面、48・3・19検面等)、また、元山、富岡についても、当初はその存在を述べていなかったものの、48・3・23検面において、右両名が参加していたと思う、両名が完成した爆弾を部屋の隅に運んでいた旨具体的に述べ、更に、48・3・25員面においては両名の存在を断定し、両名の行動についてより詳細に供述していたのに、48・4・7員面に至り、「これまではっきりしていないことまではっきりした記憶のように話した点がある。石井、元山、富岡はいたと思うが確信は持てない。元山か富岡のどちらかがピース缶爆弾を二畳間の隅の方に運んでいることは間違いない」旨動揺を見せ、更に、48・4・9検面において、「元山、富岡については、一〇・二一東薬大における爆弾製造のときと混同しているかもしれない。河田町アジトには来ていなかったかもしれない」と述べ(石井については何らの供述もない。)、更に大きく動揺するのであって、右のような供述経過は各供述の信用性に大きな疑問を投げかけるものである。

(5) 菊井証言の問題点

ア 平野参加供述の三転

菊井は、第九四回公判冒頭においては平野が参加した旨述べながら(一三二六一)、同公判の中途において、「製造に参加していたかどうか断言できない」と供述を変え(一三三七三、一三三八七)、その後も、「いたと思うが、他の者と同じようにいたとは断言できない」と供述(九五回菊井証言一三四一四)していたところ、第一〇〇回公判以後再び平野は参加していた旨明言するに至り、その間の経緯につき、「記憶を整理していった過程で思い出した」(一〇〇回同一四二八七)とか、あるいは「当初はっきりしなかったが思い出した。製造時内藤のほかにもう一人別の人がおり、それが平野という感じ」(一五六回同三二八八九)と供述する。

そこで検討すると、平野の参加の有無に関し、供述が右のように三転すること自体、一個であるはずの真実を語るものとしてはまことに不自然である。第九四回公判冒頭における平野の参加を述べた証言はあるいは言い間違いである可能性もあるが(その後の証言に照らせば、むしろそのように判断すべきものとも思われる。)、その後、改めて平野の参加について記憶を喚起したとの点については、製造時の平野の具体的行動と結びつけて想起したというような手掛かりがあったのであれば格別(菊井はそのような証言はしない。一五六回菊井証言三二八九〇)、一〇年余を経過した時点において、突然何の手掛かりもなく思い出したということになるのであって、たやすくその想起を信用し難い。

ことに、既に述べたように、菊井は、昭和五四年六月から同年七月にかけ、中野刑務所において、検察官から集中的に事情聴取をされているにもかかわらず、その段階では記憶の喚起ができず、その後に至ってひょっこり思い出すことができたというのであるから、なおさらである。

イ 元山、富岡参加の変転

菊井は、九部57・9・2期日外尋問において、元山及び富岡について、参加していた可能性があると述べる一方、「パン屋の角から河田町アジトの玄関先までの間に女性などが何人か立ってぶらぶらしていなかったか」との質問に対しては、記憶していない旨否定していたのであるが(二七〇四〇)、第一五六回公判においては、元山及び富岡の参加の可能性があるとした上、その根拠として、「自分としては、レポから戻って来たときに、フジテレビ前の表通りから河田町アジトに入る狭い路地で誰か会ったような気がする。それがあるいは元山さんか誰かだったかもしれないという印象がある」旨明らかに異なる供述をしている(三二八八七)。ところで、同公判は九部期日外尋問の約半年後(昭和五八年三月二九日)に開かれたものであるが、各証言は、いずれにせよ事件後一二、三年経過した時点の証言であることを考えると、特段の事情もないのに、その半年の間に、新たに記憶が喚起されたものとは到底考えられず、菊井の右供述の変更は、真実への接近を示すものというよりは、その供述全体の真実性への疑問を深めるものというべきであろう。

4  爆弾材料及び使用器具

(一) ダイナマイト、工業用雷管及び導火線

(1) 入手

ア 自白の概要

この点に関する佐古、村松及び増渕の各自白並びに菊井の証言は次のとおりである。

佐古 謀議の際、増渕から村松と菊井に早稲田アジトにダイナマイト等を取りに行くようにとの指示があった。製造当日、村松、石井、菊井が連れ立って河田町アジトに来た際、村松がダイナマイト、工業用雷管、導火線の入った紙袋を持って来た。(48・3・26Ⅰ検面)

村松 製造の前日、ミナミで増渕から指示を受け、井上と二人して早稲田アジトに赴き、花園から新聞紙に包んだ物(縦一〇センチメートル、横二〇センチメートル、厚さ四センチメートル)を受け取り、ミナミに戻って増渕に手渡した。その後、増渕らと河田町アジトに行き、同アジトで右包みを解いたところ、ダイナマイト二〇ないし三〇本位(長さ二〇センチメートル位、直径二センチメートル位)、雷管(長さ五センチメートル位)何個か、導火線一メートル余が入っていた。(48・3・24検面)

増渕 自分の指示により、村松と井上が早稲田アジトからダイナマイト、工業用雷管及び導火線を持って来た。(48・3・23検面)

菊井証言 ミナミ謀議の際、増渕の指示で、村松、前原ほか一名くらいがダイナマイトを早稲田アジトに取りに行った。雷管とか導火線についてははっきりしないが、おそらくダイナマイト等と一緒に持って来たものと思う。(九五回菊井証言一三四一六等)

これに対し、前原の自白は、「住吉町アジトでの謀議の際、村松が整理ダンスの引出しからダイナマイト(一〇本位)、導火線(二・二メートル)、雷管(片手のひらにのるくらい)を出し、どこからか簡単に盗んで来たようなことを話していた」というのである(48・3・28検面、48・4・6検面)。

イ 問題点

佐古、村松及び増渕の各自白並びに菊井証言は、前記のとおり、村松ほかが早稲田アジトにダイナマイト等を取りに行ったというものであって、大筋において一致しており、一見信用してもよいように思われるが、これらの各供述を子細に検討すると、以下のような疑問点に突き当たるのである。

(ア) 同行者

村松に同行し、早稲田アジトに赴いた者について、村松及び増渕の両名の各自白は一致するものの、佐古自白及び菊井証言はそれぞれ相違する。佐古は、村松に同行した者として菊井の名を挙げるが、菊井が関与しているのであれば、菊井はその旨証言するものと考えられ(本公判における立場上、菊井がその点について、故意に隠し立てすることは考えられない。)、その意味で、佐古の右供述の信用性については疑問がある。また、菊井は、同行者を前原外一名位とするが、前原は前記のように供述し、前原自身がダイナマイト等の入手に赴いたとは述べない。仮に前原がダイナマイト等の入手に赴いたのであれば、前原にとって極めて印象的な出来事であったはずであって、その点につき記憶が混乱することは考え難く、他方、前原が、爆弾製造を自白し、かつ、爆弾材料の一であるパチンコ玉の調達については自己の関与を認めていたことに照らすと、ことさらダイナマイト等の入手についてのみ隠し立てをするというのもその必要性に乏しく不自然であり、結局、菊井のこの点に関する供述の信用性には疑問が残る。もっとも、佐古及び菊井は、いずれもダイナマイト等を持って来るのを現認したというものではなく、ただその指示を聞いただけに過ぎないことを考えると、両名の思い違いあるいは記憶の混同による供述である可能性も否定できない。

村松は、自らダイナマイト等の早稲田アジトからの持ち出しに関与したというのであって、仮にそれが事実であれば、同行者等ダイナマイト等の持ち出しの状況に関する記憶を最もよく保持しているものと考えられ、かつ、これは、増渕の自白とも符合しているのであるから、その意味では、井上とともに取りに行った旨の供述の信用性を肯定してもよいように思われるが、他方、村松の供述態度については、既に第六章及び第七章で検討して来たように相当の問題があり、ピース缶爆弾製造事件の取調に至って、その供述態度を改め、真相を吐露する態度に出たものとは考え難く、増渕についても、その点は同様である。村松及び増渕の右の点に関する自白を信用するとすれば、それは、供述に虚偽を混入させている虞があって、検察官もその信用性に疑問を呈する右両名の自白のみが真実を語っていたとすることになるわけで、いささか不自然ではなかろうか。

(イ) 帰着時同席者(付、包みの大きさ)

村松は、前記のとおり、製造前日、早稲田アジトから新聞紙に包まれたものを河田町アジトに持ち込み、同アジトにおいて包みを開きダイナマイト等を見たが、その際、増渕、前原、佐古らも同席したと供述する。しかしながら、佐古及び増渕はこのような状況を全く供述せず、また、前原の自白は、前記のように、住吉町アジトにおいて、ダイナマイト等を目撃したというものであって、大きく相違するが、これらの供述の不一致は、その供述内容に照らし、記憶の混同によるものと見ることはできず、村松の右供述の信用性には疑問がないではない。

なお、いささか細部にわたるが、村松は、縦一〇センチメートル、横二〇センチメートル、厚さ四センチメートルの新聞紙包みの中に、長さ二〇センチメートル、直径二センチメートルのダイナマイトが二〇ないし三〇本位の外、雷管や導火線が入っていたというけれども、村松が述べる量のダイナマイトが入っていたのであれば、新聞紙包みは少なくとも二倍以上の大きさであるはずであって、右供述自体に矛盾があることを指摘しておく。

(ウ) 前原自白と早稲田アジト

前原の自白は、前記のとおり、住吉町アジトでの謀議の際、ダイナマイト等を目撃したというものであって、佐古、村松及び増渕の各自白並びに菊井証言と大きく相違するが、前原の右自白は、目撃した際の描写が極めて具体的で、かつ、住吉町アジトにおける導火線燃焼実験とも結びついているものと思われ、簡単にこれを記憶違いとすることはできない。また、菊井は、前原が村松らとともに早稲田アジトにダイナマイト等を取りに行った旨供述しており、前原はその点を隠すためことさら虚偽の事実を述べているのではないかとの見方もあり得ようが、(ア)に述べたところからすればその可能性はほとんどない。

結局、前原が早稲田アジトからのダイナマイト等の入手について述べないことには大きな疑問があるとしなければならない。

(2) 入手先

仮に、村松らが早稲田アジトにダイナマイト等を取りに行ったものとしても、これらのダイナマイト等が、更にそれ以前、どこから、どのようにして入手されたものかについては、この点に触れる増渕及び佐古の自白に次のような問題があり、他に確たる証拠がない。

ア 増渕の自白

増渕のこの点に関する自白は、「一〇月中旬ころ、前田からダイナマイト窃盗のため兵隊を出してもらいたい旨依頼を受け了承した。その後どこからどのようにしてダイナマイト等を盗んだのかは知らないが、一週間位後、前田からダイナマイトを入手した旨聞いた」というものであるが(48・2・21検面)、具体性に欠けるとともに、裏付けもない。

イ 佐古の自白(三二八条書面)

佐古のこの点に関する自白は、「一〇月中旬ころ、増渕、花園、前田と一緒にレンタカーで青梅に行き、増渕ら三名がダイナマイトを盗んで来た」というものであり(48・1・20員面。なお48・2・13員面参照)、一見増渕自白に似ているが、増渕が参加したと述べる点で増渕自白と相違する。なお、佐古の右48・1・20員面は刑事訴訟法三二八条書面及び供述の経過を立証趣旨とする証拠物として取調べたものであるから、積極的事実認定の用に供し得ないことはいうまでもないが、右の限度で考えてみても、右供述についてなされた引き当たり捜査は成功せず、右盗取行為に相当する被害の届出もなく、右レンタカーの借り出しについての裏付けもないというような事実は注目に値するといわなければならない。

(3) 製造現場における目撃状況

ア 菊井証言

(ア) 証言の概要

菊井は、製造当日河田町アジトにおいて目撃したダイナマイトの状況につき、「製造開始に先立つ増渕の指示より前に、包装紙を剥いだ裸のダイナマイト三〇本位がパンの木箱を裏返しにしたその上に何段かに積まれていたのを見ている。ダイナマイトは切ってあった」旨証言するが(九九回菊井証言一四〇六五、一四一二一、一五六回同三二八九五等)、右証言については、以下に述べる問題点が存する。

(イ) 「木箱の上のダイナマイト」

菊井は、前記のとおり、裸のダイナマイトがパンの木箱を裏返しにしたその上に積まれていたと証言し、その様子を図面に作成しているところ(九九回菊井証言一四〇七四、一四一二五。右図面は木箱の上に三二本のダイナマイトが三段に横積みされているものである。菊井は、ダイナマイトの本数は適当に描いたもので正確ではないとするが、この点に関する菊井証言は、爆弾製造に使用されたダイナマイト全量が木箱の上に積まれていたとのニュアンスが強く、かつ、その後、三〇本ほどあったと明言する。)、右図示されたような光景は、印象的であって、記憶に残りやすいものと考えられるが、菊井を除いては、そのような光景を供述する者はいない。爆弾製造を自白していた者については、その点を隠し立てする理由は何ら見当たらず、菊井のみがそのような光景を証言するのはいささか不自然である。

(ウ) 包装紙の有無

菊井証言は、「製造作業開始前に木箱の上に積まれていたダイナマイト三〇本位はすべて包装紙が剥がされ、裸であった」というものであって、その後のピース缶への充填(あるいはダイナマイト切断)作業のための準備が整えられたと解すべき状況を供述するのに対し、佐古及び前原の各自白は、製造作業開始後、ダイナマイトの包装紙を剥がしたというものであって(佐古48・3・26Ⅰ検面、前原48・3・16検面、48・3・28検面)、相違する(なお、この点に関する内藤自白((48・3・23検面))は、製造作業中包装されているダイナマイトを目撃しているというのであり、また増渕自白((48・3・23検面))も、製造開始前に、爆弾の作り方として、ピース缶にダイナマイトを裸にして入れると説明したというものであって、いずれも佐古及び前原自白に近いものといえよう。これに対し、村松自白はこの点に関し明確には述べていない。)。

そこで考えるのに、製造開始に先立って、ある程度のダイナマイトというのであれば格別、三〇本もの相当大量のダイナマイト(前記のとおり、菊井証言は、爆弾製造に供されたダイナマイト全量であるとのニュアンスが強いものである。)について、予め包装紙を剥がしておく(更には、切断しておく)のは疑問であり、製造手順としては、むしろ佐古あるいは前原が述べるように、製造作業を開始して後、順次必要な数だけのダイナマイトの包装紙を剥がし、切断して(もっとも、佐古は切断したとは述べないが、その点は後述する。)、一つ一つピース缶に充填する方が普通のように思われる。

加えて、本件ピース缶爆弾に充填されていたダイナマイトは旭化成製新桐ダイナマイトで、昭和四四年当時はナフタリンが含有されており、包装紙を剥いで裸にするとナフタリン臭がしたというのであって(旭化成化薬事業部長57・7・15回答二五五七五ないし二五五八九、九一回吉富宏彦証言一二三九〇)、菊井が証言するように大量のダイナマイトが裸にされていたというのであれば、強いナフタリン臭が感じられたのではないかと思われるが、菊井を初めとして、そのような匂いについて述べる者が誰もいないのはやや不自然であり、現実体験の不存在を疑わせるものである。

(エ) 「商標」

菊井は54・7・10「ピース缶爆弾等略図」と題する書面(菊井54・7・10検面に添付されていたもので、弁護人の請求により、その写しを独立文書として取調べたもの。一六八七二)に、ダイナマイトとして円筒形のものを図示した上、「本体は紙で包装してあり、商票(「商標」の誤記と認める。)が印刷してあったが詳細は忘れた」と注記しているが、右略図及び注記は、昭和五四年六月一四日から同年七月一〇日にかけて、検察官から事情を聴取された過程で、爆弾製造の際目撃したダイナマイトの状況として図示されたものと認められるところ、菊井証言によれば、菊井がこれまでダイナマイトを目撃したのは本件ピース缶爆弾製造のときだけであって、ダイナマイトが包装された状態のものは見たことがないというのであり、矛盾が存する。菊井は、この点につき、「右略図を作成したのは記憶が十分喚起されていない段階であるが、その段階では包装紙の存否ははっきりわからなかったので、包装紙があったかもしれないが、商標とかについてはわからない旨注記した。しかし、その後ダイナマイトが裸であったという記憶が喚起されたので、54・7・10検面の本文ではその旨の供述が録取されているが、略図の方は訂正をし忘れて、そのまま添付してしまった。単純なミスである」旨弁解するが(一〇一回菊井証言一四三六〇)、右略図に対する注記の文言は前記のとおり、包装紙の存在、商標の存在について断定的なもので、右弁解とは異なり(もっとも、その点については、その直後ニュアンスが異なる旨指摘され、「図面を作成した当時は紙がついていたという感じの方が強かったということだと思う」旨供述を訂正しているが、右訂正された供述を前提にしても、注記の文言は断定的に過ぎ、不自然である。)、また前記のような木箱の上に積まれた裸のダイナマイトというのは印象的であって、その意味では包装されていたか否かについて記憶の混乱を生じることは少ないのではないかと考えられ、かつ、そもそも包装された状態を見たことがない者が、商標が印刷してあった光景まで思い浮かべるというのはまことに奇妙としか言いようがなく、右弁解は必ずしも十分に納得のいくものではない。

(オ) ダイナマイトの切断

菊井の証言は、目撃したダイナマイトの切断の有無に関し、不自然に変遷する。

菊井は、第九四回公判においては、製造作業開始前にダイナマイトを見た状況について述べていなかったが、第九九回公判に至り、「レポに出る前からはっきりしないが切ったダイナマイトもあったような気がする」(一四〇九三)、「少し短いのもあったような気がする」(一四一二一)と述べ、九部57・9・2期日外尋問においては、「製造作業の指示を受ける前に見たダイナマイトは切ったものもあったし、長いものもあった。全部が全部切ってあったわけではない」(二六九二九)、「切ってあったものは、大体半分位の長さに切られていた」(二六九三二)旨述べるに至り、第一五六回公判においては、「最初集まった段階で木箱の上にあったダイナマイトは、現在の記憶では切られていた。大体どのくらい切られていたかははっきりしない」(三二八九五)旨供述を変更する。以上の供述の変遷を、記憶が喚起されていった過程と見ることはできないし、他方、菊井は、「製造開始に先立って増渕からダイナマイトの切断について指示があった」旨述べ(九四回菊井証言一三三七五)、あるいは「レポに出る前、誰かがダイナマイトを切る専用に包丁一本を購入しようと言った」「レポの途中、一回目に河田町アジトに戻ったとき新品の包丁を見た」旨述べる(九部57・9・2同二六九三七、一五六回同三二八九六)など、レポ前にダイナマイトが切断されていた旨の前記供述と相容れない供述をしているのであって、その意味でも右供述の変遷には疑問がある。

(カ) 包丁

右に関連して、菊井は、前記のとおり、製造作業開始前河田町アジトに集合した際、河田町アジトにあった包丁をダイナマイトの切断に使用して再び炊事用に使用するのは気持が悪いということで、包丁を購入しようとの意見が出、その後レポ途中一回目に河田町アジトに戻った際、新しい包丁を見たと供述するところ、菊井証言は製造作業開始前に目撃したダイナマイトの状況については前記のとおり動揺するが、いずれにせよ一部は切断されていたとするのであって、このことは、すなわち河田町アジトに以前からあった古い包丁が右切断に用いられたものであることを意味するはずである。そして、一旦古い包丁を使用した以上は、これをダイナマイトの切断専用に用いれば足りるのであり、炊事用には新しい包丁を別途購入するのが通常であろうし、それならば爆弾製造作業という緊迫した状況下で新しい包丁を急いで購入する必要性は毫も存しないのであって、その意味で、新しい包丁の購入を強く窺わせる前記菊井証言には疑問がある。

また、菊井の外に包丁の購入を述べる者がいない点も、右証言の信用性を減殺する方向に働くものである。

なお、弁護人は、本件ピース缶爆弾に充填されたダイナマイトは包丁で切断されたものではない旨主張し、その観点からしても菊井証言は、信用できないとする(最終弁論四〇五三三九九三)。そこで、弁護人が指摘する徳永勲外一名48・1・8鑑⑦一六〇一添付の写真中、四及び五によって、アメリカ文化センター事件に使用されたピース缶爆弾に充填されたダイナマイトの形状を検するに、写真五に写されているダイナマイト塊の下方部分(この部分は、写真四の向かって左側から写されていることになる。)には、包装紙によるダイナマイトの端の部分の包装の痕跡と認められるものがそれぞれ存し、これらが切断前のダイナマイトの両端を形成していたこと、従って、写真四に写されたダイナマイト塊の向かって右側の部分が切断面を示すものであることが認められるが、一見しても、右切断面の形状は、包丁で切断されて生じたものと見るのは困難である。その意味で、弁護人の右主張には相当の根拠がある。しかしながら、アメリカ文化センター事件を除くその余のピース缶爆弾に充填されたダイナマイトの切断部分の形状が証拠上明らかではないので(弁護人は、德永勲44・12・13鑑一二二三五添付写真を指摘し、中野坂上事件に使用されたピース缶爆弾に充填されたダイナマイトについても同様である旨主張するが、右写真のうち、四のものは写されている部分に包装痕があって、切断面でないことは明らかであり、二、三のものも、写されている部分が切断部分であるか否かが明瞭とは言い難い。)、本件ピース缶爆弾に充填されたダイナマイトがすべて包丁で切断されたものではないと断ずるには至らない。

イ ダイナマイトの大きさ

目撃したダイナマイト一本の大きさについて、佐古らの供述は次のとおりである。

佐古 全長約一三センチメートル、直径約二センチメートル(48・3・26Ⅰ検面等)

前原 全長約二五センチメートル、直径三、四センチメートル(48・3・16検面)

村松 全長約二〇センチメートル、直径約二センチメートル(48・3・24検面)

内藤 全長約一七、八センチメートル、直径約三センチメートル(48・3・23検面、48・3・21員面)

増渕 全長一五センチメートル位、直径二、三センチメートル(48・3・22員面)

菊井 全長約一三センチメートル、直径約二・三センチメートル(九九回一四〇七四)

以上のとおり、この点に関する各供述には、かなりの食い違いが見られるが、本件ピース缶爆弾のダイナマイトは、既に認定したように、一本約一〇〇グラムのダイナマイト二本をそれぞれ約半分の長さに切るなどして充填し、缶内に空間部が生じないよう押し拡げたものであって(ダイナマイト一本の全長、その直径については、旭化成化薬事業部長57・7・15回答二五五七五ないし二五五八九及び包装紙によるダイナマイトの両端部分の包装状況の跡を示すものと認められる德永勲外一名48・1・8鑑⑦一六〇一によれば、本件ピース缶爆弾に充填されたダイナマイトは機械包装されたものであって、ピース缶の深さ及び内径に照らし、全長一六・二センチメートル、直径二・五センチメートルか全長一二センチメートル、直径三センチメートルのいずれかであると推認される。)、爆弾の製造現場におり、その構造を現認した者にとっては、ピース缶の深さ及び内径とダイナマイト一本の全長及び直径との相関関係につき、記憶を喚起しやすいのではないかと考えられる。その意味では、右の各供述にはバラつきがあり過ぎるようにも思われ、特に、前原が供述するところによれば、その長さ、直径に照らし、ピース缶内に到底充填し得ないことになろう。

ウ 導火線の長さ(菊井証言)

製造当日目撃した導火線の状況(長さ)について、菊井証言は不自然に変遷する。

(ア) 菊井証言の変遷

菊井は、製造当日河田町アジトで目撃した導火線について、第九四回公判においては、「短く切った導火線が何本かあった」と述べ(一三三七七)、第九九回公判においては、目撃した導火線として約一〇センチメートルの長さのものを図示し、「こんな感じだった」と供述(一四〇八一、一四一二八)していたのに、九部57・9・2期日外尋問において、突然、「導火線はぐるぐる巻きではなく、ある程度長いものである。適当な長さに雑然と切ってあって、長いのも短いのもあったという感じ。均一の長さというわけではない」(二六九九一)、「長いのは三〇センチくらい、短いのは一五センチくらい」(二七〇四三)と供述を変更し、弁護人からその点を追及され、「これまで(も)長いものとか、短いものという供述をしている」「今の記憶としては長いものも短いものもあったということである。今、裁判官から質問されて思い出した」と述べ(二七〇六六)、更に、第一五六回公判においては、「長いのもあれば短いのもあり、割と不揃いという位の記憶しかない。短いものは一〇ないし一五センチメートル、長いものは二〇ないし三〇センチメートル」と供述する(三二八九九)。

(イ) 想起の契機

菊井が裁判官の質問で思い出したと供述する点は、昭和五四年の検察官による事情聴取あるいはそれに引続く公判廷での証人尋問の過程でも思い出されなかったものが、その約三年後の時点(体験後約一三年が経過していることになるはずである。)において、記憶が喚起できたというもので措信し難く、その供述内容に照らしても右の供述の変遷は不自然である。

(ウ) 証拠物との関係

更に、本件ピース缶爆弾に装着された導火線の長さは、前記第四章一4(三)に認定したとおり、元来おおむね一二ないし一三センチメートルであったと認められ、菊井が最終的に述べる「長いものは二〇センチメートルから三〇センチメートル」というのは、客観的事実に符合しない。もとより、菊井が供述するところの「長いもの」については、その後切断されたということも考えられようが、そもそも導火線は、渦巻状に隙間なく巻かれたものであり、これから切り取る以上は、ピース缶爆弾に装着使用する長さを考え、ほぼ一定の長さに切り揃えるはずであって、雑然と長さをバラバラに切り取る必要は全くないし、かえって無駄であるということができ、その意味でも菊井証言には疑問があるといわざるを得ない。

(二) ピース缶

(1) 入手

ア 自白の概要

本件爆弾に用いられたピース缶の入手方法に関する被告人ら及び共犯者とされる者らの自白は次のとおりである。

佐古 爆弾製造の話が出るまでに、各アジトに一、二個位のピース缶は用意してあったが、足りないので、占拠中の大学に行き、具体的には、自分と前原が東薬大方面に行き、井上と国井は早大、立大方面に行き、それぞれ集めて来るよう増渕から指示があった。指示後、前原と二人で東薬大に行き、社研メンバー二、三名に頼んでピース缶を集めさせ、一、二個入手して河田町アジトに持ち帰った。(48・3・26Ⅰ検面、48・2・13員面等)

前原 ピース缶は全員で手分けして集めることとされ、石井、佐古その他の者が少しずつ河田町アジトに持ち寄った。(48・3・16検面等)

村松 製造当日増渕から指示されていたピース缶一個を持って河田町アジトに行った。(48・3・15員面。但し、その後の検面では同旨の供述はない。)

増渕 ピース缶は皆であちこちから集めた。(48・3・23検面等)

菊井証言 以上のとおり、佐古、前原及び増渕の各自白は、ピース缶は手分けして持ち寄ったというものである(村松の自白も同旨とみてよいであろう。)のに対し、菊井の証言は「ピース缶十何個かのうちいくつかは、製造当日か前日かは知らないが、誰かが河田町アジト近くの煙草屋でまとめて買ったという話を聞いた。あと数個くらいはどこか別のところから探してきたのではないか。自分達に対しても、ミナミ謀議の席上、増渕から心当たりがあれば集めておいてくれとの指示があったので、早大とか東薬大に集めに行ったものがあるかもしれない」というものである(九四回、九五回菊井証言一三三七九、一三四一八、九部57・9・2同二七〇三五等)。

イ 佐古自白の問題点

佐古のピース缶の入手に関する供述は具体的であって、記憶の混同があるとは認め難いが、大学毎に収集要員を決めたと供述する点は、佐古の外誰も述べる者が無く、また東薬大へ前原と同行したと供述する点も、前原自身は述べない。また、佐古は東薬大社研メンバーを介してピース缶を集めたとするが、第三者ことに佐古自白によれば闘争意識の低いとされる社研メンバーにピース缶を集めさせれば、後日ピース缶爆弾に関する報道等がなされた場合に、当該社研メンバーからさかのぼって不審を抱かれる素地を残すこととなり、そこから発覚する虞もあることを考えると、その点を顧慮しなかったかの如き右佐古供述にはやや疑問がある。

ウ 製造番号

前記第四章一4(四)のとおり、本件ピース缶爆弾のうち八個については、ピース缶の缶番号が判明しており、うち五個が「9S171」、二個が「9T211」、他の一個が「8W281」であって、これらはピース缶の製造年月日及び製造場所を示すものであるところ、佐古、前原及び増渕の各自白のように、缶入りたばこを購入することなく、空き缶だけを手分けして集めたのであれば、右のように缶番号が一致することは確率論的には到底考えられず、かつ、たばこを購入せずに缶だけを十数個も集めてくることは一般に困難ではないかと考えられることに照らすと、右ピース缶については、ある程度一括して購入されたものと認めるのが合理的である。その意味で、佐古、前原及び増渕(更に村松)のこの点に関する各自白の信用性には疑問がある。

エ 「まとめ買い」と菊井証言

これに対し、菊井証言はウに推認した事実と符合するものである。しかしながら、ピース缶が何個かまとめて購入されたものではないかとの観点は、菊井証言によって初めて明らかになったというものではなく、つとに、弁護人が第七六回公判において右観点から前原に対し質問しているほか、仲間内に缶入りピースを喫煙している者がいるというのであれば格別(菊井はそのような者はいなかった旨証言する。)、一般にピース缶の空缶だけをまとめて入手することは困難であろうことに思いを致せば、購入によるピース缶の入手ということは比較的簡単に着想できるのではないかと考えられ、菊井証言のこの点の符合を過大に評価することはできない。

(2) 製造現場のたばこ

ア 菊井証言の概要

菊井は、右(1)に関連して、「製造当日河田町アジトでパンの木箱の横に紙が敷かれ、その上に買ってきた缶入りピースの中味(たばこ)が置いてあった。両手でお椀を伏せた形を作ったのより少し多めくらいあった」と供述し、これを横から見た形として、直径約一六センチメートルの半円形様の図を、上から見た形として長径一八・五センチメートル、短径約一二・五センチメートルの楕円形様の図を、それぞれ図示している(九四回、九五回菊井証言一三三七九、一三四一九、九九回同一四〇八八、一四〇九〇、一四一三三、一四一三四等)。右証言は、(1)の菊井証言すなわち缶入リピースの購入の事実を強く裏付けるものであって、菊井もその点を十分認識して証言しているものと認められる。しかしながら、右たばこの目撃に関する菊井証言には次のような疑問がある。

イ 喫煙の有無

菊井は、右に関連し、当初、「積んであったたばこを取って吸ったことがある」(九四回菊井証言一三三八〇)とか、「室内にあったものを何本かもらって喫煙したことがある」(九五回同一三四二〇)とか、製造当日河田町アジトの室内で喫煙したと認めるべき趣旨の供述をしていたのに、九部57・9・2期日外尋問においては、「製造当日皆でピースを分けたことはない。少なくとも自分はもらっていない。ただし、他の日だったかもしれないが、河田町アジトにたくさんあったので、何本かもらって吸った記憶がある」(二六九八五)、「自分がたばこをもらって吸ったと(証言したと)いうのは、製造当日という趣旨ではなかったと思う」(二六九八六)などと供述を変更した上、更に、「今は、当日かどうかはよく覚えていないが、後日だったかもしれないが、河田町アジトにあったピースをもらって吸ったという記憶はある」「製造しておるときに吸ったという記憶はない」(二七〇六七)、「今の記憶では製造したあと、バラで残っているたばこを適当にもらって若松町アジトへ持ち帰って吸った」(二七〇九一)と供述が動揺する。

右のような供述の変遷あるいは動揺はかなり奇妙であって、その理由につき弁護人は「ダイナマイト、塩素酸カリ等危険物を扱っている室内でタバコを吸うことの不自然さを考えたものではないか」と推測するが(弁論要旨四一七三三九九九)、その可能性は否定できないように思われる。

ウ たばこの量と図示の不自然さ

菊井証言は、ピース缶十数個のうち大部分は中味のたばこごと購入したとの趣旨に理解されるものである。しかし、菊井は、製造当日河田町アジトで目撃したたばこピースの量については、数十本と供述し(九四回菊井証言一三三八一)、あるいは前記のような図(一四一三三、一四一三四)を作成するのであるが、図示されたところは、ピース缶の大きさと対比してみても、たかだか一五〇本程度(缶入りピース一個は五〇本入りであるが、その三個分に相当する程度)あるかないかの量に過ぎないと思われ、いずれにせよ十数個の大部分を購入したその中味にしては少な過ぎる。

更に、紙巻きたばこは、そのように意識して積み重ねない限り、菊井が図示するような形状にはならないことも、菊井証言の不自然な点として指摘されよう。

エ 同旨供述の不存在

菊井が供述するように、製造当日河田町アジトにおいてたばこが積まれていたのであれば、それは印象的な光景で、記憶に残りやすいと考えられるし、少なくともピース缶の入手方法を考えれば、容易にそのような光景を思い出せるはずであるが、製造当日河田町アジトに入ったことを自白する佐古、前原、村松、増渕、内藤、江口及び石井はそのような光景を全く供述しない。これらの者が故意に隠し立てすることは、爆弾製造自体を認めている以上、その必要性に乏しく、また、これらの者全員が隠し立てをしていると解するのもそもそも疑問である。

オ まとめ、

以上のとおり、製造現場で大量のたばこを目撃した旨の菊井証言には、看過し難い疑問点があり、それはひいてピース缶を購入したと聞いたとする前記(1)アの証言の信用性にも疑いを投げかけるものである。

(三) パチンコ玉

(1) 入手

ア 自白の概要

本件爆弾の中に充填されているパチンコ玉の入手に関して、被告人ら及び共犯者とされる者らのした自白並びに菊井の証言したところは次のとおりである。

佐古 製造当日の午前中、前原と新宿のパチンコ店に行き、パチンコ玉を取って河田町アジトに戻って来た。(48・4・2検面、48・4・17検面)昭和四八年三月三一日実施の現場引き当たりにおいて、右パチンコ店として新宿ゲームセンターを指示(八回好永幾雄証言④八六四)

前原 住吉町アジトにおける謀議の日かその翌日かははっきりしないが、佐古と新宿三越裏角のパチンコ店「新宿ゲームセンター」に行き、一〇〇円ずつそれぞれ五〇個のパチンコ玉を買い、自分は少しはじいて一〇〇個ないし一五〇個に玉を増やし、佐古はその間落ちている玉を拾い集めていた。結局自分が一〇〇ないし一五〇個を、佐古が五〇個位をポケットに入れ、河田町アジトに戻って机の引出しにしまった。(48・3・28検面、48・4・1検面等)

村松 河田町アジトにおける謀議の際、増渕から井上に対し、パチンコ玉を入手するよう指示があった。(48・3・24検面)

増渕 パチンコ玉は前原が持って来た。(48・3・23検面)

菊井 製造当日増渕の話が始まる前の雑談している段階で、前原か佐古から、「パチンコ玉を取って来いと言われ、二人して新宿の方のパチンコ店に行って来た。パチンコ玉を買ったが、それをはじいて遊んでしまったため、結局何百円も散財した。こんなことなら最初から玉だけ買ってくればよかったんだ」という話を聞き、自分はパチンコの本場の名古屋出身であるので、「それなら自分にやらせればよかったのに」というようなことを言った。パチンコ玉を取って来たのが製造当日なのか前日なのかは断言できない。(九四回菊井証言一三三八一、九部57・9・2同二六九一六、二六九二五、二七〇三五等)

以上のように、佐古及び前原のこの点に関する各供述は一致し、菊井証言も基本的に右両名の供述に符合するものである。

イ 新宿ゲームセンターの特定

既に第四章一1(二)(2)に認定したように、本件ピース缶爆弾に充填された「SGC」の刻印入りのパチンコ玉は、東京都新宿区角筈一丁目一番地(当時、現新宿三丁目二九番)所在のパチンコ店「新宿ゲームセンター」に備えつけられ使用されていたもので、佐古及び前原が入手先として供述するところは、客観的事実に合致する。もっとも、本件パチンコ玉が新宿ゲームセンターのものであることは、既に昭和四四年一一月段階で捜査機関に判明し(九回本図道雄証言⑤九三四)、新聞報道もされていたのであって((事)野口進58・1・24報二六五四四、羽柴駿58・3・7報三二六〇七等)、佐古及び前原の前記供述によって初めて明らかになったというわけではない。

ウ 問題点

のみならず、佐古及び前原の前記各供述並びにこれに符合するかの如き菊井証言には以下のような疑問がある。

(ア) 佐古自白の変遷

佐古の自白はパチンコ玉を入手した日時、場所及び同行者について不自然に変遷する。

48・2・13員面 製造当日の午前中、爆弾を作り始めたころ、急にパチンコ玉を入れるという話になり、村松か前原が河田町アジト近くのパチンコ店に取りに行った。

3・9Ⅰ員面 製造前日、住吉町アジトにおける謀議の際、村松がパチンコ玉の充填を提案し、すぐに村松と一緒に同アジトから徒歩二〇分くらいの明治通りと大久保通りの交差点角にあるパチンコ店に行き、村松が二〇〇円で玉を買い、二人で分けて同アジトに持ち帰った。村松は少しはじいたかもしれない。持ち帰ったパチンコ玉は一〇〇個である。

3・26Ⅰ検面 同右

3・31引き当たり 新宿ゲームセンターを指示

4・1員面 製造日の午前中、河田町アジトから前原と新宿三越裏の新宿ゲームセンターに行き、一〇〇円ずつ玉を買い、持ち帰った。前原は少しはじいたような気もする。

4・2検面 自分の記憶では爆弾製造の前日村松と一緒にパチンコ玉を買いに行き、更に製造当日の午前中前原と新宿のパチンコ店に出かけ、パチンコ玉を買って河田町アジトに戻ったと思うが、村松と一緒に行ったというのは記憶違いかもしれない。

4・17検面 パチンコ玉は前原とわざわざ新宿のパチンコ店に行き、取って来たのを覚えている。村松と入手しに行ったというのは誤りである。

爆弾材料としてのパチンコ玉の入手という印象的な事柄であり、かつ、入手先の新宿ゲームセンターは新宿三越デパートの一角という比較的特徴のある場所に位置していることを考えると、仮に記憶の希薄化を来たしたとしても、おおよその所在地まで忘失してしまうということは考え難く、また、同行した者についても記憶に残りやすいのではないかと考えられる。それにも拘らず、佐古の引き当たり前の入手先であるパチンコ店についての供述は客観的事実と全く相違する。更に、同行した者についても、当初は村松と一緒に行ったと述べていたのに、その後村松と行った外にも前原と行った旨供述を動揺させ、最終的には前原と行った旨供述を変更する。右につき、佐古は48・4・17検面において、村松とパチンコをしに行ったことがあったので勘違いをしたとするが、佐古が村松とパチンコ玉を入手しに行った経緯、状況として述べるところは、まことに具体的であって、記憶の混同があったとすることには疑問がある。而して、以上のような供述の変遷を佐古が次第に正しい記憶を喚起して行った過程と見ることはできない。パチンコ玉の入手先に関する捜査の進展状況を探るため、ことさらに虚偽を述べて取調官の様子を見たということもあり得るが、もとよりそれと断ずる証拠はなく、かえって佐古の最終的自白は、その供述内容に照らし、取調官の追及に迎合した様相が濃い。

(イ) 前原自白と「千駄ヶ谷」

前原が入手先を新宿ゲームセンターと特定するに至った経緯を、前原の供述調書に即して見てみると、48・3・11員面において、「普段行っていない初めてのパチンコ屋で、河田町アジトからそんなに遠いところとは思わないが、どこだったか思い出せない」旨述べた後、「はっきりしないが、新宿駅近くのパチンコ屋だったと思う」(48・3・16検面)、「新宿のパチンコ屋である(新宿駅東口から歌舞伎町に向かう途中の、新宿ゲームセンターとは新宿通りをはさんだ正反対の場所に位置する店を図示)」(48・3・28検面)、「新宿駅近くのパチンコ屋。ビルの様な建物で、入口が二か所ある。初めての店である」(48・3・29員面)と供述し、翌三〇日の引き当たりにおいて、新宿ゲームセンターを指示、特定したものである。

検察官は、前原の右のような供述の状況をほぼ一貫したものとしてとらえ、引き当たり捜査の際、店内の様子等を確認して自発的に新宿ゲームセンターを特定したのであって、前原の右自白(指示説明)は十分に信用し得ると主張するが、佐古のこの点に関する自白の検討の際に述べたところに照らせば、右のような前原の供述をほぼ一貫していると見ること自体に疑問があるし、更に、前原は第七六回公判において、当初、入手先については「千駄ヶ谷にあるパチンコ店」と述べた旨供述し(九二一一)、また前原の取調を担当した千葉巡査部長も「新宿か、四谷か、千駄ヶ谷あたりと供述していた」旨述べており(九部一九二回、一九三回千葉繁志証言一八五八〇、一八七七六)、少なくとも当初から新宿方面と断定してはいなかった模様である。加えて、前原は、当初千駄ヶ谷にあるパチンコ店と述べた理由について、「アメリカ文化センター事件の証拠物の一覧表に新宿ゲームセンターの支配人というような書き方をしてあって、渋谷区千駄ヶ谷何々と出ていたので、新宿ゲームセンターの名称を知るとともに、千駄ヶ谷にあるものと誤解した」旨述べるところ(七六回前原供述九二一〇)、SGCの刻印入りのパチンコ玉を任意提出した新宿ゲームセンターの支配人高橋亀雄44・11・6任提六六九〇には同人の署名の右肩に「渋谷区千駄ヶ谷五―一五―一四」との記載があり、右任意提出に対応する(員)丹波守次44・11・6領置六六九一には(右高橋44・11・6任提の記載の誤解に基づくと思われるが)、「新宿ゲームセンター」の所在地が「渋谷区千駄ヶ谷五―一五―一四」と記載されていることに照らすと、前原の右弁解は一概に排斥できず、むしろ、前原の公判供述のように、当初は「千駄ヶ谷のパチンコ店」と述べていた様相が濃く、いずれにせよ検察官の主張は説得的でないといわざるを得ない。

なお、前原は、引き当たり捜査の際、入手先のパチンコ店について、ビルのような構えでそれほど大きな店ではなく、奥に景品交換所があり、入口が二か所か三か所あったと記憶していたので、新宿駅東口のそのような店を探したところ新宿ゲームセンターがあったと供述する(48・4・1検面。なお、48・3・30員面では、右のような諸点に加え、店内のパチンコ台の配列状況が48・3・29員面で供述したとおりであったことも、新宿ゲームセンターを指示し得た理由であると述べるが、同員面にはパチンコ台について、台数はどのくらいあったかはっきりわからないとの供述があるに過ぎず、48・3・30員面で店内のパチンコ台の配列状況をいう点は無内容であると認められる。)。しかし、右のような諸点は、パチンコ店に多々見られる構造であって、これらが引き当たり時に記憶を呼び戻す契機になったとするのはいささか不自然である。

(ウ) 入手日時

パチンコ玉を入手した日時に関する佐古及び前原の最終的自白を見るに、佐古は製造日当日の午前中(48・4・2検面)というのに対し、前原は住吉町アジトにおける謀議の日かその翌日の午後七時ころ(48・3・29員面)というのであって、大きく相違するが、事柄の重要性を考えると、右相違を記憶の混同によるものと見るのには疑問がある。

(エ) 具体的入手方法

パチンコ玉の具体的な入手状況に関する佐古及び前原の最終的自白を見ると、佐古は、「どちらが金を出したか覚えていないが、二〇〇円出してパチンコ玉を買い、一〇〇円分ずつ(五〇個ずつ)分け、それを持って店内を少し回った。自分ははじかなかったが、前原は奥で少しはじいたような気がする」というのであり(48・4・1員面)、前原は、「佐古と一〇〇円ずつ、それぞれ五〇個のパチンコ玉を買い、自分が少しはじいて一〇〇個ないし一五〇個に玉を増やし、佐古はその間落ちている玉を拾い集めていた」というのであって(48・3・28検面、48・3・29員面)、両名の供述は符合するのに対し、菊井証言は前記のとおり、前原か佐古から、「パチンコ玉をはじいて遊んでしまったため、何百円も散財した」と聞いたというのであって相違する。右三名の供述はいずれも具体的であって、記憶の混同があると見ることには疑問がある。他方、佐古及び前原は、新宿ゲームセンターからのパチンコ玉の入手を認めている以上、入手に際し、玉をはじき、損をしたかどうかについて隠し立てする理由は全くなく、結局、佐古及び前原の各供述と菊井証言との食い違いには疑問が残る。

なお、菊井証言は、前記のように非常に具体的でリアルな会話を内容とするものであって、真実体験した者でなければ供述し得ないようにも見えるけれども、他方、菊井はミナミ謀議の際、増渕が佐古、前原の二人に、どこか離れたところへ(新宿の方と聞いた記憶もある。)パチンコ玉を取りに行くよう指示したのを聞いた旨述べており(九部57・9・2菊井証言二六九一六、二六九二六、二六九七六)、その点を考えると、佐古か前原の話を聞いて、「自分を取りに行かせればよかったのに」と応答したとするのは、増渕の指示を聞いたとするところとややそぐわない感を免れない。更に、名古屋がパチンコの本場であることは、菊井証言をまつまでもなく広く知られた事実であり、その点をヒントにすれば、前記のような会話は比較的簡単にこれを着想し得るようにも考えられる。

(オ) 菊井証言の動揺

菊井は、第九四回公判において、製造当日か前日かに、佐古と前原の両名から前記のような話を聞いた旨述べていたのに、(一三三八一)、九部57・9・2期日外尋問においては、前記のとおり、製造当日、増渕の話が始まる前に、佐古か前原のどちらかからか聞いたと供述が動揺する。

(2) 製造現場における目撃状況(菊井証言と図示)

菊井は、製造当日レポに出る前、河田町アジトにおいて、裏返したパンの木箱の上に新聞紙が敷かれ、その上に一〇〇ないし二〇〇個のパチンコ玉が置かれていた旨証言し(九四回菊井証言一三三七七、九九回同一四〇六五、一四〇七四、一四一二二、九部57・9・2同二六九二六等)、目撃した状況を図示しているが(九九回同一四一二五)、右図示によれば、パチンコ玉は積み上げられた形状になっていたというのである。しかしながら、パンの木箱の上に(すなわち平面上に)、単にパチンコ玉を置いただけでは、パチンコ玉は拡散し、決して右図示のような形状にはならない。菊井は、この点を追及され、第九九回公判でも、「書き方がまずかったかもしれない」と述べ(一四一二三)、第一〇一回公判において、「導火線とか雷管とかに囲まれるという感じで置いてあった。玉は重なるという感じ」(一四四三三)、「パチンコ玉を山積みにしたのは書き方が悪かった」(一四三六八)と供述し、更に、九部57・9・2期日外尋問においては、「木箱の上にたくさん置いてあったということで山盛りとかピラミッド型ではなかった。木箱の上のダイナマイト等が堤防になったというか支えになって、パチンコ玉がバラバラ崩れ落ちることはなかった。パチンコ玉は二段程度に積まれていただけで、以前もっと高いように書いたのは、図の書き方がまずかった」と供述するが(二六九二七)、菊井の前記図示とは相違が著しいし、仮に菊井がその後に弁解するとおりならば、初めからそれに近い光景を図示するのが通常であり、パチンコ玉だけが積み重ねられた形状を図示するのは不自然であって、その意味で、この点に関する菊井の証言には大きな疑問が残る。

(四) 塩素酸カリウム

さきに第四章一2(二)(1)で述べたとおり、アメリカ文化センター事件の爆弾には、爆薬としてダイナマイトのほかに塩素酸カリウムと砂糖の混合物が加えられており、製造事件に関する各自白中にも製造にあたって右のような混合物を用いたとするものがある。しかるに右塩素酸カリウムの入手状況に関する各自白については以下のような疑問がある。

(1) 自白の概要

塩素酸カリウムの入手状況について自白している者は佐古、前原及び増渕の三名であるが、他に、あるいは塩素酸カリウムに関するものではないかとも思われる内藤自白もある。

各自白の内容は次のとおりである。

佐古 塩素酸カリウムは、製造日の四、五日前に村松が他の薬品類とともにリュックサックに入れて河田町アジトに持ち込んだ。(48・3・26Ⅰ検面。なお、佐古は、48・3・9Ⅱ員面において、右薬品類については東薬大から入手したと村松が述べていた旨供述しており、右供述は、その後も調書上明確な形では否定されていない。)

前原 塩素酸カリウムは、製造作業開始後間もなく、平野が持って来たと思う。(48・4・6検面)

増渕 塩素酸カリウムは、L研が法大にいたころ村松が盗み、保管してきたもので、村松が持って来た。(48・3・23検面)

内藤 内藤の自白は、「製造当日平野が薬品瓶二本を携え河田町アジトに赴いたが、増渕がそれを見てピクリン酸だと言った」というものであって(48・3・19検面)、一見前原自白とは異なる如くであるが、他方、ピクリン酸の瓶は一本であったとも述べており、平野が携行したその余の薬品瓶一本が塩素酸カリウムである可能性の余地を残した供述となっているものの比較検討の対象としては難がある。

(2) 問題点

ア 供述の不一致

右のとおり、佐古及び増渕の各自白と前原の自白は大きく相違する。佐古自白と増渕自白は、村松が河田町アジトに持ち込んだとする点では一致するものの、増渕自白は、村松が製造当日持ち込んだとのニュアンスのもので、その点は佐古自白と相違する。爆弾材料の主要なものの一である塩素酸カリウムの入手状況について各自白間にこのような相違が存することは、その自白の信用性を考えるに当たって疑問なしとしないが、他方、被告人らは、当時、既に第四章二で認定したように塩素酸カリウムを使用した触発性火炎瓶を製造しており、塩素酸カリウムの入手状況について、他の場合と記憶が混同している可能性はあるかもしれない。

イ 前原自白の変遷

前原は、当初、平野を製造参加者とせず、「塩素酸カリウムは増渕が東薬大社研メンバーを動かして入手することとされていた」(48・3・9員面、48・3・16検面)、「製造当日塩素酸カリウムを誰が持ちこんだかは記憶していない」(48・3・11員面)と述べていたが、48・3・28検面において、「製造作業途中、平野が何か薬品を持ってきた」と供述し(もっとも、平野の参加については48・3・17員面で初めてその可能性を供述している。)、更に48・4・6検面において、前記(1)のような供述に至るのである。

しかし、真実、塩素酸カリウムを平野において持ち込んだというのであれば、既に48・3・9員面の段階で東薬大社研メンバーからの入手を想起している以上、その時点で、平野の参加と塩素酸カリウムの搬入につき記憶を喚起できるのではなかろうか。

前原は、この点につき、「昭和四八年三月一三日ないし一五日ころから、平野が塩素酸カリウムなどを持って来たはずだと、いわば平野の参加と塩素酸カリウムの持ち込みが結びつけられた形での追及があった。そうでなければ、筋書上、塩素酸カリウムが河田町アジトに届かないということであった。自分は、一〇・二一前、東薬大社研の男子のメンバーが河田町アジトに来たことはないとの記憶があったので、当初認めなかったが、結果的には認めてしまった」旨その取調の状況を述べているところ(七六回前原供述九一三四)、前原が、48・3・22員面で、突然理由を示すこともなく平野の参加を供述し、更に、48・4・6検面で、これも突然に、平野による塩素酸カリウムの搬入を明言しながら、他方、平野の参加を認めた後もその作業内容については思い出せないと一貫して供述しており、結果的には、塩素酸カリウムを河田町アジトへ搬入することだけが平野の存在理由であるかの如き供述になっていることは、前原の供述する前記取調状況に符合するものであって、前原が取調官の追及に最終的に迎合した可能性を強く窺わせるものである。

(五) 砂糖

本件爆弾製造に際し、塩素酸カリウムと砂糖の混合物を用いたとする自白のあることは前項(四)の冒頭で述べたとおりであるが、右砂糖の入手状況について、捜査段階で自白したのは、佐古及び前原の二名であるところ、佐古自白は「砂糖は河田町アジトにあったものを使用し、更に、製造途中、江口に言われて自分が河田町アジト近くの店から買って来た」(48・3・26Ⅰ検面)というのに対し、前原自白は「砂糖は江口が持って来た」(48・4・6検面等)というのであって、その内容が大きく相違し、同一の事象の体験を語るものとは思えない。

公判段階において、佐古は、砂糖のことは自分から言い出したのではなく、取調官から、爆弾には砂糖が使われているが、アジトにあったものでは足りなくなって、佐古が買いに行ったことはないかと追及され、そんなに使うものかどうかよくわからないながら、その旨認めたものであると述べ(四七回佐古供述⑰四九五八、五八回同六五五七等)、また、前原は、薬品を持って来たのは東薬大関係者だろう、持って来たとすれば誰なんだ、江口あるいは平野なんかが持って来たんじゃないかというような追及を受け、想像で、江口が砂糖と塩素酸カリウムの混合物を持って来たと供述したなどと弁解する(六一回前原供述六八六六、七六回同九一五二等)。

佐古自白は、一見具体的で、記憶の混同なども考え難いが、他方、製造途中で砂糖が不足し、佐古が買いに出たというようなことが実際にあれば、他の者もこれに気付き、印象に残ってもよいと思われるのに、このことについて供述する者は皆無である。菊井証言も、製造現場における袋入り砂糖の存在には触れるものの、佐古がこれを買って来たことは述べていない(九九回菊井証言一四〇七六、九部57・9・2同二六九三六等)。

本件製造にかかる爆弾のうちの一個とされるアメリカ文化センター事件の爆弾が、その材料中に砂糖を含んでいることは、取調官も知っていた(昭和四八年一、二月中に、佐古及び前原に対し、それぞれ現物が呈示されている。佐古48・1・24Ⅲ員面、前原48・2・6Ⅱ員面)ことをも考えあわせると、佐古及び前原の公判廷における右各弁解はたやすく斥け難い。

(六) ガムテープ

(1) 種類

本件ピース缶爆弾には、第四章一で認定したように、茶色及び青色の二種類のガムテープが使用されているが、被告人及び共犯者とされる者のうち、右二種類のガムテープが使用されたと明確に述べるのは前原だけである(前原48・3・16検面等。もっとも、その入手状況については、「茶色ガムテープは、以前から河田町アジトにあったが、青色ガムテープは誰が持ち込んだかわからない」というものである。)。佐古は、製造事件自白以降、一貫して「ガムテープは河田町アジトにあったものを使用した」と述べていたが、右は茶色ガムテープについてのものであって、青色ガムテープについては、48・4・10員面で、八・九機事件のピース缶爆弾に使用されていた青色ガムテープの呈示を受け、初めて「青色ガムテープについては記憶がないが、誰かが巻きつけたと思う。製造当時、河田町アジトには青色ガムテープはなかったので、村松あたりが、製造の際持って来て巻いたのでないか」と供述し、また、村松も、「河田町アジトでの謀議の際、前原にガムテープを購入するよう指示があった」と述べていたが(48・3・24検面)、48・4・16員面で、前記青色ガムテープの呈示を受け、「青色ガムテープについては記憶がない。茶色ようのガムテープ一種類と思った」旨供述する。

菊井は、製造現場で、爆弾の缶体を巻くのに用いられるのを目撃したガムテープは、黄土色のもので、その一種だけであったと記憶する旨証言する(九五回菊井証言一三四二一、九九回同一四〇九一、九部57・9・2同二六九三六)。

(2) 青色ガムテープの記憶

青色ガムテープは、日常見かけないものであって、印象的で記憶に残りやすいと考えられるが、青色ガムテープを使用したと述べるのが前原一人にとどまることには疑問が残る。更に、前原の右自白についても、第六章二2(三)(1)ウ(ウ)で述べたとおり、前原が、一〇月二一日夜、佐古らの河田町アジトに持ち帰ったピース缶爆弾に使用されていたという「布」について青っぽい色と供述するところには疑問があり(すなわち前原が取調官の追及に迎合している可能性がある。)。更に、その後48・2・6Ⅰ、Ⅱ員面において八・九機事件及びアメリカ文化センター事件の証拠物の呈示を受けていることからすれば、前原が使用したガムテープを二種類とすることは当然であって、この点に関する供述をもって、前原自白全体の信用性を肯定する方向に働く事情とすることはできない。

(3) 入手状況

茶色ガムテープの入手状況については、佐古及び前原の自白は一致するが、村松の自白は相違する。

また、青色ガムテープの入手状況については、右三名を初めとして、菊井をも含め、述べる者がいない。もとより、故意に隠し立てをしている可能性も全面的には否定できないが、この点は真犯人ならば、容易に言及し得る事項であることもまた指摘される。

(4) ビニールテープ

なお、増渕自白は、缶体と蓋の固定にビニールテープを使用したというのであって(48・3・23検面)、客観的事実に相違する。

(七) その他の薬品及び使用器具等

(1) 自白の概要

被告人及び共犯者とされる者らの捜査段階における自白中には、本件ピース缶爆弾の製造には客観的に無関係と認められる薬品あるいは使用器具等を入手しあるいは目撃した旨の供述が散見される。すなわち、

佐古 48・3・9Ⅱ員面において、「黒色火薬の瓶があり、ピース缶爆弾に黒色火薬を入れたように思う」と述べる外、「濃硫酸があつた」と供述。(なお、48・3・26Ⅰ検面参照)

村松 48・3・8員面等で、「増渕の指示で紙火薬を入手した」旨述べ、48・4・11検面では、「紙火薬をほぐして、該火薬をピース缶に充填されたダイナマイトや塩素酸カリウムの上からふりかけた」旨供述。

内藤 製造当日河田町アジトで目撃した薬品、使用器具として、最終的には、48・3・27員面において、「ピクリン酸、塩素酸カリ、粉末よう薬品二本、液体薬品一本、アルコール一本、乳鉢一個、乳棒一個、ガラス棒二本、マクロスファーテル一本、薬包紙五〇枚、ビーカー二個、天びん秤一個その他」を述べる外、48・3・21員面等で「堀がニトロ系の薬品を持って来た」旨供述。

(2) 問題点

右の「黒色火薬」(紙火薬の内容も黒色火薬である。)、「濃硫酸」、「ピクリン酸」、「ニトロ系薬品」は、いずれも本件ピース缶爆弾とは無関係であり、かつ、これらについては、ほかに同旨の供述もない。

また、内藤が述べる使用器具についても、その多くはピース缶爆弾の製造には必ずしも必要なものと考えられず、かつ、乳鉢、乳棒を除いては、他に同旨の供述もない。

以上の諸点のほか、爆弾製造に当たっては、その構造等については事前に十分検討し、爆弾材料や使用器具が決定された上、実行に移されるものと考えられ、製造現場において爆弾製造に無意味なものが持ち込まれることは通常考え難いことに照らすと、これらの各供述の信用性には疑問がある。

内藤は、前記のような供述をした経緯について、「取調官から爆弾製造に使用した道具や材料について追及を受け、元になるようなイメージというのはなかったけれども、器具とか薬品と言われると、自分自身学校で二年生から四年生まで化学薬品の実験をしていたので、そのイメージを挙げた。塩素酸カリとピクリン酸は爆発性であることは四年間の実験で知っていたし、一〇・二一に東薬大で押収された鉄パイプ爆弾の説明を受けたときの記憶から挙げた。思いつくままどんどん挙げていった」旨述べるが(二九回内藤証言⑪二九九九)、前記のような供述内容に照らし、一概に排斥できない。

なお、菊井は、製造現場において乳鉢、乳棒を見ている旨証言し、寸法入りの図面まで作成しているのであるが(九四回菊井証言一三三七七、九九回同一四〇六七、一四〇八三、一四一三〇、九部57・9・2同二六九三五)、既に見で来たとおり、同人の証言には多大の信を措くことができず、右図面程度のものは、一般常識によっても書けると思われ、右証言は重視できない。

5  製造の実行

以下、本件爆弾製造の実行行為に関する自白を検討するにあたり、まず、(一)製造された爆弾の構造及びそのうちの一部のものに存する添加物についての自白をとりあげ、次いで、(二)具体的な作業の分担をめぐる自白を見ることとする。

(一) 爆弾の構造と添加物

(1) 前提事実

第四章一で述べたとおり、本件で製造されるものと認めるべきピース缶爆弾の基本的構造は、缶入りたばこピースの空き缶にダイナマイト約二〇〇グラムを充填し、工業用雷管に導火線を装着したもの(導火線の一方の先端部に接着剤を塗布して雷管空管部に差し込み、内管上面と接着させた上、管口部周囲にガムテープの小片を巻きつけたもの)を右ダイナマイトのほぼ中央に埋め込み、その周囲のダイナマイトの中にパチンコ玉七、八個を薬高の中間まで埋め込んだ上、缶蓋ほぼ中央にあけられた円孔を通して導火線がピース缶外に出ているというものである。

なお、そのうちの一個(アメリカ文化センター事件で使用されたもの)は、ダイナマイトの上に、更に塩素酸カリウムと砂糖の混合物が充填されていたほか、他の一個(京都地方公安調査局事件で使用されたもの)も同様であった可能性がある(第四章一3(一)(2)ア)。

(2) 構造

ア 客観的事実に符合する自白(佐古、前原、村松、増渕)

佐古、前原、村松及び増渕のピース缶爆弾の構造あるいは製造工程に関する各自白は、最終的には右のような客観的事実にほぼ符合する内容である。しかしながら、これらの者は、いずれも右自白に先立って、取調官から、アメリカ文化センター事件の証拠物(ピース空缶、ピース缶蓋、ダイナマイト、パチンコ玉、白色粉末、ガムテープ等)あるいは八・九機事件の証拠物(ピース缶、ダイナマイト、パチンコ玉、ガムテープ)あるいはアメリカ文化センター事件の時限式爆弾の写真((巡)小室欽二朗44・11・4写報((但し、(員)小林由太郎44・11・5実に添付))⑤一〇一一、(巡)小室欽二朗外二名44・11・10写報⑤一〇四五、(巡)的場順一外二名44・11・10写報⑤一〇五二)の呈示を受けているのである。すなわち、佐古は昭和四八年一月二四日アメリカ文化センター事件の証拠物を、前原は同年二月六日両事件の各証拠物を、村松は同月一三日以前にアメリカ文化センター事件の時限式爆弾の写真を、増渕は同月一一日同事件の証拠物を、それぞれ見せられているのであって(各当該日付員面)、本件ピース缶爆弾の構造が前記のように比較的簡単なものであることを考慮にいれると、右証拠物あるいは写真の呈示を受ければ、右爆弾の構造及び製造工程の大筋は容易に推測し得ると考えられ、その意味では、これらの者の自白が客観的事実に符合するのは当然である。従って、右のような符合があるからと言って、これらの者の自白の信用性を直ちに肯認するわけにはいかない。

イ 内藤自白の特異性

これに対し、内藤の爆弾の構造に関する自白は特異なものであって、客観的事実と大きく相違する。

(ア) 自白の概要

内藤のこの点に関する自白の状況は、以下のとおりである。

48・3・10員面 ピース缶に薬品を混合したものを注入した。

3・19検面 褐色のブヨブヨした糊様のもの及び二種類の薬品を混合したものを詰めたと述べ、爆弾の構造図として第一図を作成。

3・20員面 茶褐色の粘土状のものと混合薬品を入れたと述べ、爆弾の構造図として第二図を作成。

3・21員面 (河田町アジトに行ったところ、)ピース缶が七、八個置いてあり、そのうちの一、二個には既にダイナマイトが充填されていた。増渕が、「缶の中にダイナマイトを入れ、殺傷能力を高めるためにパチンコ玉を入れる」旨爆弾の構造を説明した。

3・22員面 ピース缶の中に褐色の糊状のものを半分位入れ、ダイナマイトを切ってその中に埋め込み、混合薬品(白色粉末)を入れたと述べ、爆弾の構造図として第三図を作成。

3・23検面 ブヨブヨした糊様のものがダイナマイトかどうかわからない。

3・25員面 ダイナマイトは紙を剥がして充填した。糊状のものは何かの薬品に液体の薬品を加えて作り上げたものである。爆弾の構造図の第二図と第三図は異なるが、どちらが正しいかはわからない。

(イ) 問題点

以上のとおり、内藤は、当初、ダイナマイトの充填を述べず、最終的な自白においても、ダイナマイトは充填したが、その構造は第二図か第三図かわからないというものであって、ピース缶爆弾の客観的構造と大きく相違する。ダイナマイトは、微黄色で、固さなど糊よりもはるかに固く羊羹に近い感じのものである(九一回吉富宏彦証言一二四一三)から、内藤が供述する褐色のブヨブヨした糊様のものはダイナマイトとは色、形状とも異なる。かつ、内藤自身、48・3・5員面で「糊状のものは何かの薬品に液体の薬品を加えて作り上げたもの」と供述していることに照らしても、これをダイナマイトと見ることはできない。

ところで、ダイナマイトの充填は、本件ピース缶爆弾の最も基本的な構造をなすものであるから、これについて、製造現場にいた者の記憶が希薄化するとは到底考えられない。また内藤自身、自己の公判において、当初、ピース缶爆弾製造の起訴事実を認める態度をとったこと、本件ピース缶爆弾の爆薬がダイナマイトであることは既に捜査機関に明らかであって、この点を隠し立てしても、捜査の攪乱は望めず、かえって情状を悪くしかねないものであることに照らすと、内藤が故意にダイナマイトの充填を秘匿したと見るのには疑問がある。そして、内藤は、この点につき、公判廷において、「ダイナマイトは当時全く認識がなく、取調の時に初めて知った。爆弾の構造あるいは製造作業については、もとより記憶がないので、大学時代の実習からイメージして供述した」旨弁解するのであるが(二九回内藤証言⑪二九九九、三〇回同⑫三一二〇、三一三五等)、前記諸点に加え、内藤の取調べを担当した田村巡査部長が、内藤の供述態度を見て、内藤はピース缶爆弾の構造を本当は知らないのではないかと思った、構造は隠しているとは思わなかった旨証言していること(一三四回田村卓省証言二四一一二、九部一九七回同一九五四七、一九五五〇)をも考えあわせると、右弁解は一概に排斥し難い。

(3) 添加物(塩素酸カリウムと砂糖)

ア 二段階製造説

弁護人らは、塩素酸カリウムと砂糖の混合物が添加されていることが明らかなピース缶爆弾は、アメリカ文化センター事件のものだけであることを根拠に、右混合物は、同事件のピース缶爆弾について工業用雷管を電気雷管にとりかえた際、新たに追加されたものと推認するのが合理的であり、したがって、いわば第一次製造段階とでもいうべき本件ピース缶爆弾の製造の時点においては、塩素酸カリウムと砂糖の混合物の添加ということはあり得ないと主張するが(最終弁論七八三三八〇五)、右主張は留意すべき点を含むものの、直ちには左袒し難いことは第四章一4(六)で検討したとおりである。

イ 前提事実

第四章一において述べたように、本件に関連すると認められるピース缶爆弾一三個のうち、塩素酸カリウムと砂糖の混合物が添加充填されていたことが明らかなものはアメリカ文化センター事件のピース缶爆弾一個であり、その可能性があるものは京都地方公安調査局事件のピース缶爆弾一個であって、添加物があるのは、最大限二個であると認められる。

ウ 添加物の種類

ところで、被告人及び共犯者とされる者らのうち、前原は、塩素酸カリウムと砂糖の混合物の充填を明確に述べ(48・3・16検面等)、佐古も、薬品と砂糖を混合したものを充填したと客観的事実に近い供述(48・3・9Ⅱ員面)をするのに対し、村松は白い粉を入れたと述べ(48・3・24検面。48・3・15員面によれば白い粉末は瓶詰の薬品であると述べる。)、また増渕は塩素酸カリウムを充填したと供述し(48・3・23検面等)、砂糖との混合について述べない。なお、内藤の自白は、(2)イ(イ)で述べたように、爆薬についてはダイナマイトよりも混合薬品を主体とするかの如き供述である。塩素酸カリウムは混合火薬の酸化剤として用いるものであって、増渕あるいは村松が砂糖との混合を述べないのは不自然であるが、その供述態度に照らし、右両名については隠し立てしている可能性も全面的には否定できない。

エ 添加物のある爆弾の数量

砂糖との混合の点はしばらく措き、これらの混合物あるいは白色粉末等の添加充填されたピース缶爆弾の数量が、完成したピース缶爆弾全体の中で占める割合に関するこれらの者の供述を見ると、次のとおりである。

佐古 砂糖は河田町アジトにあったものを使用したが、製造作業の途中、更に江口に指示されて砂糖を買いに行った旨供述し(48・3・26Ⅰ検面。なお、48・3・9Ⅱ員面では、砂糖一袋くらいを使用したという。)、前記混合物の添加充填されていないものがあることは述べない。

前原 ほか一名の者と一緒に混合した塩素酸カリウムをスプーンですくって、ダイナマイトが充填されたピース缶に入れた。全部のピース缶に入れたと思うが、あるいは量が足りなくて一部には入れられなかったかもしれない。(48・3・16検面)

村松 ダイナマイトを詰めた上に瓶詰めの薬品(白色粉末)を増渕が入れていたが、途中で薬品がなくなり、薬品の入った爆弾と入っていない爆弾ができた。(48・3・15員面)

増渕 塩素酸カリウムを加えたと供述するが(48・3・23検面)、これを加えなかったものがあることは述べない。

以上のとおり、右四名の供述は、製造したピース缶爆弾の少なくとも大部分に右混合物ないし白色粉末を添加充填したとの趣旨に解せられるべきものであって、塩素酸カリウムと砂糖の混合物が充填されているものがむしろ例外的である前記の客観的事実と食い違う。

この点について、検察官は、「被告人・共犯者らの自白は、『製造されたピース缶爆弾中の何個かにはダイナマイト以外に塩素酸カリウム・砂糖の混合物を充填した』という趣旨であることは明らかである」旨主張するが(論告要旨八九三三五六四)、到底首肯し得ない。仮に検察官が主張するような趣旨の自白であれば、事はピース缶爆弾の基本的構造に関わるものであって、本件ピース缶爆弾事件の取調を担当した取調官はいずれも熟達した者であるから、その趣旨を明確にした供述を録取するはずであるが、そのような供述が録取されているものは見当たらない。

なお、右に述べたところは、検察官の主張のように、被告人らが製造したピース缶爆弾は十数個であって、その行方のすべてが解明されていないものとしても、結論に消長を来たすものではない。すなわち、被告人らの完成したピース缶爆弾の個数に関する自白を概観すると、佐古は「一〇個くらい。他に雷管を詰めていないものが一、二個」(48・3・26Ⅰ検面)、前原は「一二、三個ないし一五個」(48・3・28検面)、村松は「一二、三個」(48・3・24検面)、内藤は「七、八個と思う」(48・4・9検面)、増渕は「一二、三個」(48・3・23検面)、江口は「二、三個」(48・4・2検面)と、それぞれ供述しており、製造にかかるピース缶爆弾は、証拠上、最大限約一五個と解すべきであり(これを超える個数であったことを窺わせる証拠は存しない。)、その大部分であるといってよい一三個のうち二個のみが塩素酸カリウムと砂糖の混合物が入っていた可能性があるに過ぎないからである。

オ 菊井証言

菊井は、「製造当日、河田町アジトにおいて、塩素酸カリウムの薬品瓶と砂糖の袋を見た。作業開始前、増渕からピース缶爆弾の爆発力を強化するため、塩素酸カリウムと砂糖を入れるとの話があった。レポ途中、二回河田町アジトに戻り、室内に入って様子を見たが、その時間は各五分間くらいずつの計一〇分間くらいである。一回目に室内に入った際、誰だったか思い出せない人物が、白色粉末(今から思えば塩素酸カリウムと砂糖と思う。)を乳鉢の中で乳棒を使ってかきまぜていたが、その際、江口が『そういうやり方では駄目よ』と言って、これらを取り上げ、手本を見せていた。二回目に室内に入った際、増渕が、白色粉末が詰められたピース缶を持ち、雷管と導火線を装着したものを缶蓋の穴に通そうとしているところを見た。白色粉末はザラメ状であった。白色粉末を全部の缶に入れたかは、見ていたわけではないからわからない」と供述するが(九四回菊井証言一三三七九、一三三八五、九五回同一三四二七、九九回同一四〇六七、一四〇七五、一四一二六、一四一二七、一四〇九五、一四一〇〇、一四一〇五、一四一三六、一四一〇六、一〇〇回同一四一五九、一四二七八等)、要するに、塩素酸カリウムと砂糖の混合物が添加充填されたものがあることを明言するものの、製造されたピース缶爆弾全体のうち何個に右混合物が充填されたかは判然としない供述内容である。しかしながら、前記のとおり、製造されたピース缶爆弾のうち、右混合物が充填されていたものはごく少数であって、その点からすれば、製造作業中これに関連するものは、時間的にも量的にもさまで多くはなかったのではないかと推認されるところ、菊井証言は、製造時間約三時間のうち、各五分間ずつ二回計一〇分間、レポ途中河田町アジトに入室した際、塩素酸カリウムと砂糖の混合作業や右混合物が充填されたピース缶を現認したというのであって、あまりにも僥倖に過ぎ、不自然と思われる。

また、右混合物である白色粉末がザラメ状であると供述する点は、弁護人も主張するように、アメリカ文化センター事件のピース缶爆弾に充填された右混合物が、混然一体となって外見的には砂糖と見える状態(一四回德永勲証言⑦一五〇三)であることに反するものである。

右のような菊井証言の信用性は、到底高いとは言えない。

(4) 中間的供述等

佐古及び村松は、ピース缶爆弾の構造につき、最終的にはほぼ客観的事実に符合する供述をするに至るものの、佐古は、中間的自白の段階ではこれと異なる構造を述べ、村松は、構造の一部に関して最後まで特異な供述に固執しており、その供述経過をそれぞれ分析することは、各最終的自白の信用性の判断をするにあたっても有意義であると考えられるので、以下、この点について検討を加える。

ア 佐古

佐古は、48・2・13員面で、「ピース缶内に充填したダイナマイトの上に、起爆力を高めるため、火薬に薬品を浸みこませたものを添加し、その火薬に火がつくように、導火線の一方の先端を右火薬にとりつけた」旨雷管を欠いた構造のものを供述し、48・2・15Ⅰ員面においては、「製造に当たっての最大の問題は雷管の不足であった。これまで薬品を浸み込ませた火薬と述べていたのは、増渕と堀が雷管の代用品として作っていたものであった。これを起爆剤とする爆弾は未完成のまま一個位できたと思う」旨供述を変更し、更に48・3・9Ⅱ員面において、「ダイナマイトの上に、白色粉末の薬品と砂糖を調合したものを添加したが、この薬品の中には黒色火薬が入っていたと思う」旨述べている。

右に見るとおり、当初、佐古は工業用雷管について述べていなかった。しかし、その後の佐古自白によれば、佐古自ら導火線と工業用雷管との接続作業を担当したということである。もしそれが真実ならば、佐古が工業用雷管の存在を忘失したため供述しなかったと考えることは難しく、さりとて、爆弾製造を自白していながら、ことさらにこの点だけを隠し立てしたとすべき理由も見当たらない。また、佐古以外に、爆弾製造時、工業用雷管が不足していたと述べる者も、あるいは雷管に代わるものを製造しようとしていたと供述する者も、皆無である。

更に、火薬に薬品を浸み込ませるとの供述があるが、そのような発想自体、奇異である。黒色火薬を入れたとする点は、次項イのように、村松も述べるのであるが、佐古は黒色火薬の瓶があったというのに対し、村松は、紙火薬をほぐして、中の火薬を使用したというのであって、状況は大きく異なるし、ほかに同旨の供述をする者はいない。

結局、佐古の右のような当初の供述は、その内容がすこぶる不自然であって、佐古は、当時、本当は爆弾というものの構造を知らなかったのではないかとの疑問を抱かせるものである。

ところで、第四章二4に認定したとおり、佐古は、昭和四五年六月ころ、梅津方において、増渕らの硝火綿製造を目撃しているのであるが、硝火綿の製造工程には、脱脂綿を硫酸三、硝酸一(重量比)の混酸に浸漬する過程がある(栄養分析表((抜萃))八頁二六四六二)。また、佐古自身の記憶によれば、昭和四四年一〇月中旬ころ、住吉町アジトにおいて、村松が時限装置を作ると言って時計を分解し出した際、村松から、火薬は紙火薬から一つずつ取り出せばよい旨聞いたことがある(佐古47・11・20ないし12・14メモ通し丁数三三、三四、一二四回佐古供述⑥一四八九、九部二七六回佐古証言二七五七八)。更に、ピース缶爆弾の製造について追及を受ける前に呈示を受けたアメリカ文化センター事件の証拠物は、ダイナマイトについては明確を欠く点があるが、少なくとも雷管を取り除いたものであった(佐古48・1・24Ⅲ員面、德永勲48・1・8鑑⑦一五九六、福山仁44・11・22鑑⑦一五八二、一四回德山勲証言⑦一五一九)。

これらの点を考えあわせると、佐古の前記各供述は、右のようなことに基づいて、佐古なりに爆弾の構造を推測して述べたものである可能性も否定できないように考えられる。

右各供述に関し、佐古は、「48・2・13員面で雷管について述べなかったのは、当時、ダイナマイトというのはよくわからなくて、むしろ火薬が入らないと爆発しない、導火線と火薬がつながっていれば爆発する、というような爆弾のイメージがあったからである。火薬に薬品を浸み込ませる旨供述したのは、七〇年六月に硝化綿に何かを浸み込ませたというようなことがあったので、薬品の調合というのはそういう作業だろうと考えて供述した。取調官の好永が自分が書いた雷管を欠いた構造の図面(48・2・13員面に添付のもの)を上司のところに持って行ったが、戻って来るや、『あの爆弾では爆発しない。導火線と雷管がつながり、雷管がダイナマイトの中に入っていないと爆発しない』と言った。そこで、雷管と導火線を接続したと言われるままに述べたところ、好永らから何故雷管なしで爆発すると思ったのかと聞かれ、考えていると、好永か原田から、『七〇年六月にお前たちは雷汞を作り、雷管に代わるものを作ろうとしていたことがあるから、このときも、雷管が少なくてそれに代わるものを作ろうとしていたのではないか。そちらの方を鮮明に覚えていたからこういう図になったのではないか』と言われ、なるほどそういう説明の仕方もあるのかと思い、その旨認めて48・2・15Ⅰ員面の供述となった」旨弁解するが(一一五回佐古供述④九二九、九三三、九四四)、一概に斥けられないものがある。

以上の事実もまた佐古自白の信用性を減殺させる因子のひとつであると言うべきであろう。

イ 村松

村松は、48・3・8員面において、「自分は紙火薬をほぐし、上質の巻き紙に巻き、長さ五センチメートルくらいのもの五本(添付図面では「導火線」と表示)を作った」旨述べ、ピース缶爆弾に右手製の導火線が使われたかのような趣旨の供述をし、その後も紙火薬に固執した供述をなし(48・3・15員面、48・3・18員面、48・3・24検面。ただし、どのように使用されたかは不明である。)、48・4・11検面に至っても、「紙火薬をほぐして、その火薬をダイナマイトや塩素酸カリの上からふりかける作業を分担した、増渕にいわれてしたもので、多分爆発力を高めるためと思った」旨述べる。

村松の右供述は、いうまでもなく客観的事実に反するのであるが、村松がなぜこのような供述をしたかについて考えてみると、佐古が述べるように、昭和四四年一〇月ころ、村松は紙火薬や時計を用いて時限爆弾を作ろうとしたことがあり(佐古47・11・20ないし12・14メモ通し丁数三三、三四、一〇八回佐古供述③四四五、一二四回同⑥一四八九、九部二七六回佐古証言二七五七八等。村松自身も、公判廷で、本件ピース缶爆弾の製造とは無関係に、昭和四四年一〇月中旬ころ、紙火薬を購入したことがある旨明言する。七七回村松供述九三〇八等)、そのことを基に、第六章三及び第七章三で検討したところと同じく、製造事件における自己の関与の度合をできるだけ従属的なものとするため、ことさらに虚偽を述べたということもあり得るところであって、このことは村松自白の信用性を低める一要素と言えよう。

(5) 「菊井インタビュー」

共犯者らによる本件爆弾の構造に関する認識の一表白として検討に値するものに、いわゆる「菊井インタビュー」がある。

菊井は、昭和四六年二月ころ、「京浜安保共闘の関係者」を自称して、週刊朝日の記者の取材を受けたことがあり、右取材に対応する記事が、週刊朝日同年三月五日号に、「独占インタビュー京浜安保共闘の戦術と戦略」の表題のもとに掲載されている。そして、右記事には、真岡事件についての会話等のあと、「武器奪取に続いて、次に来るものは?」との記者の質問に対し、相手が、「実行だ。すでにわれわれの手にある武器はダイナマイト、散弾銃、ニップル爆弾(鉄パイプの中に黒色火薬をつめたもの)、キューリー弾(火炎びんの一種)、モロトフカクテル、ピースカン(中にクギ、パチンコ玉、黒色火薬をつめたもの)、日本刀などだ」と答えた旨の記載がある(九九回菊井証言一四〇二五、週刊朝日((写))等)。

菊井は、同記事が、右インタビューを受けた者について、「黒いサングラスをかけて現れたこのリーダー、このごろはやりのボサボサ頭でもなく、身なりも背広にセーターできちんとしていた。年齢は三〇歳近く、大学の少壮学者といったタイプ」と説明している点をとらえ、人相、風体からして、それは当時の自分ではない旨の証言をもするが(一〇一回菊井証言一四三七二)、右証言は、検察官の再主尋問の段階で、誘導的尋問を受けてようやく出て来たものであり、右記事の存在が初めて公判廷に現れた弁護人の反対尋問の段階では、「記事は、相当誇張された表現とか、水増しされている部分とか、言っていないことが書かれているとか、そのような点もいくつかあったのを覚えている」旨述べるものの、菊井自身が取材を受け、その内容が右記事として掲載されたことについては、「話したことはある、記事が出たことも事実だ、あとで読んだことも事実だ、真岡事件について語ったことは覚えている」などと述べ(九九回菊井証言一四〇二一、一四〇三〇、一四〇五三等)、これを問題なく肯認する証言態度であり、かつ、「ピースカン」の構造を右記事のように説明したかとの弁護人の質問に対しても「はっきりしない」「覚えていない」と述べるだけであって、そのような説明をしたことがないなどとの明確な否定はしていないのである。

そこで、ピース缶爆弾の構造を述べていると認められる右記事は、菊井の説明を基にして報じられたものである可能性が相当程度にあるものと考えられ、そうだとすると、菊井は、ピース缶爆弾の構造として、本件ピース缶爆弾と異なる内容を説明したことになる。

ところで、もし菊井が、本件で繰返し証言するように、真実、本件ピース缶爆弾の製造に関与しているのならば、右取材を受けた際にも、本件ピース缶爆弾の構造を的確に説明するのが自然ではなかろうか。菊井は、第九九回公判では、「右インタビューにおいてピース缶爆弾のことを話したかどうかはっきりおぼえていない」と言ったこともあるが(一四〇二三、一四〇五四)、第一五六回公判では、「自分がピース缶爆弾を作った真犯人であるから、ストレートに、ダイナマイトにパチンコ玉を入れて、導火線をこうつないでと言ってしまえば、捜査当局の方から感づかれたり、目をつけられたりということもありうるので、ピース缶爆弾という言葉が出ているからといって、そのまま正直にしゃべる必要もなく、適当なことを言った可能性もある」などと証言している(三二九四四)。

しかし、右取材の当時、本件ピース缶爆弾の構造の骨子は、既に新聞記事として広く報ぜられていたこと((事)野口進58・1・24報二六五一二)、右週刊朝日の記事は、インタビューを受けた者を匿名とするものであること、菊井自身、右取材当時、本来は京浜安保共闘に属してもいないのに、その点を偽り、かつ、偽名でインタビューを受けたものであることに照らすと、ピース缶爆弾の構造について、ことさらに虚偽の内容を述べる必要があるとは考えられない。従って、右記事が、インタビューの結果をどの程度正確に報じたものであるかについての疑問は残るものの、一応は菊井の語ったところに基づいているとする限り、記事から窺われるピース缶爆弾の構造についての菊井の認識は、その製造現場の状況を目撃したという者のそれというには疑問の多いものということになろう。

(二) 作業の分担

(1) 自白の概要

製造作業の分担に関する被告人ら及び共犯者とされる者らの各自白を概観すると、次のとおりである。

ア 佐古

(ア) 自分 ピース缶蓋の穴あけ(誰かが手伝ってくれたが、特定はできない。)、雷管と導火線の接続、出来上がったピース缶爆弾の缶体と缶蓋へのガムテープの貼付、レポの責任者としてレポの者との連絡、砂糖の購入

(イ) 増渕 製造手順について全員に指示、薬品と砂糖の混合

(ウ) 村松 ダイナマイトのピース缶への充填、パチンコ玉の充填、ダイナマイト上に詰めた薬品の中への雷管の埋め込み(鉛筆か何かで穴をあけて埋め込む。)、ピース缶体に蓋をかぶせてガムテープを貼付する作業

(エ) 前原 雷管と導火線の接続、ピース缶体に蓋をかぶせてガムテープを貼付する作業

(オ) 江口、堀 薬品と砂糖の混合

(カ) 菊井、平野、内藤 ダイナマイトの油紙を剥がし、ダイナマイト、パチンコ玉を充填

(キ) 前林 ピース缶の指紋拭き

(ク) 井上、国井、石井 レポ

(以上48・3・26Ⅰ検面、48・3・30Ⅰ検面)

イ 前原

(ア) 自分 砂糖と塩素酸カリウムの混合とその充填、ピース缶蓋の穴あけ、出来上がったピース缶爆弾へのガムテープの貼付

(イ) 増渕 製造作業の具体的指示、ダイナマイト、パチンコ玉の充填、導火線の長さを決めて菊井に導火線を切るよう指示

(ウ) 村松 ダイナマイトの包装を剥がし、ピース缶にダイナマイト、パチンコ玉を充填、導火線と接続された雷管の埋め込み等

(エ) 佐古 前原と同じ

(オ) 江口 薬品関係の調合について説明、指導、ダイナマイトを切ってピース缶に充填、パチンコ玉の充填、導火線と雷管の接着、出来上がったピース缶爆弾をガムテープで固定

(カ) 井上 ピース缶の指紋拭き、薬品の混合もやっていたかもしれない。時々外に出てレポ

(キ) 菊井 導火線の切断、雷管と導火線の接続、ダイナマイト、パチンコ玉の充填

(ク) 前林 製造作業を始めるにあたりピース缶の指紋拭き。そのほかにも何かやっていたが思い出せない。

(ケ) 石井 缶蓋に穴をあける道具を住吉町アジトに取りに行った。塩素酸カリウムと砂糖の混合作業の手伝い、ガムテープの貼付。その間時々レポ

(コ) 平野 具体的な作業内容を思い出せない。

以上は記憶にあるもののみを述べたものであって、このほかにも色々な作業を行っている。

(以上48・3・16検面、48・3・28検面等)

ウ 村松

(ア) 自分 パチンコ玉やピース缶を事前にボロ切れで拭き、出来上ったピース缶爆弾の外側も同様に拭く作業。紙火薬をほぐし、中の火薬をダイナマイトや塩素酸カリウムの上からふりかける作業

(イ) 佐古、堀、江口、増渕 増渕を中心にダイナマイトを果物ナイフで切断し、ピース缶に充填。その上にパチンコ玉、白い粉(塩素酸カリウム)を充填

(ウ) 前林、前原 自分と同じくピース缶の指紋拭き

(エ) 井上、内藤 何らかの作業を分担していたが覚えていない。

(以上48・3・24検面、48・4・11検面)

エ 増渕

(ア) 自分 爆弾製造作業の総指揮

(イ) 村松 ダイナマイトの充填

(ウ) 前原 ダイナマイトの充填、パチンコ玉及び塩素酸カリウムの充填

(エ) 井上、内藤、国井 パチンコ玉及び塩素酸カリウムの充填

(オ) 堀、佐古 雷管と導火線の接続

(カ) 江口 充填する塩素酸カリウムの分量等の指示

(キ) 前林、石井 レポ

(以上48・3・23検面)

オ 内藤

(ア) 自分 村松と白色粉末の薬品二種類の混合、その後見張り

(イ) 増渕 江口と堀が作った茶褐色のブヨブヨしたものの充填、ダイナマイト、パチンコ玉の充填、内藤と村松の混合した白色粉末を注入、導火線と雷管の接続

(ウ) 村松 内藤と前記薬品二種類の混合

(エ) 前原、井上 薬品二種類の混合(内藤、村松の薬品混合とは別の薬品の混合)

供述者

作業の内容

ダイナマイトの充填

パチンコ玉の充填

塩素酸カリと砂糖の混合、充填

導火線と雷管の接続、埋め込み

缶蓋の穴あけ

缶体、缶蓋へのガムテープの貼付

ピース缶の指紋ふき

レポ

佐古

村松

菊井

平野

内藤

村松

菊井

平野

内藤

増渕(混合)

堀(混合)

江口(混合)

佐古(接続)

前原(接続)

村松(埋め込み)

佐古外

佐古

前原

村松

前林

井上

国井

石井

前原

増渕

村松

江口

菊井

増渕

村松

江口

菊井

前原(混合と充填)

佐古(混合と充填)

井上(混合)

石井(混合)

菊井(導火線の切断と接続)

江口(接続)

村松(埋め込み)

前原

佐古

石井

前原

佐古

江口

井上

前林

井上

石井

村松

増渕

佐古

江口

増渕

佐古

江口

増渕

佐古

江口(いずれも充填)

村松

前原

前林

増渕

村松

前原

前原

井上

内藤

国井

前原

井上

内藤

国井(いずれも充填)

堀(接続)

佐古(接続)

前林

石井

内藤

増渕

江口

増渕

内藤(混合)

村松(混合)

前原(混合)

井上(混合)

江口(混合と充填)

堀(混合と充填)

増渕(充填)

平野(薬品の計量)

佐古(接続)

佐古

前林

菊井

国井

石井

井上

佐古

石井

国井

井上

富岡

元山

江口

江口(充填)

(オ) 江口、堀 液体をたらしながら薬品を調合し、茶褐色のブヨブヨしたものを作り、ピース缶に充填、ダイナマイトの充填

(カ) 佐古 導火線と雷管の接続、缶蓋をしてガムテープの貼付

(キ) 平野 薬品の計量

(ク) 前林 もう一名とピース缶の指紋拭き

(ケ) 石井 具体的行動は思い出せない

(コ) 菊井、国井 レポ

(以上48・3・19検面、48・3・22検面、48・3・23検面、48・3・28検面等)

カ 石井

(ア) 自分、国井、富岡、元山 レポ

(イ) 井上 レポ、缶蓋の穴あけ

(ウ) 佐古 缶蓋の穴あけ

(以上48・4・3検面)

キ 江口

(ア) 自分 黄色いサラサラした薬品を充填

(以上48・4・2検面)

ク 菊井証言

これらに対し、菊井は、大要、「レポ途中、二回河田町アジトに戻り、室内に入って様子を見たが、その時間は各五分間くらいずつの計一〇分間くらいである。何人かのメンバーがあぐらをかき、ぎっしり詰まった状態で坐っており、その間にダイナマイト、導火線、雷管、薬品とかがあちこちに置いてあった。皆かなり緊張した表情で、話などもせず黙々と仕事をしていたという状況であった。一回目に河田町アジトに戻って室内に入ったときと思うが、四畳半と二畳の境のあたりに割りこんで坐ったところ、左隣の誰であったか思い出せない人物が、乳鉢の中の白色粉末(今から思えば塩素酸カリウムと砂糖と思う。)を乳棒を使って混ぜていたが、その際、江口が、『そういうやり方では駄目よ』と言って、これらを取り上げ、手本を見せたことが非常に印象に残っている。また、誰かからガムテープを取ってくれと言われて渡してやったことがあった。更に、二回目に河田町アジトに戻り室内に入った際、増渕が、白色粉末の詰められたピース缶を持ち、雷管と導火線を装着したものをピース缶蓋の穴に裏から表に通しているのを見たが、次に見たときにはピース缶に既に蓋がされており、白っぽい導火線が上方に突き出ていた。増渕は、缶体と蓋を固定するためにガムテープをぐるぐる巻いていたが、出来上がりだと言ったので見たところ、ガムテープがベタベタと貼りつけてあって、随分汚ない出来上がりだなと思ったことをよく覚えている。缶蓋の穴はきれいな円ではなく、いびつであった」と証言するが(九四回菊井証言一三三八四、九九回同一四〇六三、一〇〇回同一四一五七等)、江口と増渕の行為の外は、製造参加者の具体的作業内容は述べない。

ケ 一覧表

作業分担に関する各自白を一覧表にすると、次のとおりである。

コ まとめ

以上のとおり、作業の分担については、佐古、前原及び内藤の各自白が詳細であり、増渕及び村松の各自白も比較的詳細であるといえるが、他方、その割には供述内容の相互不一致が目立ち、各自白の信用性について疑問を生ぜしめるのである。もっとも、右各自白が製造後三年有余を経た時点のものであることを考えると、他人の分担した作業内容についてまで確実な記憶が残っているというのはかえって不自然であるとも考えられ、右の供述内容の不一致を重視し過ぎるのも危険であろう。

しかし、自己の担当した作業内容については、爆弾製造という極めて非日常的な体験であることを考えると、記憶に強く印象されるはずであると思われるから、以下このような点を中心に検討を進めることにする。

(2) ダイナマイトの切断と充填

ア ダイナマイトをピース缶に充填する作業を担当した者として、佐古は「村松、菊井、平野、内藤」と、前原は「増渕、村松、江口、菊井」と、村松は「増渕、佐古、堀、江口」と、増渕は「村松、前原」と、内藤は「増渕、堀、江口」と、それぞれ供述し、かなりの食い違いを見せる。増渕、村松、江口の名を挙げる者が比較的多いが、検察官が信用性が高いと評価する佐古、前原及び内藤の各自白をみると、その内容は大きく相違し、確定は到底しかねる状況である。もっとも、他人の作業内容については、前記のとおり記憶の希薄化ないし混同も生じ得よう。

イ 佐古、前原、村松、増渕、内藤は、前記のとおり、右作業を担当した者として、それぞれ複数の者の名を挙げるが、そのうち、自分が右作業を担当したと述べる者は皆無である。ダイナマイトの充填は本件爆弾製造の最も根幹的な作業であるから、自己の責任の軽減を図って各自秘匿している可能性もないではないが、不自然さは免れ得ない。

ウ 佐古の自白によると、村松がダイナマイトを四本くらいピース缶につめこんでいたというのであり(48・3・26Ⅰ検面)、ダイナマイトが切断されたとの供述はないのであるが、本件ピース缶爆弾は、これまでも各所で指摘して来たように、一本一〇〇グラムのダイナマイト二本をそれぞれ約半分の長さに切るなどして充填したものであって、佐古の右自白は、本数はともかく、切断の点では客観的事実に相違する。なお、右本数の点は、佐古が昭和四五年四月ころ、村松から聞いたという、ピース缶にはダイナマイトが四本入る旨の話が影響しているのではないかとも思われる(一二四回佐古供述⑥一四七九、一四九〇、佐古47・2・5メモ通し丁数五三)。

(3) パチンコ玉の充填

ア パチンコ玉をダイナマイト内に充填する作業を担当した者として、佐古は、「村松、菊井、平野、内藤」を、前原は「増渕、村松、江口、菊井」を、村松は「増渕、佐古、堀、江口」を、増渕は「前原、井上、内藤、国井」を、内藤は「増渕」を、それぞれ挙げ、ダイナマイトの充填作業について述べたところと同様に担当者を確定し難い状況にあるが、他方、自分が右作業を担当したと自白する者は一人もいない。前同様、隠し立てしている可能性もないではないが、不自然さは否定できない。

イ 菊井は、「レポの途中河田町アジトに戻り、室内に入った際、ダイナマイト及びパチンコ玉が充填された状態のもの一個を見た」と証言するが、菊井の54・7・10検面に添付された「ピース缶爆弾等略図」と題する書面(一六八七二。本章三4(一)(3)ア(エ)「商標」参照)には、製造当日目撃した状況として、ピース缶にダイナマイトだけが詰められた状態のものが図示されているのにとどまる。菊井はこの点を追及され、右図面は、記憶喚起が不十分のまま作成したもので、調書作成後、パチンコ玉が充填されていたのを思い出した旨証言するが(一〇一回菊井証言一四三六六)、検察官の徹底した事情聴取の段階で記憶喚起できなかったのに、その後何のきっかけもなく(菊井はそのようなものがあったことを述べない。)、右のような細かい情景について記憶喚起できたというのはいかにも不自然であって、このことは、菊井証言の信用性に疑問を抱かせるいま一つの状況と言うことができよう。

(4) 導火線と雷管の接続(佐古自白)

導火線と工業用雷管の接続作業を担当した者として、佐古は「自分と前原」を、前原は「菊井と江口」を、増渕は「堀と佐古」を、内藤は「佐古」を、それぞれ挙げる。佐古は自分が右作業を担当したと述べ、増渕、内藤の自白もこれに符合するものであって、少なくともこの点についてはこれらの供述を信用してもよいように思われるが、なお子細にみると、佐古の右自白については次のような重大な疑問がある。

すなわち、佐古は、右接続作業の態様について、「導火線の先端を少しほぐしてボンドをつけ、少し乾かしてから雷管をその中に押し込めるようにして接着し、ガムテープを巻いて補強した」と述べるのであるが(48・2・15Ⅰ員面、48・3・9Ⅱ員面)、本件ピース缶爆弾の工業用雷管と導火線の接続方法は、既に認定したように(第四章一)、工業用雷管の空管部に、一方の先端部分に接着剤を塗布した導火線を挿入した上、接続を確実にするため、右結合部にガムテープ小片を巻くというものである。すなわち、佐古の右自白は客観的事実と全く逆の内容である。

そもそも、導火線を工業用雷管空管部に挿入することは、接続作業の最も基本的な事柄であり、一度右作業に関与すれば、その点を忘失することなど到底考えられない。また、佐古が、ボンド(すなわち接着剤)による接着及びガムテープによる補強という本件ピース缶爆弾についてとられている特徴的な手法について供述していることに照らすと、佐古が、右の点について理解と記憶を有しながら、ことさらに虚偽の内容を述べたとすることにも疑問がある。

結局、佐古の右自白は、むしろ佐古が雷管について十分な知識がないこと、すなわち、導火線と雷管の接続作業を実際にしたことがないことを強く窺わせるものである。また、接着剤による接着及びガムテープによる補強は、客観的事実に沿うが、これは佐古が公判廷で弁解するように、取調官から断片的に聞き知ったところに基づく供述である可能性が強い。

なお、佐古が、当初、ピース缶爆弾の構造に関し、工業用雷管の存在を述べなかったことについては、前記(一)(4)ア参照。

(5) 塩素酸カリウムと砂糖の混合

ア 担当者

塩素酸カリウムと砂糖の混合作業の担当者は、佐古自白によれば「増渕、江口、堀」、前原自白によれば「自分、佐古、石井」、内藤自白によれば「自分、村松、井上、前原、堀、江口」というのであって、相互に食い違いを見せ、確定しがたい状況である。

なお、菊井は、前記のとおり、「レポ途中一回目に河田町アジトに戻り室内に入った際、誰か特定できない人物が乳鉢に白色粉末を入れ、乳棒でかき混ぜていたのに対し、江口が取り上げて手本を見せていた」と証言するだけで、右作業を担当した者の名前を具体的には挙げない。

イ 前原自白の問題点

前原自白は、自分が右混合作業を担当したとして、塩素酸カリウム二(あるいは三)に対し、砂糖一の割合で新聞紙の上で混合した上、乳鉢に入れてすって作業したというのであるが、右のような作業方法は危険この上ないものであって(薔薇の詩二六四六九、二六四八二)、少なくとも当時爆弾教本「薔薇の詩」に接していた増渕あるいは江口が、右のような作業方法を指示して行わせたとは到底考えられない。

ウ 内藤自白の問題点

内藤の自白は、「薬品二種類の混合を自分と村松が、別の薬品二種類の混合を井上と前原が、それぞれ行っていた外、江口と堀が乳鉢に液体の薬品をたらしながら、茶褐色のブヨブヨしたものを作っていた。自分と村松が混合したものを増渕がピース缶に注入した」というものであって、他の作業分担に比べ、薬品調合を担当した者が不自然に多い内容となっている。堀及び江口が調合したとする「褐色のブヨブヨしたもの」については前記(一)(2)イで検討したような疑問があり、前原及び井上の薬品の調合に至っては、本件ピース缶爆弾の製造に如何なる意味を持つものか不明である。

また、内藤自身の薬品の調合についても、内藤が自白するように右調合したものがピース缶爆弾に添加されたというのであれば、それは塩素酸カリウムと砂糖の混合物以外ではあり得ないのに、内藤は薬品二種類はいずれも瓶入りであったと供述するほか、砂糖について述べるところは全くないが、薬学を専攻した内藤が薬品と砂糖を混同するなどとは考えられず、右供述は不自然である。

内藤は、右のような供述をした経緯につき、「製造作業については大学時代の実習からイメージして供述した」旨弁解するが(二九回内藤証言⑪三〇一五、三〇二一、三〇二五、三〇回同⑫三一七一等)、右に指摘したような点に照らし、一概に排斥できない。

(6) 蓋の穴あけ

ア 担当者

ピース缶の蓋に穴をあける作業の担当者は、佐古自白によれば「自分とほか一名」、前原自白によれば「自分、佐古、石井」、石井自白によれば「井上、佐古」というのである。

イ 佐古、前原自白の問題点

佐古及び前原は、いずれも自分が担当したというのであるから、記憶があってよいはずである。そして、作業の方法について供述するところを見ると、佐古は、「玄関前の庭で作業をした。最初、釘か折りたたみ式ナイフで缶蓋に小さな穴をあけ、前の植木の根っ子あたりに蓋を置いて穴の部分にドライバーを突き刺し、金槌か石でドライバーの頭を叩いて穴をあけた」という(48・3・9Ⅱ員面、48・3・26Ⅰ検面)のに対し、前原は、「玄関前の地面で作業をした。最初五寸釘をハンマーで叩いて穴をあけたが小さ過ぎた。石井がもっと適当な道具があるということで、住吉町アジトからプラスドライバーかポンチを取って来て、それで穴をあけた」という(48・3・11員面、48・3・16検面)のであって、同じような方法を供述しているから、一見信用できるかのようでもあるが、他方、以下のような疑問がある。

(ア) バリの処理

佐古及び前原の供述するような方法をとった場合、缶蓋に穴はあくものの、バリ(めくれ)の発生は免れ得ない。本件各ピース缶爆弾のうち、缶蓋の穴の形状が明らかなものは、前記第四章一1及び2並びに3(三)のとおり、八・九機事件及びアメリカ文化センター事件の各爆弾並びに福ちゃん荘事件の爆弾三個のうちの一個、合計三個であり、これらのうち福ちゃん荘事件のもののバリは切断処理されてはいないように見受けられるが、八・九機事件及びアメリカ文化センター事件の各爆弾については、発生したバリが金切りばさみ等で切断されているのであって(朝比奈奎一57・10・2鑑二七二三九、九部二八五回朝比奈奎一証言二七四〇九)、佐古及び前原がこの点について述べないのはいささか不自然である。缶蓋に穴をあけたことのみが記憶に残存し、バリの切断処理については記憶が希薄化したということも考えられるが、佐古はアメリカ文化センター事件の証拠物を、前原は八・九機事件及びアメリカ文化センター事件の各証拠物を、いずれも製造事件について自白する以前の段階で取調官から見せられているのであって、仮にバリに関する記憶が薄れていたとしても、その際、缶蓋の穴の形状を見れば、バリの切断処理についても容易に記憶喚起ができたはずと考えてよいのではなかろうか。また、穴あけ作業を右のように詳細に認めた以上、バリの切断という比較的些事をことさらに隠し立てする必要性にも乏しいと考えられる。

このことは、佐古、前原の右供述が真実の記憶に基づくものであるかを疑わせる事実である。

(イ) 作業の場所

佐古及び前原の自白によれば、右穴あけ作業は、路地脇の河田町アジト玄関前付近で行ったというのであるが、右作業は缶蓋の穴あけという一般人がこれを見ればたちまち奇異に感じ不審を抱くべき性質のものである。河田町アジトの玄関は、既に判示したとおり(3(二))、家主と共通であって、右作業中家主が姿を見せる虞は十分にあり、あるいは路地を通行する近隣の者があるかもしれず、密行性が強く要請される作業の場所としては、いかにも場当たり的で、何らの配慮も窺われず、非現実的である。各自白の真実性には少なからぬ疑問がある。

ウ 石井自白の変遷

石井の穴あけ作業に関する供述は、以下のように不自然に変遷し、かつ、中間的な自白内容はもとより、最終的自白内容も、佐古及び前原の各自白と大きく相違する。

48・3・30員面 レポ途中、井上が河田町アジト前の垣根のところで何かやっていたが、富岡らに聞くとドリルで木の幹に穴をあけているとか缶の蓋に穴をあけているということだった。佐古が井上のところに行ったり来たりしていた。

4・1員面 同右

4・3検面 井上は、垣根の向う側の林の中で、かがみ込んで何かやっているので、富岡らに聞くと、缶に穴をあけているということだった(ドリルについては述べない。)

4・4員面 河田町アジトの部屋の入口付近で、佐古と井上が缶の蓋の穴あけ作業をやっていた。ヤスリで穴をあけているようだった。その後、井上から、「ヤスリでは穴があかないので五寸釘を買って来てくれ」と言われたが、店がわからないと答えると、釘は井上が買い、私はバンドエイドを買うことになり、二人で出かけた。

4・13検面 河田町アジトの部屋のところで、佐古か井上から、五寸釘とバンドエイドを買ってくるよう頼まれた。五寸釘は缶の蓋に穴をあけるために使うと聞いた。釘を売っている店もわからなかったし、五寸釘というのもピンとこなかったので、ぐずぐずしていると、井上が釘は自分で買ってくるのでバンドエイドだけ買って来てくれと言われ、井上は買いに出かけた(ヤスリによる穴あけ作業を目撃したことを述べない。)。

右のような供述の変遷は、その内容に照らし、現実に体験した事実について、正確な記憶を逐次喚起していった過程と見ることは甚だ困難である。また、石井が捜査の撹乱を意図して故意に虚偽を述べたとする見方もあり得るが、もともと石井の取調べに対する抵抗力はさまで強いものとは認められず、かつ、石井が公判段階においても、製造事件の起訴事実を基本的には認める態度をとったことに照らすと、そのような見方もとり得ない。

エ 菊井証言の問題点

ところで、菊井は、「レポ途中に河田町に戻った際、玄関前の庭のようになっているところで内藤に会い、しばらく立ち話をした。内藤は、その際、ピース缶の蓋のようなものを手に持っていた」と述べ(九四回菊井証言一三三八六、九部57・9・2同二六九二三)、内藤が缶蓋の穴あけ作業に従事していたことを窺わせるような証言をする。しかし、内藤は右作業に従事したとは述べず、他に、右作業の担当者として内藤の名前を挙げるものもいない。内藤自白によれば、「爆弾製造作業の途中、三〇分くらいで自分の薬品調合が終わった後、増渕か村松の指示で、外に出て約一時間見張りをしたが、その際、菊井と国井がフジテレビ前の通りからアジトに入る路地の入口付近に立っていた」というのであって(48・4・7員面)、製造作業途中、内藤も菊井を見かけたとする点で両名の供述は一致しているが、その状況は大きく相違し、同一の事象を供述しているものと見ることは到底できない。

(7) ガムテープの貼付

ア 雷管結合部のテープの色

本件ピース缶爆弾に使用されているガムテープは、青色ガムテープと茶色ガムテープの二種類であるが、第四章一4(五)で判示したとおり、導火線と工業用雷管の結合部に巻きつけられたガムテープの色が判明しているものは四個であり、それらはいずれも缶体そのものに巻かれたガムテープの色と一致している。

イ 前原自白の問題点

前原は、前記のとおり、被告人ら及び共犯者とされる者らのうち、ただ一人青色ガムテープと茶色ガムテープの二種類が使用されたことを述べるものであるが、「ピース缶にダイナマイト、パチンコ玉、塩素酸カリウムと砂糖の混合物を充填(右混合物は、全部に入れたように思うが、量が足りなくて一部のものには入れられなかったかもしれない。)した後、ほぼ全員で、既に導火線を接続した雷管をピース缶の中央部に埋め込み、蓋の穴から導火線を通した上、蓋を接着剤で固定し、その上からガムテープを巻きつけた。この時、青色ガムテープが足りなくなって、一部に茶色のガムテープも使用した」と供述する(48・3・11員面、48・3・16検面)。右の供述は、青色ガムテープのみを当初使用し、足りなくなって初めて茶色ガムテープを使用したという趣旨か、両方のガムテープを並行して使用していたが、青色ガムテープが先になくなったとの趣旨か、いささか判然としないが(もっとも、後者の趣旨であれば、青色ガムテープが先になくなったことをことさらに述べる必要があるかは疑問があり、前者の可能性が強い。)、前者であるならば結合部に巻かれたガムテープはすべて青色になるはずであって、客観的事実(雷管と導火線の結合部に巻かれているガムテープの色が判明している四個のピース缶爆弾のうち、中野坂上事件の一個は茶色である。)に反するし、また後者の趣旨であれば、缶体に巻きつけられたガムテープの色が確認できる九個のピース缶爆弾のうち、雷管と導火線の結合部に巻かれたガムテープの色が判明しているもの四個のすべてにおいて、缶体のガムテープの色と右結合部のガムテープの色とが互に一致するのはいささか偶然に過ぎよう。いずれにせよ、前原の右自白は証拠物の状態にそぐわず、真実性に乏しいものである。

(8) レポ(見張り)

ア 担当者

爆弾製造時に行われたといういわゆるレポ(見張り)の担当者について、佐古の自白は、「自分が責任者で、実際に担当した者は石井、国井及び井上」、前原の自白は、「井上が時々外に出てレポをしていたと思う。石井もレポをやっていたかもしれない」、増渕の自白は、「石井及び前林」、内藤の自白は、「菊井及び国井。製造作業途中から自分もやった」、石井の自白は、「自分と国井、井上、富岡及び元山」というのであり、菊井証言は、「自分と国井、井上及び石井」というのである。

右のとおり、石井が自分もレポを担当したと述べているほか、レポについて供述する者は、内藤を除き、全員がレポ担当者として石井の名前を挙げており、また内藤も、担当者として石井の名は挙げないものの、「石井は部屋から出たり入ったりしていた。外のレポとの連絡ではないか」(48・3・19検面等)と述べ、石井も何らかの形でレポに関与していたことを窺わせる供述をしているのであって、石井がレポを担当したことについては供述者全員の供述がほぼ一致していると見てよいように思われる。

更に、石井は、前記のとおり、公判段階においてもピース缶爆弾製造の起訴事実を基本的に認める態度をとり、有罪判決(懲役三年、四年間執行猶予)の言渡しを受けて、右判決は確定していること、当部第一五回ないし第一八回各公判に証人として出廷した際も、検察官の主尋問に対しては右同様の態度をとり、弁護人の反対尋問において、日本プラスチック玩具工業協同組合におけるアルバイトの事実を指摘され、アリバイがあるのではないかと問われた後も(右アリバイが客観的に成立するものであることは前記三2(四)(1)のとおり)、「レポをしたことは間違いない。アルバイト期間中と思うが、あるいはやめた後かもしれない」旨供述し(一七回⑦一八一九)、その後九部第一八〇回及び第一八一回各公判に証人として出廷した際も、「アルバイトをやめて以後のことと思うが、河田町アジト付近に立ってレポをした。レポの目的はわからない」旨供述し(九部一八〇回石井証言一五六〇五、一五六〇九等)、目的等についてはともかく、レポをしたこと自体は一貫して認めていることに照らすと、石井が爆弾製造時レポをしたことは間違いない事実であるかの如くである。

また、菊井も、自分がレポを担当したと具体的かつ詳細に述べるが、菊井は公判廷において証人として証言しているのであって、弁護人の強力な反対尋問による吟味をも経ており、その証言内容の信用性は一見高いように見受けられる。

しかしながら、レポに関する石井自白及び菊井証言は、相互に大きく矛盾するほか、菊井証言を裏付けるかのようにも見える内藤自白と共に、看過し得ない多くの疑問点を含んでいる。以下に見るとおりである。

イ 石井自白と菊井証言の不一致

石井の自白の内容は、「佐古の指示で、河田町アジトに入る路地入口のパン屋の角に立った。国井と井上がフジテレビ前通りで先端レポに従事し、自分は右両名からの連絡を受け、河田町アジトに中継する役目であった。間もなく、元山と富岡が来たので、パン屋の角付近に三人して立っていたところ、佐古が出て来て、『一緒に立たないで間隔を置いて立ってくれ』と注意され、その際、『四・五機の方を見て来てくれ』とも指示されたので、その方面にレポに出て、一時間くらいして戻った。その後、富岡及び元山と三人でパン屋角から河田町アジト横まで等間隔に立ってレポをした。富岡らの話では、井上は都営住宅方向に、国井は女子医大方向に行っているということだった。なお、途中買物にも行っている」というものであり(48・4・3検面、48・3・20員面、48・3・30員面、48・4・1員面等)、これに対して、菊井証言は、大要、「増渕の指示で、国井、井上及び石井とともにレポを担当した。自分は国井と組み、河田町アジトから東京女子医大を通り、若松町交差点から八・九機方面をぐるっと歩きながらレポをするように指示され、井上は、自分らとは反対側の四・五機(警視庁第四・五機動隊をいう。)方面のレポを指示された。石井は、河田町アジト近くの喫茶店エイトに待機し、自分らあるいは井上からの電話による定期連絡(状況報告)を受け、緊急事態が発生したときは、直ちに河田町アジトに通報するという役割であった。自分はレポの途中何回か(三、四回との証言もある。)エイトに電話したが、石井は最初のころ一度は出たものの、その後は出なかった。ぐるぐる歩き回るうちエイトをのぞいたことがあるが石井はいなかった。結局、その日は、最初レポを始めたとき、エイト前で別れて以来石井とは会っていない」というものであって(九四回、九五回菊井証言一三三八二、一三四二二、九部57・9・2同二六九一九、二六九四二、二七〇四五、二七〇八三、一五六回同三二九一〇等)、両名の供述は大きく相違する。特に、石井が菊井のレポへの関与を否定していることは注目される(石井48・3・20員面によると、増渕が、「菊池((菊井の誤記と認める。))はトラックを探しに行った」と言っていた旨の供述がされている。)。右両名の供述は同一のレポについて述べているものであるはずであるのに、そのように見るのはまことに困難である。

ウ 菊井証言の問題点

菊井証言には、更に以下のような疑問がある。

(ア) レポのコース

本件ピース缶爆弾の製造が、途中何らかの理由で発覚し、警察が検挙に赴くとしても、当初から機動隊が出動するとも思われず、その意味では、菊井が述べるように八・九機あるいは四・五機の様子を窺うというのは無意味である。

また、菊井が歩いたとするレポのコースは、広範囲に過ぎ、かえって、河田町アジトに対する警察の動き等を察知することはできず、レポの意味がないことに帰するのではなかろうか。

(イ) 担当者の配置

右の点はひとまず措くとしても、四・五機方面は井上一名の担当としながら、八・九機方面を菊井と国井の二名の担当とする理由や必要性は何ら窺われず、菊井の証言する本件レポは、極めて非効率的であるとしなければならない。

(ウ) 石井との連絡不能への対処

菊井は、最初の段階での電話連絡を除き、石井と連絡がとれなかった旨供述するが、本件レポにおける石井の役割は、中継役という重要なものであり、石井との連絡がとれないということになれば、レポ途中菊井らが何らかの緊急事態の発生を察知し得たとしても、有効に河田町アジトに伝達することができないことになる。従って、石井と連絡がとれなくなった時点で、菊井としては、河田町アジトに戻り増渕にその旨報告した上、代替措置を求めるのが当然と思われるのであるが、菊井はそのような行動に出たかどうかについて明確に述べないのみならず、その後も何ら代替措置が講じられていないままの状態で、漫然、レポを継続したことに帰する証言をしているのは不可解である。

(エ) 石井との連絡状況

レポに従事中、石井へ電話連絡した状況について、菊井証言は不自然に動揺する。すなわち、菊井は、当初、「エイトに何回か連絡したうち、何回か石井が出ないこともあった」(九四回菊井証言一三三八四)、「何回かエイトに電話したうち、その中で石井が電話に出て来ないことがあったのでグルグル回るうちにエイトをのぞいたことがあったが、石井はいなかった」(九五回同一三四二五)と述べ、不十分ながら石井との連絡がとれていたかの如き供述をしていたのに、九部57・9・2期日外尋問における証言では、「石井が電話に出たのは一度くらいあったと思う」(二六九一九)、「石井が電話に出たのはせいぜい一回くらいである。電話に出たのは、おそらく一番早い段階である。一番最初電話を入れたとき石井はいたが、その後入れたときは出なかった。電話をしたのは全部で三、四回くらいである」(二六九九五)、「一番最初かけたところ、いなくて、おかしいということで、すぐかけ直し、すぐ出たということだったかもしれない」(二七〇四五)と述べ、更に第一五六回公判においても、「一番最初電話を入れたときか、あるいは入れたが出なかったため、すぐ入れ直して出たのか、とにかく最初の段階では石井に通じている。全部で三、四回くらい電話をいれているが、その後は石井は出なかった」(三二九一一)と述べ、石井と連絡がとれたのは最初の(あるいは最初のころの)一回だけであとは連絡がとれなかった旨供述を変更するのであるが、右のような供述変更は、記憶の喚起によるものと見ることはできず、また、第九四回及び第九五回公判(昭和五四年一〇月二三日及び一一月九日)から九部の期日外尋問(昭和五七年九月二日)に至る時日の経過はあるものの、石井と電話連絡できたのが一回だけであったかどうかという、重要でもあり、単純でもある事柄について、一〇年後の証言から、一三年後の証言までの間に、あらためて記憶が変容するということは、うなずけないように思われる。

(オ) レポ従事の態度

菊井は、レポに出た当初は緊張していたものの、次第に緊張感が薄れ、国井と二人で、若松町交差点近くの若松町食堂で食事をしたり、スナックでコーヒーを飲んだりして、適当にやっていたと供述するのであるが、当時の情勢は、本件爆弾製造の直前であるはずである一〇月九日の巣鴨駅前派出所及び池袋警察署襲撃未遂事件の際、L研関係者であった今井誠が水戸駅で逮捕されるという事態もあって緊迫しており、その関係から、警察当局によって、L研の中心的アジトであった河田町アジトが捜索される虞もあったばかりでなく、そもそも、現に爆弾製造が進行中のレポを担当している者としては甚だ緊張感に欠けた不自然な行動ではなかろうか。

更に、若松町食堂あるいはスナックに行った時期について、当初は、「最初のうちは、二人ともまじめにやっていたが、その日は昼食を食べておらず、空腹になってくるし、警察が踏みこむことはまずないし、製造中に誤って爆発して吹っとぶかしなければばれるとかいうことはないだろうという話になり、だんだんだれて来て、若松町食堂やスナックに行ったりした」と述べ(九五回菊井証言一三四二四)、相当程度レポをした後であるかの如きニュアンスの証言をしていたが、その後、九部57・9・2期日外尋問においては、「(若松町)食堂やスナックに行ったのは、一回目のレポの時である」(二七〇〇一)と述べ、最終的には、第一五六回公判において、「レポに出発し、河田町交差点に出た後、すぐに(若松町)食堂に行き、続いてスナックに行った」と供述し(三二九一二)、結局、当初からほとんどまともなレポをしていなかったことを述べるのであって、右のような供述の変遷は、その内容であるレポ従事の態度の呑気さと相まって、前記行動の非現実性を一段と顕著ならしめるように思われる。

(カ) レポの所要時間

九部57・9・2期日外尋問において、レポの所要時間につき菊井が述べるところには、一周に一時間程度を要したと繰返し証言しながら(五二三一五、五二三二〇、五二三六六、五二三六八)、突然、その間、食事とコーヒーに一時間を費したこともあり、時間はバラバラであるとも述べる(五二三七一)など、不自然な動揺を見せ、証言の現実性を薄めるように思われる点がある。

(キ) 48・4・2員面

検察官は、菊井48・4・2員面に「たしか国井君と一緒ではなかったかと思いますが河田町アジト近くのフジテレビ裏の方を二人で何かブラブラ歩いたりしたことがあったような気がしますので、もしかするとその日が爆弾製造当日であり、その私達がいまお尋ねの外周警戒の任務に着いていたということであったかも知れません」との供述が録取されている点をとらえ、「菊井は当時否認の態度をとりつつも、自ら事件に加功していたため完全には否定し切れなくなり、あるいは取調べに対し、つい口を滑らせて自己の知る所を述べてしまったと認められるのである」と主張する(論告要旨六八三三五五三)。右供述は、見方によっては、菊井が昭和四八年三月段階から一貫して国井とのレポを認めていることになり、菊井証言の信用性を高めるもののようにも見える。そして、菊井は、右の供述が録取された経緯について、「取調べの中で、取調官から問いつめられ、嘘を言ってごまかしてほこ先をかわそうとしたけれども、追いつめられてそれ以上の言逃れが苦しくなってしまった。ほかの被疑者たちからも私がレポをしたというような供述も当時出ていたようなので、これはひょっとしたら逃げきれないかも知れないと判断した。それで、自分としては、素直に認めてしまっては元も子もないので、できるだけごまかそうと考えてそのような供述になった」旨検察官の主張に沿うかの如き証言をしているのである(九部57・9・2菊井証言二六八六八)。

ところで、菊井の右員面は、内容的に、内藤48・3・22員面(更に48・3・23検面)に酷似しており、菊井が当時取調官から内藤の自白を基に追及を受けたことを窺わせる(菊井は、昭和四八年段階の取調べにおいては、自発的に供述した事項はなく、専ら他の共犯者の供述に基づいて追及を受けたと証言する。九七回菊井証言一三七二五等)。しかし、昭和四八年四月二日段階において、共犯者とされる者らのうち、菊井がレポに従事したことを供述していたのは内藤だけであり、かつ、目撃者等その裏付けはとられていなかったと認められる捜査の進展状況及び菊井の性格に照らすと、菊井が、「追い詰められ、言い逃れが苦しくなった」との心理状態にまで立ち至ったと述べる点はたやすく信じ難い。

また、菊井は48・3・28員面(署名押印拒否)においては、前原から、「八・九機は自分がやった」と聞いた旨供述しており、このことは、当時前原自白に基づいても追及がなされたことを推認させるものであるが、前原自白によれば、菊井は、レポでなく、ダイナマイト等の充填作業を担当していたというのである。

そこで考えてみると、検察官の主張にも拘らず、菊井48・4・2員面供述の経緯は、次のように解することができるのではなかろうか。すなわち、右員面録取当時、菊井は、前原自白に基づき、「ダイナマイトを充填しなかったか」と追及され、他方内藤自白に基づき、「国井とレポをしていたのではないか」と追及されていたが(「ダイナマイトを詰めたのではないか」「レポをしたことはないか」などとの追及があったこと自体は菊井も認めるところである。九七回菊井証言一三七二五)、そうするうちに、場合によっては共犯者の自白によって起訴されることもあるかもしれないと危惧し始め、それならば起訴に備え、関与の度合が軽いと考えられるレポを曖昧に認めておいた方が得策だと考え、内藤自白に合わせる形で供述した、とする見方である。このような見方の成立する可能性はたやすく否定できないように思われ、そうだとすれば、48・4・2員面の前記供述は虚偽であり、むしろ菊井証言の信用性を減殺する方向に働くものと見るべきこととなるであろう。

エ 内藤自白の問題点

内藤の自白によれば、「製造作業の途中、外に出て一時間くらい見張りをしたが、その際、菊井と国井がフジテレビ前通りから河田町アジトに入る路地に立っていた。多分レポをしていたものと思う」というのであり(48・4・9検面、48・4・7員面。なお48・3・22員面、48・3・23検面)、菊井証言を一見裏づけるものの如くであるが、内藤の本件ピース缶爆弾製造事件に関する自白には、内容的にこれまで種々指摘して来たような疑問点が存し、菊井のレポに関する供述部分についてのみその信用性を肯定することはできないばかりか、この点に関する供述についても次のような疑問を指摘することができる。すなわち、内藤は、当初、製造の途中に外に出たことを述べず、かつ、菊井、国井についても具体的行動を思い出せないと供述していたのに(48・3・10員面、48・3・19検面等)、48・3・22員面に至り、突然、河田町アジトの外に出た旨述べ、かつ、菊井、国井のレポについて供述し始め、更に、外に出た目的については、右員面及び48・3・23検面では喫煙の目的と述べていたのに、48・4・7員面及び48・4・9検面では見張りの目的と供述を変更し、かつ、以上いずれの供述変更についても、その理由としては、単に記憶違いであったとか、はっきりしないことをはっきりしているように言っていたと述べる程度で、特段、納得できるような説明はないのである。右のような供述の変遷を、現実体験についての正しい記憶がしだいに呼び戻されて来た過程と見ることは困難である。

オ 石井自白の問題点

石井自白には、以下のような疑問がある。

(ア) レポの方式

本件ピース缶爆弾の製造は、事の性質上隠密裡に実行される必要があり、決して第三者に不審を抱かせぬよう十分な配慮のもとに行われるべきものである。もとよりレポも例外ではない。ところが、石井自白によれば、石井は、昼過ぎころから夕方まで、パン屋の角に立ち、あるいは富岡及び元山と三人で、パイプ管方式と称してパン屋角から河田町アジト横までの区間を等間隔に立ってレポをした(なお、その間、石井は一時間ほど四・五機方面に偵察に出かけ、あるいは買物に出たことはあったが、そのような場合には、富岡らにおいて、パン屋の角に佇立していた)というのである。しかし、このようなレポ方法は、短時間であれば格別、長時間にわたる場合には、かえって人目を引き、パン屋の従業員や近隣居住者、通行人等に不審を抱かせるに十分であり、レポの趣旨に大きく背馳するものであって、現実的でなく、不自然極まりない。

また、パイプ管方式と称して石井ら三名が等間隔に並んだとする点も、パン屋の角から河田町アジト横までは約一八メートル弱に過ぎず((員)田村卓省48・1・23検証三三二〇一、三三二二二)、三名が並ぶ必要性は全くないことに照らし、まことに不自然、不合理なレポ方法としなければならない。

(イ) 連絡方法(黄色い旗)

石井自白によれば、先端レポの国井及び井上との連絡方法は、国井らにおいて、道路横断用の黄色い旗を持って行っており、その旗で合図をすることになっていたというのであるが(48・4・3検面)、このような、人目を惹き、不審感を招きやすいと思われる連絡方法をとるというのは奇妙であり、不自然である。

(ウ) 元山、富岡の参加

石井は元山及び富岡もレポに参加した旨述べるが、菊井及び内藤の曖昧で信用し難い供述を除けば、他に同旨の供述はなく、右供述の真実性は疑わしい。

(エ) 遅い自白

石井は、昭和四八年三月一三日ピース缶爆弾事件により逮捕され、勾留後、同年四月一日に至り、ようやく詳細な自白をするのであるが、石井は元来活動家というのではなく、当時同棲していた村松にいわば引きずられる形でL研に出入りしていたものと認められ、昭和四六年五月ころ村松と別れてからは両親のもとに帰り、活動には一切関与していなかったのであって、取調に対する石井の抵抗力はさまで強いものとは認められないことに照らすと、自白の時期が右のとおり遅いのは、製造に参加したことを頑強に秘匿していたというよりも、自白すべき事実を持たなかったことによるのではないかとの見方が成立つであろう。

(オ) 佐古員面との酷似

石井のレポに関する供述、すなわちレポ開始の状況及びレポの具体的方法に関する供述は、実は、富岡及び元山の参加並びに国井らとの連絡方法の点を除き、佐古48・3・9Ⅰ、Ⅱ各員面(及び48・3・26Ⅰ検面)に酷似している。すなわち、右各員面によれば「製造前日の謀議の段階で、レポについては、石井がパン屋角に立ち、国井及び井上がフジテレビ前通りを歩き、石井が国井らの合図を受けて河田町アジトに連絡することになった。製造当日、石井は、エイトに待機していた国井及び井上に連絡を取りレポに立った。自分は、製造作業中石井からレポの連絡を受けたりした。途中、砂糖を買いに外に出たところ、石井がパン屋の角におり、国井が女子医大方向の歩道上に、井上が五機方向の都営住宅前にそれぞれ立っているのを見た」というのであって、佐古がレポの具体的方法として述べるところは、前記(ア)で指摘したところが妥当するまことに不自然な内容であるが、これが石井自白にもほとんどそのままの形で現われているのである。このことは、石井供述と佐古供述との酷似が、同一の現実体験についての供述であるが故の一致でなく、石井が、佐古の右自白に基づいて追及を受けた結果、これに合わせた供述をしたためであることを窺わせるものであると言えよう。

(カ) 石井自白の要因

以上見て来たとおり、石井のレポに関する自白は不自然、不合理な点が多く、真実性に乏しいのであるが、他面、石井が、既に繰返し述べたとおり、公判段階に至っても起訴事実を基本的に認める立場をとっていること、また石井の取調べに対する抵抗力がさまで強いものと認め難いことに照らすと、石井が、捜査の攪乱を図り、あるいは将来の裁判段階で争う余地を残すため、ことさらに虚偽の事実を供述したものとは考えにくい。更に、石井は、日本プラスチック玩具協同組合におけるアルバイトの事実を指摘されてからも、なお、「アルバイトをやめて以後と思うが、河田町アジトに村松を探しに行ったところ、何の目的かわからないが、誰かからレポをやってくれと頼まれて、数分立っていた記憶がある。レポの際、河田町アジトでは佐古、富岡と会っている。他に誰かいたかは覚えていない」と述べる(九部一八〇回石井証言一五六〇九、一五六一五、一五六一七)など、河田町アジト付近におけるレポの経験を供述するのである。以上の諸点から見て、石井には目的ははっきりしないものの、そのようなレポをした断片的な記憶が残っているものと認めるべきである。しかしながら、そのことは、直ちにピース缶爆弾の製造時にレポしたことにつながるものではなく、かえって、他の機会にレポあるいはそれに類似するような行動をしたことがあり、その記憶が断片的に残っていたのではないかと思わせる(石井は否定するが、佐古公判供述等によると、石井が佐古らによる一〇月三一日の河田町アジトからの引越しの現場に現れたことが認められ、右引越しは家主に気づかれぬよう秘かに行われる必要があった関係で、石井を見張りに立たせるようなこともあったのではないかと考えられ、その記憶が変容して残存したとの見方もあり得る。)。

そこで、石井が前記のような自白をするに至ったのは、前記のとおり、佐古自白に基づいて追及を受ける過程で、右のような断片的な記憶があったため、あるいは増渕、佐古らが自分には知らせないまま爆弾を製造し、その際レポをさせられたのかもしれないなどと思うようになり、右の断片的な記憶を佐古自白に結びつけ、迎合して供述したことによると考えてよいのではあるまいか。

6  完成品の処分

(一) 自白の概要

完成したピース缶爆弾の河田町アジトからの搬出状況に関する被告人ら及び共犯者とされる者らの自白は次のとおりである。

佐古 製造後、増渕が黒色ビニール製鞄に詰めて河田町アジトから持って出ていった。(48・3・26Ⅰ検面)

前原 製造当日、赤軍派の者(花園のような気がする。)が来て、増渕と一緒に何個か持ち出した。残りの爆弾は、ダンボール箱に入れ、河田町アジトの押入れに保管していたが、一〇月二一日午前一〇時ころ、一〇個位の爆弾をバッグ一、二個に詰め、増渕及び堀と共に、これを持って大久保駅に行った。自分はそこで別れたが、増渕と堀は、それを持って東薬大の方に歩いて行った。(48・3・28検面、48・4・6検面)

村松 午後五時ころ花園が来て爆弾を持ち帰った。(48・3・24検面)

増渕 製造当日、村松らに爆弾を赤軍派に渡すように指示して自分は帰った。同月二一日夏目に連絡したところ、爆弾が赤軍派に渡っていないということだったので、まだ河田町アジトにあると思い、夏目に対し、L研の者に爆弾を赤軍派に持って行くよう伝えてくれと依頼した。(48・3・23検面)

内藤 花園が取りに来たように思う。花園が来ると増渕が爆弾を黒色鞄に入れて一緒に出て行った。(48・3・28検面、48・4・9検面)

菊井証言 これに対し、菊井証言は、「午後五時ころ、河田町アジトに戻ったところ、完成したピース缶爆弾が部屋の真中と机の下にあった。増渕が皆の労をねぎらった後、自分は帰った。その後爆弾がどう処理されたかはわからない。誰かが取りに来たとすれば自分が帰った後ではないか。レポ中に来ているかもしれないが、そういう人には会っていない」というものである(九五回菊井証言一三四二九、九部57・9・2同二六九五五)。

(二) 相互不一致

佐古、村松及び内藤の各自白は、爆弾は製造当日河田町アジトから搬出されたというのに対し、前原の自白は、一〇月二一日まで河田町アジトに保管されていたものがあるというのであって、大きく相違する。増渕の自白も一〇月二一日までに赤軍派に渡っていないというものであって、その点では前原自白に近い内容ともいえるが、同日の爆弾搬出状況に関して述べるところが前原自白とは全く符合しない。

(三) 内藤自白の問題点

内藤は、花園が取りに来た旨述べる。しかし内藤は、昭和四八年三月一〇日、八・九機事件について濱田検事の取調べを受けた際、花園の写真を呈示されながら、それが誰であるか見分けがつかなかったのであって(48・3・10検面、九部二〇九回濱田証言二一八〇一)、濱田検事も、内藤は八・九機事件に花園が関与していると述べたけれども、当時そういう心証はとれなかったと証言している(九部二一〇回濱田証言二一九〇八等)くらいであるから、右供述の信用性には多大の疑問がある。なお、この点については村松自白が先行しており、かつ、内藤は当初爆弾の搬出について何も述べていなかったのに、48・3・25員面に至り初めて前記のような供述をしたものであることを考えると、内藤は村松自白を基に追及され、安易にこれに迎合した可能性が強い。

(四) 客観的事実との不整合(前原、増渕自白)

さきに判示したように(第四章一3(二)(1))、一〇月二一日昼ころ、赤軍派の若宮正則らによって、東京都渋谷区千駄ヶ谷所在の日本デザインスクール寮の中條某の居室に菓子箱二個に収納されたピース缶爆弾が搬入され、その後東薬大に運ばれているのであるが、前原及び増渕の各自白は、その内容が右事実と抵触するように見受けられ、真実性に疑問がある。

殊に、前原は、当初48・3・11員面において、製造当日の爆弾搬出を述べず、「一〇月二一日午後一時ころ東薬大近くの赤軍派アジトでピース缶爆弾を花園に手渡した」と供述していたのに、48・3・22員面で、「製造当日赤軍派の者が来たかも知れないが、それが誰で何のために来たかもはっきりしない」と述べるようになり、48・3・28検面において、前記のように、製造当日、赤軍派の者が一部を持ち出した旨の供述をするに至るのであるが、一〇月二一日のことはおぼえているのに製造当日の搬出は忘れているというのも奇妙なことであり、右のような供述の経過は、正しい記憶を次第に喚起していった過程と見ることは困難である。その反面、前原が、記憶に反し、ことさらに製造当日の搬出のみを隠し立てしたと考えることもできない。そのようなことをすべき理由が見当たらないからである。前原の右供述の変遷は、当初の前原自白が、佐古らの自白と大きく相違し、かつ、京都地方公安調査局事件と矛盾することに気づいた取調官によってその点が追及され、前原がこれに迎合していった結果であると見て差支えないように思われる。

(五) 菊井証言の問題点

菊井は「爆弾はどう処理されたかわからない」旨述べるが、自分達の作った爆弾の行方等は重大な関心事であると考えられることに照らすと、製造日から一〇月二一日にかけて、増渕、佐古らと接触の機会はあったのに、その点を問い質していないのは、いささか不自然である。

四 各自白の信用性

前記一で見たとおり、本件については、公訴事実に沿うかのような前原、村松の各自白のほか、菊井証言をも含め、共犯者とされる者ら多数の自白があり、また、前記二で述べたように、一見、これら自白の信用性を肯定すべきものとするかのように思われる諸事情も存在する。

しかるに、右三において逐一検討したところによれば、右各自白には、本件ピース缶爆弾製造の謀議状況(日時、場所、参加者、内容、その他関連事項)をはじめ、製造の日時あるいは製造参加者、材料や使用された器具、更には具体的な製造作業や完成品の処分をめぐって、深刻な疑問点が多数含まれているばかりでなく、前記二に掲げた諸事情も、子細に検討するときは、結局各自白の信用性を支持するものとは言えないことが判明したのである。

自白についての疑問点は、例えば、自白内容と客観的証拠によって認められる事実との不整合(導火線と雷管の接続方法に関する佐古自白((5(二)(4)))など)、現実にはあり得ないと思われる情景の描写その他自白自体に内在する不合理性ないし不自然性(製造現場におけるパチンコ玉つみ上げに関する菊井証言((4(三)(2)))など)、同一の事象についての共通の認識を示すものであるはずなのに、到底そうとは考えられない程の供述の相互不一致(謀議の場所及び参加者に関する多くの供述((1(三)(1)))など)、自白された事柄と相容れず、その真実性を疑わせるようなアリバイその他の事実の存在(石井アリバイ((2(四)(1)))など)、想起あるいは改悛によって次第に真実が明らかにされて行ったものとは認め難い程に顕著かつ不自然な供述の変遷(製造参加者に関する佐古自白や内藤自白((3(三)(3)及び(4)))など)というようにさまざまであって、その中には、個別的に見れば、当初からの認識の誤りや欠如、本件の時点から自白の時期にいたるまでの時日の経過による記憶の変容あるいは消失、ことさらな虚言ないし真実の秘匿等として説明できるように思われるものもないではないが、そのように断定するに足りる根拠はなく、むしろ、かくも多数かつ多様な疑問点が、これほどまでに関連自白の全般にわたって存在し、しかもそれらが各自白の根幹をなす部分にまで及んでいる以上、もはや、各自白は真実を反映するものではないと評価すべきである。

各自白は、いずれも信用性を著しく欠くものとしなければならない。

五 むすび

以上の次第で、本件ピース缶爆弾製造事件に被告人四名が関与したとする各自白(菊井証言を含む)は、いずれもその信用性が極めて乏しく、これをもって本件公訴事実(ピース缶爆弾製造)と被告人四名との結び付きの確証とすることは到底できないのである。

第九章当裁判所の判断(その六)

―「真犯人」証言(牧田・若宮証言)―

一 はじめに

本件審理の過程において、「真犯人」二名の出現を見ている。すなわち、弁護人の請求に基づき、証人として取調べた牧田吉明は、ピース缶爆弾製造事件の犯人は被告人らでなく、自己を含む数名の者であると供述し、また、同じく弁護側証人である若宮正則は、八・九機事件は自己の単独犯行であって、被告人らはこれと無関係である旨、証言した。

弁護人らは、右両名の証言の信用性を高く評価し、これらにより、本件の実体的真実が解明され、本件が寃罪事件であることは明白になったとし、このことをもって被告人らに対し無罪を言渡すべき有力な論拠のひとつとしている。

これに対し、検察官は、さまざまな疑問点を挙げて右各証言の信用性を論難し、両名は「真犯人」ではあり得ない旨主張する。

既に見たとおり、各公訴事実に沿うかのような内容を有し、本件各犯行の犯人は被告人らであるとする被告人ら及び共犯者とされる者らの各自白は、いずれも信用性に乏しいとするほかはなく、もはやこれらによって被告人らを有罪とすること自体不可能なのであるが、右両名の述べるところは、もしそれが信用すべきものであるならば、本件公訴事実中の重要部分につき、公訴事実と相容れない「真相」を提供し、右各自白の信用性を全面的に無に帰せしめるものである。そこで、右各証言及びこれらに関連して取調べられた少なからぬ証拠について、以下に検討を加える。

二 牧田証言

牧田吉明は、第一三七回公判から第一四三回公判にいたるまでの間、弁護側証人として毎期日出廷し、尋問に答えて、自己がピース缶爆弾の製造に関与している旨、詳細な証言をした(一三七回牧田証言二四三七〇、一三八回同二四四五八、一三九回同三四六三二、一四〇回同二四六九九、一四一回同二四八四八、一四二回同二四九八三、一四三回同二五一四八)。

そして、弁護人らは、牧田が証言するとおり、本件ピース缶爆弾は牧田らにおいて製造したものであって、被告人らが製造したものではない旨、主張し(最終弁論一七九三三八五七)、検察官はこれを争う(論告要旨一〇二三三五七〇)のである。

そこでまず、証言の概要を掲げ、次いでその信用性を検討する。

1  証言の概要

牧田は、昭和四四年春ころから、新左翼諸派が武装闘争を呼号しながら実行しないことに不満を覚え、手製爆弾を製造してこれらに配付し、言ったことは実行させようなどと考えるようになったが、同年九月中旬ころ、爆弾材料入手の可能性を探る下見のため、かねてからこのような計画についての賛同を得ていた三潴末雄、桂木行人及びA若しくはB(或は二人ともいなかったかも知れない)のほか、事情を知らない大学の後輩某と共に、東京都西多摩郡方面に自動車で出かけ、五日市町内の採石場や奥多摩町小川谷あるいは同町日原方面の林道などを見て廻ったところ、日原地内で林道開設工事が行われているのを見かけ、付近にはダイナマイト等の火薬類が保管されているとの感触を得た。

そこで、牧田は、あらためて、爆弾材料にする火薬類を入手するため、同月中、下旬の連休の終りの日、すなわち同月一五日(月曜日で敬老の日)又は二三日(火曜日で秋分の日)の夕方を選んで窃取を敢行した。このような日を選んだのは、休日には工事が休みで火薬庫近くには人がおらず、盗みには好都合と思われる一方、休日を利用する登山者、ハイカーを装うのにも便宜であり、特に連休の終りの日の夕方ならば、一般の登山者、ハイカーは引き揚げてしまった後で、自分たちの行動が人目につき難いと考えたからである。

当日、牧田は、Aと共に天祖山登山口から山中に入り、山腹を巻いている中段林道(正式には名栗林道)を通って、途中から山裾の日原林道に降り立ち、少し歩くうちに谷川の方へ通じる人の踏み跡のような小径を発見して、これを辿ると、犬小屋を大きくしたような、火薬庫と思われるものがあった。ボックス型のシリンダー錠で施錠してあったが、火薬庫の前側に手をかけて持ち上げてみると下から鍵が出て来たので、これを用いて解錠し、中にあったダイナマイト一箱(二二・五キログラムと表示されたもの)、導火線一巻(約一〇メートル)、工業用雷管一箱(一〇〇個位)及び電気雷管ポリ袋入り一袋(二〇個前後)を窃取して持ち帰った。

右ダイナマイト等は、即日、三潴らの手で埼玉県所沢市こぶし団地内の一室に搬入した上、一週間ほどして東京都小金井市内の国鉄中央線東小金井駅南口に近いアジトに移し、同年九月下旬から一〇月中旬にかけて、同所で、桂木、三潴、A及びBらがこれを用い、ピースの空缶にダイナマイト、パチンコ玉等を充填した爆弾本体約五〇個ないし一〇〇個を製造した。

一〇月上旬ころ、牧田は、関西アナキストグループに配付するため、上京中の大村寿雄に右本体四、五個を交付し、一両日後、桂木と共に京都に赴いて大村に導火線、工業用雷管を手渡した。

同月中旬ころ、牧田は、赤軍派に配付する趣旨で、まず田辺繁治に対し、本体四、五個を、次いで田辺及び小俣昌道に対し、本体数十個を、それぞれ所要の導火線、工業用雷管及び電気雷管と一括して交付した。

また、そのころ、三潴も、その所属する共産同叛旗派に対し、右赤軍派に対するものと同数位、若しくはそれ以上を配付した模様である。

その後、昭和四四年末までの間に、牧田は、田辺から、八・九機事件とアメリカ文化センター事件は赤軍派のやったことである旨、聞いたことがある。

いずれにせよ、京都地方公安調査局事件、琵琶湖解体事件、中野坂上事件、八・九機事件、アメリカ文化センター事件、福ちゃん荘事件、中大会館事件及び松戸市岡崎アパート事件の各爆弾は、牧田らの提供した爆弾本体、導火線及び雷管を用いたもののはずであり、被告人らは、これらの爆弾の製造とは無関係である。

窃取したダイナマイト、導火線及び雷管は、右製造に約二分の一から三分の二を使用したが、残りは、桂木が、翌昭和四五年春ころまでに、降雨で増水している時を見計らって多摩川に投棄したと聞いている。

以上が牧田の供述したところの大要である。

なお、牧田は、反対尋問において、証言中に出て来る前記A及びB、下見の際の同行者である大学の後輩某のほか、大村に対し導火線等を手渡した際に居合わせたという者の各氏名を問われたけれども、これらについては証言を拒絶した。

また、牧田証言において、関係者として氏名を挙げられ、検察官から証人尋問の請求がなされた三潴末雄、桂木行人、田辺繁治及び小俣昌道は、いずれも召喚を受けて出廷しながら宣誓を拒絶して証言するに至らず、大村寿雄は、同様にして召喚を受けながら出頭せず、結局、検察官は、同人が証言する見込みもないとしてその請求を撤回した。

2  証言の信用性に関する肯定的事情

まず、牧田証言の信用性を肯定する方向に働く事情として、以下の諸点が指摘されよう。

(一) 盗難被害の存在

牧田証言は、昭和四四年九月、奥多摩町日原地内の林道工事現場付近の火薬庫から爆弾材料としてダイナマイト、導火線等を窃取したというものであるところ、これに見合う被害事実の存在が、右証言を契機として明らかになっている。

すなわち、一四八回島崎恒利証言二五八〇六(以下「島崎証言」という。)によれば、当時、東京都西多摩郡奥多摩町留浦所在島崎建設工業株式会社(当時の代表取締役島崎利八。以下「島崎建設」という。)は、東京都から奥多摩町日原字孫惣谷地内における日原川に沿った林道日原線の建設工事を請負い、現に工事を進行させていたが、同工事の実質的責任者であり、利八の息子である島崎恒利は、九月のある日、手許のダイナマイト残量が少なくなったため、火薬類購入先の有限会社和井田商会(以下「和井田商会」という。)からダイマナイト一箱(二二・五キログラム入り)等を購入し、現場近くに仮設していた庫外貯蔵庫に収納、保管した上、翌日午前八時三〇分ころ、単身、右庫外貯蔵庫に赴いたところ、少なくとも、前日購入したばかりのダイナマイト一箱のほか、導火線一巻き(一〇メートル)、工業用雷管一箱(一〇〇個入り)が盗まれているのを発見したため、誰にもそのことを告げないまま、当日の発破作業を中止し、父の利八と秘かに善後策を相談した結果、盗難事実を警察に届けるときは林道工事を一時停止せざるを得なくなること等を勘案し、この際、警察には届け出ないこととして、盗難被害に気づいた当日か、遅くともその翌日、和井田商会からあらためて別のダイナマイト一箱を購入して工事を継続し、以来、牧田証言に関する報道があって後、警察からの二回目の問合わせに応じるまで、右事実を父以外の何びとにも秘匿し続けてきたことが認められるのである。

それ故、右窃盗被害は、牧田証言を契機として補充捜査が行なわれるまでの間、犯人及びその関係者以外の者には知られていなかったはずであり、右ダイナマイト等の窃盗に関する牧田証言は重大な秘密の暴露であるとひとまず言い得るものである。

(二) 盗難現場の状況

火薬庫(庫外貯蔵庫)の設置状況、その形状、鍵の所在場所に関する牧田証言は島崎恒利証言とほぼ符合する。特に、「火薬庫は施錠されていたため、火薬庫の前の部分を持ち上げてみるとその下に鍵が隠されていた」旨の牧田証言は、島崎証言によって裏付けられたが、盗難被害にあった場合の結果の重大性等に鑑みると、火薬庫(庫外貯蔵庫)の鍵は厳重に管理、保管されているものと考えるのが常識的で、火薬庫の下に隠匿されているなどとは通常想像もできないと思われるから、この点も、現実に体験した者の認識に基づく供述として、秘密の暴露といってよいであろう。

なお、火薬庫(庫外貯蔵庫)のひさしの有無、周囲の有刺鉄線の有無に関しては、牧田証言は島崎証言から認められる客観的事実と齟齬するが、牧田証言は、体験してから約一三年を経過した時点でなされたものであるところ、右のような点は比較的細部にわたる事柄であることを考えると、これについて記憶が希薄化ないし消失することは十分にあり得ることであって異とするに足りない。

(三) 盗難品の形状等

窃取した爆弾材料の形状等(例えばダイナマイトの梱包状況、工業用雷管の収納状況)に関する牧田証言は、旭化成化薬事業部長57・7・15回答(二三五七五ないし二五五八九)及び島崎証言から認められる客観的事実におおむね符合する。

(四) 京都地方公安調査局事件(琵琶湖解体事件を含む。)とのかかわり

京都地方公安調査局事件(琵琶湖解体事件を含む。)のピース缶爆弾は、第四章一3(一)で判示したとおり、本件に関連するその余のピース缶爆弾と同一の機会に同一のグループによって製造されたものと推認されるところ、以下に述べるとおり、牧田証言を除外したその余の関係証拠により、右爆弾を京都地方公安調査局事件の犯人である大村寿雄に交付したのは牧田である蓋然性が極めて高いと認められるのであって、このことは牧田が右爆弾の製造にも関与していることを窺わせ、牧田証言を裏付けるかのようである。

牧田証言を除くその余の関係証拠によって認められる事実の大要は次のとおりである。

昭和四四年一〇月一七日の京都地方公安調査局事件後も、同事件に使用されなかったピース缶爆弾一個は、依然として杉本嘉男方に寄蔵されていたが、同年一一月初めころ、杉本及び大村は、女性二名と共に上京し、東京都目黒区大橋所在佐藤フラット二〇二号室牧田方を訪ね、その際、大村が牧田及びその場に居合わせた三潴に対し、同事件の具体的状況について話した。その後、杉本は大村のいない席で、牧田から「爆弾がもう一個残っているだろう。京都へ帰ったらすぐほかしてくれ(棄ててくれ、の意)」と言われたが、その様子から、大村に右爆弾を交付したのは牧田であると直感した(なお、杉本49・9・30員面九五二一、九五三二のように、上京前大村から右爆弾は東京の牧田の所に取りに行ったと聞いた旨明言する供述もある。もっとも、54・6・25杉本証言一二五一二において、杉本は、「大村から入手経路は聞いていない。聞くなといわれた記憶がある。東京から持って来たものと思っていたので、大村から聞いたものと勘違いした面もある」などと述べている。一二五四二、一二五五四、一二五六五、一二五七〇)。杉本が京都に帰るに際し、牧田は、杉本及び三潴に対し、ホテル「紅葉」(滋賀県大津市所在)を予約しておくから、二人で同所に赴き、爆弾を処分するようにと依頼した。杉本は京都に戻るや、直ちに右爆弾を持ち出し、ホテル「紅葉」の一室で三潴と落ち合った。三潴は、同所において、準備した手袋をはめ、右爆弾を解体したり、ダイナマイトや雷管について杉本に説明したりしたが、その作業の様子を見た杉本は、三潴が爆弾の構造を十分のみこんでいると思った。その後、右両名で解体した爆弾を琵琶湖に投棄した。

なお、三潴は、右解体投棄の所為を爆発物取締罰則九条違反に問われ、牧田はその教唆犯として、いずれも昭和五一年三月四日京都地方裁判所において、有罪判決の言渡しを受けている(以上の事実につき、第四章一3(一)末尾挙示の各証拠。ただし京都地裁(牧田外)七回牧田吉明供述一〇二九一を除き、京都地裁昭和五一年三月四日宣告の判決書一〇三七二を加える。)。

以上の事実、ことに牧田が大村を差し置いて杉本に対しピース缶爆弾の解体を指示し、解体場所まで手配した上、腹心の三潴を差し向け、三潴においてほとんど全部の解体を実行した事実は、右ピース缶爆弾は牧田が大村に交付したものであり、上京した際における大村の京都地方公安調査局事件に関する軽々しい言動を見て不安を感じた牧田が、更なる軽挙を封じるため、解体を指示したということを推認させ、ひいて、前述のとおり、牧田がその製造にも何らかの形で関与しているのではないかということを強く窺わせるものである。

(五) 採用できない諸点

弁護人らは、牧田証言の信用性を肯定すべき事情として、更に次のような点を指摘する。

(1) 前田証言

前田祐一の証言中、「一〇月の赤軍派の会議において、『爆弾は京都の大学院生(赤軍派に非常に近いブント系と思う。)が作れるので、渡りをつけ、調達できるようにする。渡りをつけに行くのは赤軍派の中央委員クラスの者である』と聞いた」とする点は(一一五回前田証言一七四八七、一七四〇〇)、赤軍派が、当時、赤軍派の非公然メンバーで京都大学全共闘の有力メンバーであった田辺繁治及び小俣昌道を通じて牧田からピース缶爆弾を入手したとする牧田証言に微妙に符合し、これを裏付けるもののようであること(最終弁論一九七三三八六六)

(2) 平田安豊の「製造」

古川証言中には、「昭和四六年夏ころ、元赤軍派の平田安豊から、『大森近くのアパートで、自分外三名でピース缶爆弾を作った』旨聞いた。平田は、その後、昭和四八年六月ころ獄中で死亡した」とする点があるところ(九二回古川証言一二九四六、九三回同一三〇七二等)、牧田証言によれば、牧田から田辺らを経由して赤軍派に配付されたピース缶爆弾は缶体と導火線、雷管がそれぞれ分離されたままであったとのことで、従って、その後、赤軍派の手によって、雷管を導火線と接続した上、缶体内の爆薬に挿入する工程が必要であったということになるのであるが、平田らの「製造」作業とは、まさにその工程を担当したものと見ることができ、その意味で、右古川証言は牧田証言を裏付けるものであること(最終弁論一九九、二六六三三八六七、三三九〇一)

(3) 名指された者らの態度

牧田がピース缶爆弾事件の関与者として実名を挙げた三潴、桂木、田辺及び小俣、更には大村は、いずれも宣誓拒絶あるいは不出頭の態度をとっているところ、牧田証言が右の者らにとって身に覚えのないことであるならば、同人らの現在の社会的地位、身分等からして、むしろ積極的に出廷、証言して、牧田証言に反駁し、身の疑いを晴らそうとすることこそ自然であると考えられるから、同人らが右のような態度を示すことは、消極的ながら牧田証言の真実性の一徴表と見るべきであること(最終弁論二〇〇三三八六八)

以上である。

しかしながら、弁護人らの右指摘は、いずれも傾聴すべき点を含むものの、以下に述べるような問題があって、その見解には賛同し難い。すなわち、

(1)の前田証言は、もともと伝聞供述である上、その内容が曖昧であり、かつ、右証言の日(昭和五六年二月二三日)からわずか三か月余を経てなされた九部二三二回前田証言(同年六月二日、二二七四四)において、証言内容にかなりの動揺を見せているなど、その信用性にも疑問があり(なお、牧田証言によれば、牧田は、昭和五四年一一月ころ以降、牧田証言の内容となったような事項を本件弁護人らに述べているとのことであるから、前田は右証言の時期である昭和五六年二月には、既に被告人らを通じるなどして牧田の証言すべき事項の概要を知っていた可能性も否定できない。)、

(2)の古川証言も、具体性に乏しい伝聞供述であるに過ぎず、特に、平田らの「製造」の具体的内容については聞知していないということであり(九三回古川証言一三〇八一)、これが弁護人らの主張するような、単なる一工程のことであるとは必ずしも受け取り難く、見方によっては全体の製造を意味し、牧田証言とはむしろ相反するものと言えなくもないし、

(3)の点は、牧田証言によってこれらの者が微妙な立場に追い込まれたことは推認するに難くなく、また、これらの者が、こぞって、証言を回避する態度を示し、かつ、宣誓拒絶の理由として述べるところも格別説得力に富むものでなかったことは、まぎれもない事実であるけれども、右のような立場に立った者の対応が、自ら証言することによる反駁以外にあり得ないとも言えず、またその方法をとらなかったことが、牧田証言の関係部分が真実であることによるものであると一義的に確定することもできない。

それ故、弁護人ら指摘の諸点は、牧田証言の内容を裏付け、その信用性を肯定すべき根拠として、かなり有力なものではあるけれども、十分な確実性を有していると言うことができない。

3  問題点

他方、牧田証言の信用性に関しては、以下のような問題点が存する。

(一) 証言の拒絶

牧田は、証人尋問において多くの事項を証言したけれども、爆弾製造に関与した一部の者(前記A及びB)、ダイナマイト入手の下見に赴いた際運転をした者あるいは大村に京都で雷管、導火線を手交した際同席した者の氏名については証言することを拒み、その理由とするところが刑事訴訟法所定の証言拒絶事由にあたらない旨及び事案解明のため必要と認められるのでその点につき証言をすべき旨の説示にもかかわらず、あえて恣意的な証言拒絶を貫いた結果、この関係では対立当事者による信憑性のテストないし裏付け調査の途が塞がれ、ひいて証言の完結性が損われており、結局、牧田は、その関与したと称するダイナマイト窃取や爆弾製造につき、事実の全容を明らかにし、裁判所の十分な吟味に供したとは到底言えないのであって、このことは、牧田証言全体の信用性に対する大きなマイナス因子であるばかりでなく、特に、共犯者と目される者らの一部につき、その氏名をあくまで秘匿したことは、その証言中、被告人らがピース缶爆弾製造に無関係であるとする点の迫力を著しく減殺するものであるとしなければならない。

(二) 窃取の日及びダイナマイトの種類

牧田証言は、ダイナマイト窃取の日にち及び窃取したダイナマイトの種類の点において、島崎証言及び和井田商会の帳簿により客観的に認められる事実との間に、以下に述べるとおりの食い違いを示す。

(1) 前提事実

島崎証言によれば、前記盗難被害のため、島崎建設は、結果的にダイナマイトを二日連続して、あるいは中一日置いて二回、購入したことになったというのであるが、購入先である和井田商会の火薬類取引明細簿五冊(符九七ないし一〇一。以下単に「明細簿」という。)によれば、昭和四四年八月及び九月に、和井田商会が島崎建設に対し、中一日置いて二回ダイナマイトを販売したことはなく、二日連続して販売しているのは九月九日と同月一〇日だけである。従って、島崎建設の盗難被害の日時は、同月九日から翌一〇日早朝の間であり、かつ、帳簿の記載に従い、盗取されたダイナマイトは、同月九日に購入された旭化成製三号桐ダイナマイト(直径三〇ミリメートル、重さ一〇〇グラム。以下三〇×一〇〇と記載してこの趣旨を表わすこととする。)である可能性が極めて高いこととなる(なお、盗難被害の日は同月二一日であるとする弁護人らの主張については(4)参照)。

(2) 窃取の日

牧田の証言によれば、牧田らがダイナマイト等を窃取したのは九月中、下旬の連休の終りの日、すなわち九月一五日(月曜日、敬老の日)又は同月二三日(火曜日、秋分の日)である、というのであるが、これは明らかに前記のとおり客観的に認められる盗難被害の日と相違する。しかるに牧田は、窃取の日に関する証言において、特にそのために祝日を選択したものとし、その理由についても具体的に縷々述べているから、右相違を記憶の混乱による単なる日にちの誤りと見ることは甚だ困難である。

(3) ダイナマイトの種類

島崎建設で盗難被害があったのは、前示のとおり、旭化成製三号桐ダイナマイト(三〇×一〇〇)である可能性が極めて高いと認められるところ、第四章一で判示したように、本件及び関連事件のピース缶爆弾に充填されていたダイナマイトは、旭化成製新桐ダイナマイトである。従って、窃取されたダイナマイトの種類が右のとおりである限り、牧田らのダイナマイト窃盗は、本件ピース缶爆弾の製造とは何らの関連をも有しないこととなる。

もっとも、被害ダイナマイトが三号桐(三〇×一〇〇)である可能性が高いと認められるのは、一にかかって前記明細簿に「九月九日に島崎建設が三号桐ダイナマイト(三〇×一〇〇)二二・五キログラムを購入した」旨の記載が存することに基づいているところ、右明細簿を子細に検討すると、例えば、「譲渡年月日」が必ずしも暦に従って逐次記載されていないとか、「現在数量」の記載に計数上の誤りが散見されるなど、ややずさんな記載が見受けられるばかりでなく、一四九回大浜信行証言二五九五八をも考えあわせると、右帳簿の記入にあたっては、月末における現在数量の突き合わせと確認に重点があり、日々の取引状況を正確に記録することには、あまり意が用いられていなかったことが窺われ、従って、前示記載の正確性にも疑いをさしはさむ余地がある。

そこでなお立ち入って証拠をみると、島崎証言によれば、島崎建設では、通常、主として新桐ダイナマイト(三〇×一〇〇)を購入して使用し、和井田商会に在庫がない場合には次善の策として三号桐ダイナマイト(三〇×一〇〇)を購入して使用したということであるほか、明細簿によれば、和井田商会には、三月二九日以降、新桐ダイナマイト(三〇×一〇〇)の在庫がなく、九月九日に至って新桐ダイナマイト(三〇×一〇〇)六七五キログラムが入荷しており、かつ、同日に三号桐ダイナマイト(三〇×一〇〇)二二・五キログラムが島崎建設に譲り渡された旨の前示記載と、同じく九月九日に新桐ダイナマイト(三〇×一〇〇)二二・五キログラムが興建社に譲り渡された旨の記載とが存する。

右の証言及び記載は、九月九日、和井田商会に新桐ダイナマイトが入荷する前に、島崎建設が次善の策として三号桐ダイナマイトを購入し、入荷後、興建社が新桐ダイナマイトを購入したことを示すもののごとくである。しかし、明細簿の記入には前記のとおりずさんな点があると見られること、同じ日に、種類は異なるものの、同じ大きさ(三〇×一〇〇)で同じ数量(二二・五キログラム)のダイナマイトが譲り渡されたものであることをも考えあわせると、その譲り渡し先である島崎建設と興建社とが逆に記載された可能性も否定できない。

結局、少なからぬ疑問は残るものの、牧田の証言するダイナマイト窃盗が、本件ピース缶爆弾の製造とは完全に無関係であると断定することはできない。

(4) 二一日盗難説

弁護人は、右明細簿(横書きの帳簿)には、九月二一日島崎建設へ新桐ダイナマイト(三〇×一〇〇)二二・五キログラムを譲渡した旨の記載があり、これに続く直下の欄に同月二二日折谷建設株式会社(以下単に「折谷建設」という。)へ新桐ダイナマイト(三〇×一〇〇)二二・五キログラムを譲渡した旨の記載があるが、後者の「資格」欄(同欄の記載は譲渡先が東京都から受けた工事許可の番号である。)には、折谷建設でなく、島崎建設の許可番号(四四―四八九〇)が記載されていることから、「譲渡先として折谷建設が記載してあるのは、島崎建設の誤記である可能性があり、従って、島崎建設は九月二一日及び同月二二日の両日いずれも新桐ダイナマイトを購入している可能性がある。このことは、結局、牧田らがダイナマイトを窃取したのは九月二一日であり、窃取したダイナマイトは、同日購入された新桐ダイナマイトであるとする余地を残すものである」旨主張する(最終弁論二一八三三八七七)。

しかしながら、譲渡先の名称と許可番号とを比較すると、前者の方がはるかに特定性に富み、これを誤記する蓋然性は後者の場合に比べて格段に小さいと考えられるから、九月二二日の譲渡先は、記載どおり折谷建設であり、大浜が原資料である庫出し帳から明細簿に転記記入した際、「資格」欄には、過ってその直上の島崎建設の許可番号を記入したものとみるのが相当である。なお、右明細簿には、同じ九月二二日に、折谷建設が導火線三〇メートル及び工業用雷管三〇本をそれぞれ購入した旨の記載があるが、右帳簿の記載一般からも知られるように、土木業者は通常ダイナマイト、導火線、雷管を同一機会に一括して購入する傾向が見られるから、九月二二日に折谷建設も同様な形で三者を一括購入したと考えるのが自然であるところ、右導火線購入の事実に対応する「資格」欄の許可番号の記載も「四四―四八九〇」となっていること、及び右雷管購入の事実に対応する「資格」欄の許可番号の記載が、当初「四四―四」まで書かれた上、折谷建設の許可番号である「四四―五一〇七」に訂正されていることは、右に述べた記載ミスのプロセスを強く推認させるものである。

ダイナマイト盗難の日が九月二一日であるとする弁護人らの主張は採用できない。

(三) 電気雷管の盗難

牧田証言は、電気雷管をも窃取したというのに対し、島崎証言は、盗難被害当時、電気雷管も庫外貯蔵庫内に収納保管されていたことは事実であるが、盗まれてはいなかったと思うと言うのであって、両証言は、この点において相違する。もっとも、この点に関する島崎証言は、さまで明確なものではない。

(四) 足跡

島崎証言によれば、盗難被害に気づいた際、庫外貯蔵庫の周囲に、夜露のおりたあと、朝露のおりる前についたと思われる二種類の地下足袋の真新しい足跡をも発見し、これを犯人の足跡であると考えた、靴の足跡ではなかった、というのであるが、右の証言は甚だ具体的であり、かつ、島崎は、発見したのが地下足袋跡であったことから、犯人は地元の者と考えた、そのことが警察に通報しなかった一つの理由であった、とも明言しており、ダイナマイトの盗難という、稀有かつ重大な出来事が発生した時のことであって、印象も特別に強かったことと思われるから、記憶の混同はまず考えられない。

しかるに、牧田証言では、牧田らは夕方に窃取し、かつ、窃取当時、いずれも靴を履いていたというのであり、当時の牧田が地下足袋を使用していたというような形跡も窺われず、右足跡が牧田らのものであるとすることはできないが、さりとて、同じ夜に、人里離れた庫外貯蔵庫の周囲に二つのグループが別々に踏み込むというのも偶然に過ぎよう。

この点に関する両証言の不一致は看過できないところである。

(五) 中段林道への昇降

牧田証言によれば、ダイナマイト等の窃盗の際、犯行場所へ赴くのに、天祖山中段林道から日原林道へ降り、窃取後、同じ道を登ったというのであるが、当時、牧田の供述する地点のあたりは、昭和四三年の林道工事により、林道山側の法面(のりめん)に、ほぼ垂直に通常人の背丈の二倍くらいの高さまでコンクリートブロックが積まれていたはずであって(島崎証言、(検)飼手義彦57・7・6実二五四二一)、牧田証言のいうように簡単には(とくに重い荷を背負っては)登り降りできる状態ではなかったものと認められ、このことは、牧田証言が真実の体験に基づくものであることに疑問を抱かせる。

もっとも、右は、牧田の降り立った地点がその供述するとおりであるとした場合のことであり、時日の経過により記憶が希薄化したため、牧田が誤まった地点を指示したと考える余地がなくもない。

(六) 火薬庫発見状況

牧田が、火薬庫(庫外貯蔵庫)を発見するに至った経緯、状況として述べるところは、前記島崎証言により認められる庫外貯蔵庫の人目につきにくい所在位置から考えると、あまりにもやすやすと、しかも偶然に目的を達したことになり、いささか不自然である。

(七) 爆弾の数量

牧田証言によれば、前記のとおり牧田らが製造したピース缶爆弾は五〇個以上一〇〇個以下であり、そのうち大村寿雄に渡ったものは四、五個程度、赤軍派に渡ったものは当初の四、五個の外、数十個、三潴を通して共産同叛旗派に渡ったものは、個数はわからないが、赤軍派に渡した数量とほぼ同等かあるいはそれ以上というのであるが、昭和四四年一〇月以後現在までに爆発し、あるいは押収されるなどしてその存在が明らかになったものは、前記第四章一で述べたとおり、一三個に過ぎない。真実牧田の証言するとおり、大量に製造及び配付が行われたのであれば、今少し多くの爆弾が発見、押収され、あるいは爆発している可能性が高いのではないかと考えられ、存在が明らかになったものが右の程度の数量にとどまることは、不審である。

4  まとめ

以上の諸点を総合して考察すると、牧田吉明が本件ピース缶爆弾の製造に深く関与しているのではないかとの嫌疑は、ある程度認められるものの、そうと断ずるには看過し得ない疑問点も少なからず存するのであって、弁護人らが主張するように、牧田証言は十分な信用性を具備し、本件ピース缶爆弾製造事件の真犯人を明らかにするものであるとは言えない。

三 若宮証言及び古川・荒木証言

弁護人らは、犯行の実行者である若宮正則の証言と、これを補強する古川経生及び荒木久義の各証言によって、八・九機事件は若宮の単独犯行であり、同事件につき起訴され、本件訴訟において審理を受けている村松、前原及び井上は、これと無関係であることが明らかになったと主張し(最終弁論二二三三三八七九)、検察官は種々理由を挙げてこれを争う(論告要旨一三九三三五八九)。そこで、以下、まず各証言の要旨を概観し、次いで各証言、特に若宮証言の信用性を吟味する。

1  各証言の要旨

(一) 若宮証言

若宮は、第八八回、第八九回各公判期日に、弁護側証人として出廷し、大要、次のとおり証言した(一一八七八、一二〇二一)。

自分は、昭和四四年九月五日に結成された赤軍派に当初から加入し、それ以来、同年一一月三、四日ころ、大菩薩峠の福ちゃん荘における赤軍派の集まりに参加するため出発するまでの間、国電大森駅に近いアジトに数名の仲間たちと共に居住していた。

同年一〇月二一日昼ころ、同アジトにピース缶爆弾一二個(六個ずつケーキ箱に入ったものが二箱)が持ち込まれ、一〇・二一闘争の際、そのうち三個が若宮のグループに配付されたが、同日はこれらを使用することができないまま、右アジトに持ち帰り、保管しておいた。

右闘争の失敗にかんがみ、自分は、少数の者によるゲリラ戦でなければ武装闘争はできないと考え、右爆弾を用いて国家権力機関に攻撃をかけようと企てるに至り、同月二四日夕刻、右アジトで一〇・二一闘争の際、仲間が持ち帰っていた中核派のビラに掲載されている新宿周辺の地図を見て、八・九機の位置を知ったので、これを攻撃の対象とすることとし、居合わせた二人の仲間にこの話を持ちかけたところ、一人は返事もしなかったが、一人は賛同した。

そこで、現場に行ってから、状況を見て、爆弾を置くなり投げるなりするつもりで、賛同した右仲間と共に、間もなく、右地図、保管中の前記ピース缶爆弾三個、手袋、マッチなどを布カバンに入れて携行し、アジトを出て、国電大森駅から、品川、五反田経由で新大久保駅まで行き、下車した後は徒歩で、八・九機やその周辺の状況を一時間ほど下見した。その途中、帰りの道筋を確めるため、一度新大久保駅まで戻っている。

下見の結果、八・九機内に忍び込むのは無理で、正門に対し、道路反対側の路地から投げるしかないと判断したが、同行した仲間の者が中止を主張したため、一人で実行することとし、仲間は、爆弾二個を持って帰ることとなった。自分は、仲間が現場を離れてしまうと思われるまで、三〇分ほど待ち、その間、近くの公園のような所の段階に五分間ほど腰をかけて休んだりした後、決行した。そのころはもう暗くなっていて街燈もつき、少し離れた人の顔は見分けがつかない程度であった。当初の下見の時には三人位だった正門付近の機動隊員が、五、六人に増えていた。

決行の際は、正門の反対側の路地の角で、導火線の切り口にマッチの頭を重ね、マッチ箱のやすりの方を動かす方法で導火線に点火した爆弾を、一〇メートルから一五メートル離れた正門目がけて投げ、そのまま反対方向に走って逃げた。右路地を入って一〇メートル程のところで右に折れ、一〇〇ないし一五〇メートル行ったら大通りに出て、右の方に複雑な道を通り、新大久保駅に戻った。逃げる時、路地のところで、白い犬を連れた中学生くらいの女の子にぶつかりそうになったのを覚えている。

アジトに帰ると、同行しなかった方の仲間がいて、事件のことをラジオが放送した、と言っていた。二〇分位して、同行した方の仲間も帰って来た。

導火線が踏み消されて爆発しなかったと報道されていたが、そんなことで消えるわけはないので、爆弾に不備があったものと思っていた。三、四日又は四、五日後、赤軍派幹部から、導火線が長過ぎて不発になるから短くするようにとの指示があり、残りの二個の爆弾の導火線を切り縮めた。これは八・九機事件の報道と関係があると思う。八・九機事件のことは、右二人の仲間以外には話しておらず、赤軍派幹部にも報告していない。

爆弾は誰がどこで製造したか知らない。赤軍派に関係のあるところが製造したものとは思っていた。

記録の中にある八・九機事件の爆弾の写真を弁護人から示されて思い出したが、(導火線の)切り口が斜めになっているのが、この爆弾の特徴である。

八・九機事件の当時、自分は、本件の被告人ら及びその関係者らは誰も知らなかった。被告人らは本件とは関係がない。

以上が八八回、八九回若宮証言の要旨であるが、その際、若宮は、検察官の反対尋問には一切応ぜず、裁判所側の発問にも一部答えない点があった。

若宮は、その後また58・3・15期日外尋問において、職権による証人尋問を受けている。その際供述したところは、おおむね右と同旨であるが、ピース缶爆弾の大森アジトへの持ち帰りの経緯が若干詳しくなっているほか、本件爆弾の導火線切り口の特徴に関し、本件当日、大森アジトを出発する時、点火しやすいように三個の爆弾の導火線の先端を安全カミソリで斜めに切った、長さを調節する趣旨ではない、その折、仲間の者が持ち帰った二個の爆弾は、その後導火線を更に切り縮めたので切り口はまっすぐになっているはずであると述べ、また導火線の点火方法につき、しゃがんで、爆弾を地上に置いて点火したと述べるなど、供述がより詳細になっている。しかし、検察官の発問には一切答えず、裁判所側の尋問にも一部答えない点があったのは前回同様であった(三二六二二)。

(二) 古川証言

古川は、第九二回、第九三回各公判期日に弁護側証人として出廷し、大要、次のとおり証言した(一二八五一、一三〇一三)。

自分は赤軍派に属し、昭和四四年一〇月一五、六日ころから同月二五日朝大阪に向けて帰るまでの間、一〇日ほど、大森アジトにいた。同月二一日前後、右アジトには、若宮正則、荒木正義のほか、何人かの赤軍派関係者もいた。

一〇・二一闘争の一、二日前の夜、大森駅近くの喫茶店で、ピース缶爆弾一一個又は一二個(六個入りの紙箱二箱)を受け取り、大森アジトに持ち込んだ。

一〇・二一闘争の際、東薬大近くの集合場所で、ピース缶爆弾一個を渡され、結局使えないで持って帰り、アジトの押入れに隠した。一〇月二四日ころには、ピース缶爆弾はアジトに二、三個あった。

一〇月二四日若しくはその前日、アジトで若宮が「前進」の地図のような感じのものを見て、八機隊舎に爆弾を使うことを決めた。九月末から一〇・二一闘争まで、赤軍派の行動がすべて不発に終ったことに対し、自分自身を含め、みんなの中に不満があったので、はね上がりのような形で、中央に知らせず、単独でやろうということになった。荒木もいたが、やめると言ったので自分と若宮がやることにした。

二四日午後、爆弾二個(三個かも知れない)のほか、手袋やマッチを持って、二人でアジトを出た。隊舎前まで行くと、隊員がいたので、やばいからやめようと若宮に言ったが、若宮は、ここしかやるところがない、俺一人でもやると言ったので、爆弾を一個渡して、あとの爆弾(多分二個)は持って帰った。

途中、平和島アジトに立ち寄り、大森アジトに帰ると、若宮も帰って来た。荒木もいて、機動隊を二人組か三人組が襲撃したニュースが流れたと言った。やったのは一人なのにおかしいと思った。

若宮は、投げたけれども音はしなかったと言っていた。

八機攻撃のことは、出発前、上部に連絡していない。そのことでわだかまりはあった。事件の夜、大森アジトで上部に連絡するという話が出たこともない。若宮は、ここにおる者だけで、他の者には絶対言ったらいかんとわれわれに口止めしたように思う。

以上が古川証言の概略である。なお、古川がその後にした九部一七七回証言一六〇七一も右とほぼ同旨である。

(三) 荒木証言

荒木は、第八七回公判で、検察官及び弁護人双方請求にかかる証人として証言したが、その関係供述の大要は次のとおりである(一一五八六)。

自分は、昭和四四年九月の赤軍派結成以来のメンバーで、同年一〇月二〇日及び同月二二日から同年一一月三日に福ちゃん荘に出かけるまでの間、同派大森アジトにいた。

八・九機事件は知っている。赤軍派の行動とは言いかねるが、赤軍派構成員の仕業である。その計画が立案されたのは直接知っているが、実行されたことは、その実行者から聞いたものである。

事件当日の午後、右実行者は、「前進」に掲載されていた地図を見ながら、ここにこんなのがあるわ、この機動隊舎を攻撃しようか、と言った。自分は党の指令によらない行動をする気はなかったので、同調せず、無視した。その者は、もう一人の仲間と出かけたので、下見にでも行ったのかと思っていたら、夜遅く帰って来て、一人でやった、と言っていた。その前にラジオの臨時ニュースで、三人の男が機動隊に爆弾を投げ込んだが、踏み消したので事なきを得た、と言っているのを聞いた。

実行者は、二人で行ったがもう一人のほうは脱落したと言っていた。日にちは一〇・二一闘争の日から間もない二四日ころと思う。

「前進」の地図を見て、こんなものがあるわと言ったのは、当時の小隊長で、若宮正則である。

本件被告人らは、八・九機事件とは無関係である。

以上が荒木証言の概略である。なお、荒木がその後にした九部一六四回証言一五九六二は右とほぼ同旨であり、58・3・15証言三二六八六は、直接、右の点に触れるところがない。

2  各証言の信用性に関する肯定的事情

各証言、特に若宮証言の信用性を肯定すべき方向に働くと考えられる事情として、次のような諸点を挙げることができる。

(一) 三証言の一致

若宮、古川及び荒木の各証言は、いずれも非常に具体的で臨場感に富み、かつ、内容的にも、大筋では相互におおむね一致、符合しており、謀議の状況、八・九機の下見の経路及び状況、八・九機事件後の大森アジトへの帰還状況等について、部分的には食い違いを見せる点もあるけれども、これらも、時日の経過による記憶の変容、消失などとして理解できなくはない程度のものである。

(二) 単独犯行

若宮、古川及び荒木各証言とも、八・九機事件は若宮の単独犯行であるとするが、当裁判所の認定によっても、第四章一1(一)(6)のとおり、同事件の犯人は一人である可能性が高い。

(三) 「前進」の地図

若宮、古川及び荒木の各証言は、八・九機が攻撃の対象とされた事情について、犯行当日の夕方、若宮が、アジトにあった中核派のビラ(三日前の一〇・二一闘争の帰途、仲間の者が入手して持ち帰っていたもの)に掲載されている新宿周辺の地図を見て八・九機の所在を知り、これを攻撃目標に決めたとするところ、日付及び記事の内容から見て当時のものと認められる中核派機関誌「前進」の四五五号(一九六九年一〇月一三日付一一九七八)には、その第三頁に大きく新宿周辺の地図が掲載されており、しかもその中には八・九機の所在が明示されているのであって、このことは、右各証言を裏付けるものと言うことができる。

(四) 経路の状況(若宮)

若宮が、八・九機に至る経路及び八・九機付近の状況、例えば、戸山ハイツ都営住宅前付近において大久保通りから南側路地に右折する付近の状況、抜弁天交差点付近の状況、八・九機東側のガソリンスタンドの存在、八・九機西側外塀の状況等について証言するところは、おおむね客観的事実に符合する(九部54・8・30検証一四六八二参照)。

(なお、古川証言中、この点に関する部分も、おおむね客観的事実に符合するが、古川は公判証言に先立ち、検察官による現場引き当たりを受けているので、右符合をさまで重視することはできない。)

(五) 導火線の切断(若宮)

若宮証言によれば、若宮は、八・九機事件決行のためアジトを出る際、爆弾の導火線の先端を、点火しやすいように若干短く、斜めに切断したというのであるが、この証言は、八・九機事件に使用されたピース缶爆弾の導火線が、第四章一4(三)で指摘したように、中野坂上事件のピース缶爆弾の導火線よりも短く、他方、その後、赤軍派上層部からの指示により導火線を切断短縮したという福ちゃん荘事件及び同様に短くされたと思われる松戸市岡崎アパート事件の各ピース缶爆弾の導火線よりも長く、かつ、軸方向に対し直角に切断されたと認められる中野坂上事件及び福ちゃん荘事件の各ピース缶爆弾の導火線と異なり、その先端が斜めに切断されているという客観的事実に符合する。

(六) 点火方法(若宮)

若宮は、導火線の点火方法について「導火線の切り口にマッチの頭と重ね、マッチの箱のやすりの方を動かして導火線に点火した」と証言するところ、検察官は、そもそも本件導火線が現実にどのようにして点火されたかを認めるに足りる客観的証拠は何ら存しないのであるから、右証言は秘密の暴露にあたらず、右の点が証言の真実性を示すものでもないと主張するが(論告要旨一四四三三九五二)、若宮の証言する方法も、実用的な導火線点火方法の一つであることが認められ(一二回福山仁証言⑥一二六九、一三〇七)、若宮がこのような点火方法を証言し得たということは、指摘されてよい事実である。

(七) 正門前の警備状況(若宮)

若宮は、八・九機正門付近の警備状況につき、下見の段階においては機動隊員が二、三名いただけであったが、爆弾投てき時には、機動隊員が五、六名に増えており、隊舎正門に向って右側路上付近にいたと証言するが、右は、当時、正門付近で勤務していた隊員らの供述等から認められる客観的事実に符合する。

(八) 犬を連れた女の子(若宮)

若宮は、爆弾投てき後、花寿司横の路地を引き返し、余丁町通りに通ずる最初の路地を右折して逃走したが、その際、右路地の角付近で白い犬を連れた中学生くらいの女の子とぶつかりそうになった旨証言するところ、右「女の子」は、以下に判示するとおり、事件直後、現場近くの自宅前路上を余丁町通り方向に逃走していく一人の男を目撃した高杉早苗(第四章一1(一)(5)参照)である可能性が強く、そうすると、若宮証言の右部分は、現実に体験した者でなければ供述できない事項を述べるものとして、一種の秘密の暴露にあたるといえるわけである。

検察官は、この点に関し、高杉は、自宅前路地を逃走していった男について、「長髪で眼鏡をかけた男」と述べており、右供述の信用性は高いと認められるところ、若宮は当時、短髪であり、かつ、眼鏡を使用していなかったことが、同年一一月五日同人が大菩薩峠事件で逮捕された際の写真((検)増田暢也54・7・14報一四八七九)によって明らかであり、また、高杉早苗は当時二三歳であって、若宮のいう「中学生くらい、せいぜい高校生まで」とでは年齢的に全く符合せず、更に、高杉のいたという位置と若宮が女の子とぶつかりそうになったと称する位置が食い違うほか、高杉は犬を連れていなかった旨供述していることに照らすと、同女が目撃した男は若宮ではあり得ず、従ってまた、投てき後、高杉方前路地を通って逃走した旨の若宮の証言も虚偽であると主張する(論告要旨一四五三三九五二)。

若宮証言と高杉供述(証言)の間には、遭遇状況、遭遇地点、あるいは服装等について、検察官が指摘する点以外にも相違が存するが、右遭遇は、高杉にとっても、若宮にとっても、瞬時の出来事であったはずであるから、互いに相手について正確な認識をなし得たとは考え難く、右の相違はあまり重視すべきではないであろう。現に、犯人を追跡し、直後に高杉方前路上に立ち至った加藤清五巡査も高杉早苗に遭遇しているが、同巡査さえも高杉を「若い高校生くらいの年の女の子」と述べているところである(加藤清五48・2・17員面一七七八二。なお一一九回加藤清五証言一七七〇五)。また、若宮は、八・九機事件の際には眼鏡をかけていた可能性があり(八八回若宮証言一一八九八、一一九〇七、58・3・15同三二六七八、九二回古川証言一一九一三、若宮発仙谷由人宛はがき、符六二号)、五三回高杉証言⑳五七五七、五七七〇によれば、遭遇当時、高杉方前路上には、そのころ同女方で飼っていたという犬がいた可能性も否定できない。

なお、若宮は、逃走経路につき、高杉方前を通り過ぎた後、都電通りに通じる最初の路地(三差路)を右折することなく余丁町通り方面にまっすぐ逃走したと証言するのであるが、これは高杉が犯人の逃走経路として述べるところと符合することも指摘される。

以上の諸点を考慮すると、若宮が遭遇したと述べる「女の子」は、高杉早苗である可能性が高く、このことは、前記のとおり、若宮証言の信用性を肯定すべきものとする事情の一つであると言うことができる。

3  問題点

しかしながら、他方、若宮証言については、その信用性に関し、以下のような問題点の存することもまた否定し得ないところである。

(一) 反対尋問の拒否

若宮は、前記のとおり(1(一))、証人として出廷しながら、検察官の反対尋問に対しては一切の供述を拒否し、裁判所の尋問に対しても、いくつかの事項につき供述しなかった。そのことが、若宮証言の信用性を減殺する方向に働くものであることは否定し難い。

(二) 赤軍派上層部との関係

第四章一3(三)(1)イで触れたとおり、昭和四四年一一月五日発覚した福ちゃん荘事件に先立ち、赤軍派幹部の指示により、同月二日ころ、同派の木村一夫が、保管中のピース缶爆弾の導火線を切り縮めた事実がある。そして、その理由として、福ちゃん荘において、集結した者らに対し、「もとのままでは導火線が長過ぎ、投げたとき踏み消されて失敗した」との趣旨の説明がなされたということである(酒井隆樹44・11・26検面一一八〇五、木村一夫44・11・17検面一一七五〇等)。

このことは、八・九機事件に赤軍派が組織として関与していること、少なくとも赤軍派上層部が八・九機事件失敗の報告を受けてその対策を講じたことを窺わせるものであるが、若宮らは赤軍派上層部に同事件について報告したことはない旨明言しており、不審な点がないでもない。

もっとも、八・九機事件は、発生後直ちに報道されており、当時の新聞記事((事)野口進58・1・24報二六五一二)によると、機動隊員が導火線を「足でもみ消した」ため爆発しなかったと伝えられていた模様であるから、赤軍派上層部が、これらの報道に基づき、独自に右のような指示をしたことも考えられる。

(三) 下見の経路と所要時間

下見の経路として、若宮は、「八・九機前に到着した後、再び新大久保駅に戻った」旨証言するが、古川はそのような事実は記憶がないと証言する。若宮が主導的であったのに対し、古川は追随的であったため、経路についての記憶が十分でないとも考えられるものの、右下見は、八・九機攻撃を目前に控え、相当な緊張感の下に行われたものと推認され、その意味では印象深いものであったはずであるのに、右両名の証言が右のように大きく相違するのは、いささか理解し難い。

また、新大久保駅から八・九機まで徒歩で行くのに要した時間を一五分から二〇分、あるいは一〇分などとする若宮の証言(一一八九〇、一一九三二)は、客観的事実(九部54・8・30検証一四六九三)に反する可能性もないではない。もっとも、事件から一〇年を経た後における証言であることを考えると右の相違は記憶が希薄化した結果であることも考えられる。

(四) 出世稲荷付近の状況

若宮が、単独犯行を決意し、古川が現場から完全に離れるのを待つ間暫く休んだ場所として述べるところは、新宿区余丁町所在の余丁町東児童公園(出世稲荷境内)を指すもののように解されるが、子供の遊び場があり、遊具があった旨の証言は、客観的事実(同公園は昭和四六年四月二六日開園であって、八・九機事件当時は子供の遊び場はなかったと認められる。九部54・8・30検証一四六八二、新宿区長55・3・18回答一四九八六、森本宏一郎54・9・25写報一六九二二)に相違する。また、同境内は当時駐車場として利用されていたのに、若宮は駐車車両の存在を否定するが、この点も客観的事実に相違するところである。

いわば通りすがりに、わずかの時間を過ごしただけの場所であるから、そもそも十分な観察、記銘がなく、証言時までの時日の経過による記憶の消失、変容もあるであろうけれども、一応問題点の一つとして指摘すべきところである。

(五) 投てき状況

若宮は、8・3・15証言において、自分は左ききで、投てきの際も左手で投げたと供述するところ(三二六五〇)、投てきを目撃した機動隊員河村周一は、犯人が野球のピッチャーのような恰好で、右手で投げたと証言する(⑬三五五一)。もっとも、右の点が河村の見違いあるいは思い違いではないとするだけの確実な根拠も見当たらない。

(六) 検察官の主張

検察官は、若宮証言が、八・九機事件は上層部の指令に基づかない独断専行の所為で事後報告もしていないとする点につき、当時の赤軍派の組織状況、活動状況に照らし、一構成員が貴重な武器である爆弾を独断で使用するようなことが許されるはずがなく、万一そのようなことがあれば統制違反に問われると思われるのに、若宮がそのような措置を受けた形跡もないから、右証言は措信できないと主張するが(論告要旨一五〇三三九五四)、八・九機事件当時、結成後二か月にも満たず顕著な実績も挙げていなかった赤軍派が、検察官の想定するような強固な組織となっていたとは考え難く、他に構成員の独断専行が統制違反として処分された事例の存在を認めるべき証拠もなく、むしろ、若宮証言及びこれを裏付ける古川、荒木各証言の伝えるところが実態に近いと考えられる上、若宮が八・九機事件に用いたという爆弾は、本来、一〇・二一闘争において警察署襲撃等に使用すべく配付されたもののいわば使い残りであるから、これを用いて、はね上がり的に機動隊攻撃を試みたとしても特に不思議はないと思われる。

検察官はまた、若宮が荒木に宛てて出した昭和四八年七月七日付封書に、「八・九機事件はデッチ上げらしいです」との文言が見られることを指摘し、これは若宮が同事件につき伝聞的知識しか有しないこと、すなわち犯人でないことを示すものであると主張するが(論告要旨一五三三三五九六)、右封書は、その封筒の記載自体からも明らかなように、東京拘置所在監中の若宮が、大阪拘置所在監中の荒木宛に発したもので、発受双方において検閲を受けるのであるから、若宮が、いまだ捜査当局に知られていない自己の重大な余罪についてあからさまな記載をすることは考え難く、58・3・15証言において、若宮が、でっち上げで逮捕されている人があるということをこういう書き方で知らせた、当時、直接自分がやってると書いたら大変だから、自分がやったようには書いてない、などと述べるところは(三二六八一)、首肯することができる。

検察官の主張には、いずれも賛同できない。

4  まとめ

以上の諸点を総合して考察すると、八・九機事件は若宮の単独犯行であるとする若宮証言及びこれを補強する古川並びに荒木の各証言は、相当高度に信用すべきもののようであるけれども、他面、右に指摘したような問題点がなお残されているのであって、犯人は若宮であると断定するまでには至らず、弁護人らが主張するように、これらの証言によって被告人らは八・九機事件に無関係であることが判明したとは言えない。

四 むすび

以上検討したとおり、本件ピース缶爆弾製造事件及び八・九機事件について、その「真相」を述べ、被告人らは犯人でなく、事件と無関係であるとする牧田証言及び若宮、荒木、古川各証言は、かなりの真実性を示し、被告人らが犯人でないとした場合におけるあり得べき事実経過の一つを窺わせるものとして、本件の結論にも、いくばくかの影響を及ぼさないわけではないものの、なお少なからぬ問題点を残すため、全面的には信用することができず、これらの証言によって本件事案の実体的真実が解明され、「真犯人」が確定されたと言うことはできない。それ故、右各証言をもって、右各事件につき、被告人らに対し無罪を言渡すべき直接の根拠とはしない。

第一〇章結語

本件は、昭和四七年一一月、村松及び佐古がそれぞれ法大図書窃盗につき起訴されたのを最初とし、翌昭和四八年四月までの間に、井上の法大図書窃盗、村松及び佐古のタイヤ窃盗のほか、ピース缶爆弾事件、すなわち、アメリカ文化センター事件、八・九機事件及びピース缶爆弾製造事件について、被告人四名及び佐古が逐次起訴された一連の事案であるが、はじめにも述べたとおり、そのうち、ピース缶爆弾事件については事実関係が全面的に争われ、第一〇二回公判以降、防御の方法につき意見を異にした佐古を分離して、結局結審に至るまで一六一回公判期日を重ね、その間、五〇余名の証人を尋問し、採用された証拠書類は八〇〇余通、証拠物は一二〇点余に上っている。証人の中には、内藤の一二期日をはじめ、増渕の一〇期日、菊井の九期日及び牧田の七期日のように、多数回にわたって証言を聴いた者もあり、また、捜査段階で自白をした被告人らについては、供述経過及び事件発生当時の行動状況その他の関連事項につき、その弁解し、あるいは主張するところを、同様、多くの期日にわたってつぶさに聴取した(分離前に限っても、佐古で一四期日、前原で一〇期日、村松で七期日を数える。)ほか、関連事件を審理した他の裁判体におけるこれらの者に対する証人尋問あるいは被告人質問の各調書等をも多数取調べた。その結果、本件記録は一四〇余冊三万数千丁に及んでいる。

いうまでなく、これらのぼう大な証拠資料は、すべてが一致し、おのずから一定の方向を指し示すようなものではなく、相互に矛盾し、あるいは背馳し、更には激しく対立する点を多々含むのであって、形式的に見る限り、ほとんど帰一するところを知らないと言っても過言ではない。

けれども、同時に、その至るところに、明らかに、あるいはひっそりと、重要な真実の断片がちりばめられているのであって、当裁判所は、その職責として付託されている事案の解明と実体的真実の発見のため、これらにつき、逐一、慎重な検討を試み、その評価に肝胆を砕いた。

その結果が、上来説示したところである。

右説示は、量的に必ずしも少ないものではないが、なお、心証形成のことごとくを言い尽くしたとすることはできないのであって、いわば最も重要と認められるところをかいつまんで述べたにとどまり、他にも論ずべき点、あるいは一層の説明を加えるべき点は多々存し、挙示引照に値する証拠は判示したもの以外にも夥しいのである。証拠の内容を引用摘示するにあたっても、おのずから物理的な制約があり、十数丁、数十丁に上る調書、速記録の記載を数行、十数行にとりまとめざるを得ず、言葉遣いのニュアンスをそのままに表現することも断念しなければならないし、直接聴取した供述者の音調語勢、挙措動作もまた描写の限りではない。

しかしながら、右に述べた限度においても、既に結論は明らかであると考える。

被告人らに対しては、本件各公訴事実につき、犯罪の証明がないものとして、刑事訴訟法三三六条に従い、無罪を言い渡すべきものである。

よって主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 田尾勇 裁判官中山隆夫及び裁判官毛利晴光は、転補につき署名押印することができない。裁判長裁判官 田尾勇)

〈以下省略〉

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